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【小説】宇宙うさぎ17

 ダイコク編集長の話を聞きながら、私は幼い時のあの出来事を思い出していた。私は子どものころ画家になりたいと思っていた。きっかけは単純で、幼稚園の先生にクレヨンで描いた絵を褒められたからだ。

 ――すごいねえ。長いおさかなさんが泳いでるね。
 ――そらをとんでるんだよ。
 ――おさかなさん、空を飛ぶの。かっこいいね。
 ――これ、りゅうっ。
 ――龍?
 ――えほんのりゅう。
 ――あ、お昼寝の前に見てた絵本ね。
 ――りゅう、すーいすいってとぶよ。

 そう言って私は両手を空にのばし、跳ねた。遠くの空には龍がいた。黄金に輝く細長い生き物。先生は驚いた様子で、でも一緒に跳ねてくれた。

 ――龍、すーいすいって飛んでったねえ。すごい絵だねえ。

 すごい絵。嬉しかった。それから頭を撫でられた。

 ――もう一枚描けるかな?
 ――いっぱいかくよ! まゆみせんせいにあげる。
 ――ありがとう。

 微笑む先生。喜んで跳ね回る私。なんて懐かしい……。こんな記憶を思い出したのは、ダイコク編集長が、私にはなんだかおかしな能力があると説明し始めたからだ。

 ――君が書くと、世界が何重にもなるんだ。

「山田、これは冗談に聞こえるかもしれないが、本当だ。僕の同居人の産山うさぎは君の能力を、世界を分裂させてしまうものだと言ったが、僕は分裂だとは思わない。世界は何重にも積み重なっている。正確には世界を増殖させる、だと思うんだ」

「いい才能じゃないですね。書くことへの重圧が高過ぎますよ。怖くて何も書けないです。ライター廃業です」

「コントロールはできる」

「コントロールって、書かないことが一番ですね」

 私は諦めを吐き捨出すように言った。

「それじゃ解決にならない。君を選んだ理由は、君にしか書けない、君の能力でしか救えない生き物たちの物語があるからだ」

「物語って……」

「僕では無理なんだ。僕が書くと化け物は生まれるが、世界は変えられない。君なら、世界が変わる。今この現在の世界は在り続けるが、有り続ける世界を何層にもできるんだ。世界は一枚のぺらぺらな紙じゃない。何層にも積み重なった深くて広い海なんだ。無限の積み重ねに一枚の物語を書き加えてくれ」

 こんなことを言われるなんて予想外だった。私は、あの違和感のある写真の真偽を確かめたかっただけなのに。こんなことが起きても、動植物園の話や虚ろな目の動物たちの写真は全部ダイコク編集長の作り話で、何かダイコク編集長には私欲があって、だから自身のために怪しげなことをしていて、それは実は笑い話にできる程度のことで……、なんて淡い期待もあった。でもやっぱり現実は、そう都合よくはできていなかった。

「それで、あの写真は結局何なんですか」

「天女様が僕に渡してきたんだよ」

 天女様……。あの少年の夢を見せた女の人。

「天女様と呼ばれる女の人には、動植物園で会いました」

「そうか。会ったか……」

「というか、ミラーハウスに入ったら連れ去られました」

 ははと笑って、ダイコク編集長は氷が少し溶けたアイスコーヒーを口へ運ぶ。喫茶店に来ていることを忘れかけていた。私もアイスコーヒーをひと口飲む。冷たい液体が体内を流れる。

 静かだ。

 外を見た。喧騒が、喫茶店のドア一枚を隔てて別世界のように感じた。真夏の暑さも、蝉の鳴き声も、街中の雑踏もドア一枚で別世界になるこの空間。これも世界のうちの一枚の層なのだろうか。一枚の層の端っこの、ちっぽけな、私の空間。私の世界……。私は、書くことが好きで、書くことが怖い。怖いが、書かなければ。私は、私の世界は、結局自身で作り出さなければ……。
 アイスコーヒーをもうひと口飲んだ。そしてダイコク編集長を見た。

「昨日、宇宙うさぎたちと計画を立てたんです」

 へえ、と言ってダイコク編集長は先を促す。

「人手が足りないので協力してください。私も、みんなを救うための物語を書きますから」

 ダイコク編集長はうなずいてくれた。そして、

「じゃ、買い出し行こうか」、と。
それから、「助っ人も呼ぶよ」と言った。


続く

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