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【小説】宇宙うさぎ22

 カンガルーが距離を取り、地面にぐっと腰を落とす。

 ――来る!

 カンガルーの両脚が満月の顔面に迫ってきた。

 ――この時を待っていたぜ。

 本気の一発を放ってくれなくては俺に勝ち目はない。カンガルーが両脚を地面から離すとき、支えはしっぽのみとなる。

 ――その立派なしっぽ、弱点だ……。

 満月は「足ダン」をした。後ろ足を地面に叩きつけて地中の仲間へ信号を送るこの足ダンはオケラたちへ伝わった。カンガルーのしっぽの両脇から一斉に数百のオケラが飛び出し、モグラのような前脚でがっちりとその支えを掴む。柔らかな土にカンガルーのしっぽが少しだけ沈み込む。それにより、満月の顔面をとらえていたはずのカンガルーの両脚は、満月の頭上をかすめ、空を掻いた。満月は同時に地面を蹴り、オロチの背に乗る。オロチがカンガルーの両脚の下を目指し一直線に泳いだ。そして急停止。飛び出す満月。カンガルーの睾丸まで一つの線で結ばれたかのように満月の頭は進んだ。
 音よりも、光よりも速く――。
 満月の頭は熱くなった。このまま過熱してゆき、熱くなって、熱くなって脳みそがプラズマ化してしまったらどうしようかと思った。そしてついに満月の頭がカンガルーの睾丸へめり込み、カンガルーはあまりの衝撃に悶絶する間もなく気絶した。満月は立ち上がり、勝利の雄叫びを上げた。

「てめえの睾丸、ラッキーポーチにしてやるっ」

 しかし脳みそへの衝撃が強く、カンガルーへ捨て台詞を吐いたあと、満月も倒れた。カンガルーが両脚を蹴り上げてから、この間わずか一秒の出来事であった。
 オケラたちが、勝鬨の声を上げた。

 冷たい。柔らかな粒。ああ、雪だ。雪だ……。肌を刺す氷の空気に綿毛の雪粒が混ざって、これは、春を待つ草千里の空気だ。綿毛は降り積もって、風に飛ばされて、また地面に舞い降りる。そうやって何度も何度も氷の空気の中を泳いで、最後はただ静かにさらりと転がり降りて、じわりと消える。寒くてつらい冬の季節にわずかにぬくい陽光を白い雲が遮っても、この綿毛が舞って泳いでころころしてくれたら寂しくなかった。宇宙うさぎの俺にとって雪は、心躍らせる冬の花だったのだ。

 ……本当に?

 あの時、あんな賭け事をしなければ……。目玉を賭けで失くした後、宙を見上げるたびに、奥歯をかみしめた。寂しかった。本当は雪遊びでは満たされなかった。草千里の夜空を見て、宙へ帰りたいと何度も思った。ああ、寂しかったのだ。戻れぬ故郷がどうしても恋しくなっていたのだ……。

 目が覚めた。空から雪は舞って来なかったが、代わりに山田と人間たち、オケラたち、そして同志たちが顔を覗き込んでいた。

「俺は大丈夫だ」

 やつは、と言いかけて横を見ると、うなだれて座るカンガルーと天女様。

「もう、箱庭はお終いだ」

 そう言ってぼろぼろと涙を流すカンガルー。天女様はその涙を羽衣でそっとぬぐう。

「お終いでいいのよ」

 カンガルーが天女様を見上げる。

「みんな生きていけない。怖い、怖い。約束も守れない」

「大丈夫。お終いの後に新しい生き方を始めましょう。みんなで」

「みんなで……」

「だから、この目玉、宇宙うさぎに返してあげてね」


続く


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