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こぼれる気持ち、掬う言葉

私は形容詞が、苦手である。「楽しい」「嬉しい」「悲しい」の解像度の低さが、その「楽しさ」「嬉しさ」「悲しさ」の手触りと体温を奪ってしまう。そんな、気がしている。

出来事それ自体は、いつかの思い出になれそうなくらい、輝いている。それなのに、それを形容詞で表した途端、指の間から水がこぼれていくように、サラサラと大部分が逃げてしまう。こぼしたのは、言葉にしにくい気持ちの揺れ動きや、揺れの大きさなどだ。自分が口にした形容詞で、私自身の思い出が矮小化されてしまう。そんな悔しさを幾度となく経験した。

爆笑問題の太田光も似たようなことを言っていた。


言葉とは煩わしいものである。思考するのに、言葉を使わなければならない時、とてももどかしい思いをする。言葉に比べ、心はなんと自由なことか。言葉にすることは心を区切る作業だ。一つの感情を言葉にした時、その言葉に収まりきれないどれほどの感情が失われるのだろう。デジタル時計が、一時一分二秒を表示した瞬間、一時一分一秒との間にある無限の時間を我々の認識が失うのと同じように、言葉と言葉の間に存在する無限の心を我々は失っているのではないかと思う。「楽しい」という一言で十分な感情などあるだろうか?「悲しい」という一言で表現できる悲しみなどあるだろうか?
NHK『爆笑問題の日本の教養』ノベライズ本 まえがき「爆問学問のすすめ」


言葉と言葉の間にある感情をこぼさずに全部掬うことはできるのだろうか。全部は無理でも、なるべくたくさんの気持ちを掬いたい。言葉の解像度を上げたい。そう思って、形容詞ではない表現方法を探している。言葉に対する挑戦だ。

それは新大陸を探す大海原への航海のようでもあり、隠された財宝を求めて遺跡の中を彷徨うようでもある。旅は続く。

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