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アメリカにおける日本アニメ発展の歴史

アメリカ人のお客さんから聞いた話を日本語訳にしてシェアしています

プロローグ

アメリカの日本アニメ史の中で、メジャーなタイトル全てとそうでないもののいくつかをリストアップしました。マイナーな作品の中には私も知らないタイトルが数多くあります。これからアメリカの日本アニメ史をあなたにお話する前に、日本アニメがどのように放送されているのかの背景をお話しておく必要があります。

アメリカでは日本アニメは、日本での放送とかなり違った形で放送されています。全てのオリジナルのセリフや時にはサウンドトラックも取り除かれて、新しく英語版の為のものに代えられます。アメリカでは日本アニメを放送する前に編集しなければいけない決まりがあるのです。というのも、ヌードや暴力的な表現、汚い言葉を取り除かなければいけないからです。

以前は、アメリカで放送される、日本アニメのキャラクターには別のいかにもアメリカっぽい名前が付けられていました。例えば、マクロスの一条輝(イチジョウヒカル)はこちらでは"Rick Hunter"でした。こられのアニメは5-14才を対象に放送されていたので、その年代の子供達が日本名では作品に入り込み辛いと考えられたからだと思います。

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現在は、ほとんどの日本アニメのタイトルやキャラはそのままの名前で放送されています。BGMも同じな場合がほとんどです。唯一違う箇所はヌードや暴力的な表現、汚い言葉を取り除いている事と日本語ヴォーカルの曲の多くは英語版に代えられている事です。

それでは歴史についてお話します。

1967-1980

※日本アニメがアメリカで人気が出た経緯を話す際に、日本でのタイトルの後に、英語のタイトルを( )の中に書きますので、こちらでどう呼ばれていたかわかってもらえると思います。

日本アニメは1967年頃はじめてアメリカで放送されました。初期の作品は「ジャングル大帝」(Kimba The White Lion), 鉄腕アトム(Astro Boy), 8マン(8th Man),鉄人28号(Gigantor), 海底少年マリーン(Marine Boy), そしてワンダー3(Amazing Three)などでした。

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これらの作品は人気がありましたが、ほとんどの視聴者は子供でした。反応がよかったので、アメリカのテレビ会社はもっと多くの作品の放送を決めました。77年に放送された作品が「マッハGoGoGo」(Speed Race)とガッチャマン(Battle of the Planets)、そして鉄腕アトム(Astro Boy),と鉄人28号(Gigantor)は再放送されました。

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1981-1984

1980年から1989年はアメリカでの日本アニメにとってとても重要な時期でした。この時期に絶対的な人気を確立したのです。また、ちょうどこの時期に日本アニメの内容も複雑になっていきました。

1980年代の前半には「ガッチャマン」が再放送されましたが、最初の放送とはキャラの名前も変わり、構成も変えられました。"Battle of The Planet"は"G-Force"に変わり、声優も全員代わったのです。そのころ「マッハGoGoGo」と「鉄腕アトム」が再放送されました。

1983年には「宇宙戦艦ヤマト」が放送され、とても人気がありました。当時としては珍しく3シリーズ全てが放送されました。基本的には全65話というのがアメリカのアニメの主流だったのです。

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また同く1983年に「進めレオ!」(Leo The Lion)が放送されました。またオリジナルの白黒バージョンの「鉄腕アトム」ではなく、カラーバージョンが放送されました。その後は白黒版の放送はなく、ビデオ化もカラー版のみされました。

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1984年には「ユニコ」(unico)が放送され、このタイトルは80年代に何度も再放送され、ビデオ化もされました。

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激動の1985年パート1

1985年はアメリカの日本アニメにとって、とても重要な年になりました。多くのメジャーな作品が放送され、大きなマーケットになっていったのです。

「トランスフォーマー」(Transformers)がこの年のはじめの作品でした。その人気は「宇宙戦艦ヤマト」を上回り、登場するメカを元にした、たくさんのトランスフォーマーのおもちゃが発売され、1986年には映画化もされました。

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"Silver Hawks"と"Thunder Cats"もとても人気がありました。キャラクター商品もたくさん発売され、それを受けて多くのアメリカの企業が日本のオリジナルアニメにオファーを出しはじめました。日本アニメのスタイルは主流になり、多くの企業がアメリカでのアニメ化を願ったのです。"Rainbow Bright"はその典型といえるでしょう。

この作品は、アメリカのグリーティングカードメーカーの"American Greetings"が、多くの人形を売るために、彼らがキャラや話を作り日本の技術でアニメ化されたのです。

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激動の1985年パート2

1985年には複数の異なる作品をまとめて1つの大きな物語にする手法が登場しました。アメリカでは65話かそれ以上の話数が主流ですが、日本アニメの話数はそれには足りず、そこでいくつかをまとめて大きな話にしたのです。その手法で一番の成功を収めた作品が"Robotech"です。

"Robotech"は「超時空要塞マクロス」「超時空騎団サザンクロス」「機甲創世記モスピーダ」の3つの作品をひとつにした作品で全部で85話になりました。※この3つの作品の話数を足すと84になるが、「マクロス」と「モスピーダ」の話をまとめた回が新たに作られた。

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"Robotech"はアメリカでのヒットを受けてイタリア、フランス、カナダ、スペイン、イギリスそして南アメリカでも放送された珍しい作品でした。また、おもちゃやサントラのLP、アメリカ人が作家の漫画も発売されました。

"Robotech"は大きな成功を収め、子供と大人両方の人気を獲得しました。その結果、映画化が決定ました。この映画は「メガゾーン23」を大幅に編集したものでした。その内容は「サザンクロス」にアメリカ人が書いた新しい「メガゾ-ン23」のエンディングを付け加えたものでした。その作品は日本の「メガゾーン23partⅡ」LDのボーナス映像に収録されているので、もしかしたらあなたも観た事があるかも知れません。

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残念ながら、"Robotech"の映画版はあまり人気がありませんでした。話の内容は「サザンクロス」のサイドストーリー的だったのですが、TVシリーズとうまくリンクしていませんでした。また映画の中でTVよりも過激な表現が多く、多くの保護者から非難の声が出ました。

"Robotech"映画版は限られた劇場で、しかも1986年の夏に2,3週間のみの上映となったのです。(ビデオは上映された各劇場で売られていました) その後この作品が放映された事は今日までありません。

"Robotech"映画版は他の国でもビデオ/LD化されたのですが、そちらも芳しくなく、ビデオは少ししか売れず、LDはさらに少ない数しか売れなかったそうです。現在では全ての"Robotech"シリーズがDVD化されていますが、映画版だけはされていません。多くのファンがDVD化を求めているのですが、理由はわかりませんが、権利を持っている業者が発売しないでいます。

ロボテックの悲劇

"Robotech"が当たったので、"Gold the company"(権利を持っている会社)は続編を作ろうとしました。1986年に"RobotechⅡ"の制作がはじまりました。予定では65話で、「マクロス」の登場人物達のその後を描いた作品でした。脚本は新たに書かれ、日本のタツノコプロと契約をしたのです。"Gold the company"が作ったセリフとBGMにタツノコプロがアニメーションを付けていくという手順で作業は進みました。


"RobotechⅡ"は多額の初期費用がかかった為、その負担をおもちゃ会社に協力してもらっていましたが、おもちゃ会社の業績が急落し、投資がストップしてしまいました。"Gold the company"のお金がつきるまでに、作られたお話はわずか3話でした。それらは1987年に一度テレビで放送され、88年にビデオ化されました。"Robotech"がDVD化された時に、"RobotechⅡ"の3話も収録されましたが、ファンは全65話を見たがっています。(実現は無理でしょうね)

1987-1989

1987年にはアメリカの漫画会社が日本の漫画を翻訳して販売するビジネスを始めました。それが日本アニメの人気に拍車をかけました。

1988年には日本アニメに関わる小さな会社が多く出てきました。彼らの多くは日本アニメをビデオ化して売りはじめたのですが、今までと異なるのは、彼らは古い日本アニメを大人をターゲットに販売したのです。そうする事によって作品のセリフや、ヌード、暴力シーン、BGMはそのままにでき、そこに英語の字幕を付けたのです。(中にはセリフのみ吹き替えのものも多くみられました。)

この手のアニメは一気に盛り上がり確固たるマーケットを獲得しました。それを踏まえて、様々な企業が"Robotech"のような人気アニメのビデオ化を始めました。

1988年までに、アメリカではたくさんの「オタク」が出てきました。彼らの手によってはじめてのアメリカにおける日本アニメの雑誌が誕生しました。それは日本でいう「アニメージュ」のような雑誌で多くの情報を得ることができました。

さらにアメリカの日本アニメオタク達は集会をはじめました。その集まりでは、食べ物があって、コスプレショーや日本アニメのグッズショップもあり、有名な日本やアメリカのアニメ人たちをゲストに迎えたのです。日本のゲストには、三木本晴彦、MIO、飯島真理などがいて、アメリカのゲストは日本アニメのアメリカ版声優などが来てくれました。

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その後アメリカのオタク達はアメリカではビデオ化されていない日本アニメを彼らの手によって字幕を付けて、仲間同士で鑑賞し始めました。ファンサブ(fansab)の誕生です。彼らは無償でそれを続けました。その結果、観たいアニメを互いに交換する事ができ、多くのアニメがアメリカで知られるようになったのです。そして彼らは、日本で売られている、CD,LP,VHSなどが欲しくなり、それを受けてアメリカでの販売が積極的に行われるようになりました。そういったオタクグループは当時は100以上あったのですが、日本アニメ市場が大きくなった現在のアメリカでは、30にも満たない数になっています。

1990-1996

1990年には"Robotech"がもう一度再放送されました。それ以降は1996年までメジャーな日本アニメのテレビ放送はありませんでしたが、その代わり、ビデオやLDの販売がさかんになり、たくさんのオタクが生まれました。

1994年頃には日本アニメはアメリカの誰もが知る存在になりました。ですが、現在程の人気になるにはもう少し時間がかかりました。そして1996年にアメリカのテレビ局は日本アニメの放送再開を決定しました。

そして、「鎧伝サムライトルーパー」(Ronin Warriors)、「ドラゴンボール」(Dragon Ball)、「美少女戦士セーラームーン」(Sailor Moon)などが、放送されました。これらはとても人気がありましたが、少し問題もありました。「鎧伝サムライトルーパー」は全編36話を2回どおり放送したのに対し、「ドラゴンボール」は1stシリーズのみしか放送されませんでした。

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「美少女戦士セーラームーン」のアメリカ版はかなり編集されて放送されました。キャラクターの名前や、話の内容まで変えています。例えば、日本版の2,5,6,20,42話はカットされて、45,46話は1話分の長さに短縮されていました。セーラー戦士の死はアメリカの子供達にはキツすぎると判断したのか、代わりに闇の城に捕獲された事になっていました。

日本版のセーラームーンの1stシリーズは全46話ですが、アメリカ版は42話です。続編(セーラームーンR)に関しては、47-66話と68-73話のみが放送された時点で打ち切りになりました。オタク達は落胆し、テレビ局に多くの抗議と全編放送のお願いをしました。その結果、74-88話が1988年に放送されたのです。※アメリカ版の「セーラームーン」はセリフとBGMがカナダで作られました。放送もアメリカとカナダで同時期にされ、打ち切りもまた同時でした。アメリカとカナダのオタクが凹む結果になりました。

1997-2000

1997年にはケーブルテレビ会社"Cartoon Network"が多くの日本アニメの放送を開始しました。「鎧伝サムライトルーパー」(Ronin Warriors)、「ドラゴンボール」、「美少女戦士セーラームーン」(Sailor Moon)が地上波で打ち切りになったのをみて、それらを放送したのです。ケーブルテレビは子供と大人両方に受け入れられて、日本のアニメはさらに需要が増えました。 "Cartoon Network"は「ポケモン」の放送も開始しました。

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1998年までに、日本アニメは200タイトル以上がVHSで売られるようになりました。エロ系(Henrai Taitle)のアニメが最初に登場したのは1994年になります。そして1998年には人気商品になっていました。1998年には、およそ20のエロ系アニメがビデオ化されていました。

※アメリカではエロ系アニメの99%にモザイクはついていません。アメリカでは法的に禁止されていないので、こちらでは全てモザイクは取り除かれます。エロマンガも一緒でモザイク処理はしてありません。

※2000年に漫画家の"Kondom"が彼の有名な作品「インセクトハンター」(Bondage Fairies)のSEXシーンをアメリカでの出版の為に書き直しました。彼は1994年の日本での発売当時に、日本の規制の中では書きたいものが書けなかったと言っていました。

2000-現在

2000年には"cartoon Network"はさらに多くのアニメの放送をはじめました。セリフは英語に直されていますが、BGMや日本語ヴォーカルの歌もそのままです。この時は、「ガンダム」「ドラゴンボールZ」「遊戯王」(YU GI O)「天空のエスカフローネ」(Escaflowne)「ガンダムW」(Gundamn Wing)「カードキャプターさくら」「ビッグO」などが放送されました。「セーラームーンシリーズ」も再放送されました。

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現在では、ほとんど毎月のように新しい日本アニメがはじまっています。そしてたくさんのタイトルがDVD化されています。漫画もたくさん発売されています。日本アニメのサントラCDの発売もされています。ここ10年間に日本で放送されたアニメのうちのおよそ85%のタイトルがアメリカで放送されています。70年80年代の作品も数多く観れますが、まだ多くの名作が放送されていません。なぜこのような状況になっているかというと、最近のアニメの方が古い作品より人気があるからです。その背景には75%の日本アニメオタクはここ2,3年の間にオタクになった為、古い作品をあまり知らないのです。

昔からオタクをやっている私は昔の作品の方が好きです。もちろん今のアニメにも良い作品はありますが、圧倒的に昔の方が良いです。私達は日本アニメが大好きで、私達の多くは最高のアニメのスタイルだと思っています。かなり多くのオタクが、日本アニメのサントラ、写真集、漫画などを集めています。とても長い文章を最後まで読んでくれてありがとうございました。

(2006年のメッセージです)


OTAKU SPECIALIST's voice
こちらこそ詳細に説明していただいてありがとうございました。いやあ、もう大河ドラマですよね。日本のアニメがどうやってアメリカで受け入れられていったのか経緯がよくわかりました。やはり1985年のロボテックの登場がターニングポイントですね。3つの全く異なるアニメを繋げてしまおうっていう発想がアメリカらしいです。

紆余曲折あってアメリカで日本アニメが認知され、他の国にもそれぞれ色々な経緯で広まって、今では世界中で日本アニメオタクがいて、アニメコンベンションが開かれています。80年代、日本ではオタクは気持ち悪いというイメージが強く、長きに渡ってこのイメージが覆る事は無かったのですが、2000年代になり、明るく社交的な外国人オタクが日本を訪れて、全国各地で国際交流をしてくれたおかげで少しずつイメージは変わり、今ではオタクという言葉にネガティブな要素はほとんど無いくらいになりました。好きなモノは好きと言って良いのだと外国人オタク達は我々に教えてくれました。

そして外国人オタク達は、日本のサブカルチャーだけに飽き足らず、メインカルチャーにも興味を持ち始め、日本はオタクに限らず外国人とって人気の旅行先になったのです。日本人として、外国人オタク達の残してくれた功績に心から感謝しています。

※この『OTAKU交流ファイル』で紹介しているメッセージは実際に外国のお客様からもらったものを日本語に訳して紹介しています。2006年から2015年くらいまでブログで書いていたものをリライトしています。

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