2023/2/19:冬だが我々は夏

ある休日、彼女は美術館へ行った。
中央線から山手線に乗り換えて、上野駅で降りる。
頭のコリと、手の振戦を和らげるために飲んだ筋弛緩薬で、頭がぼやけていた。心なしか、今日は歩みもふらついている。
つめたい空気のにおいを浴びたくて、マスクをずらした。美術館は公園のいちばん奥だから、それまでは外していよう。行儀のいい日本人たちは、よく晴れた日の上野公園でも、ほとんどがマスクをつけている。マスクを外したら、顔が寒いのだろう。

彼女は、美術のことをほとんど知らない。ゴッホとルドンが好きだというが、それはふたりともが超陰気な性格なのだと解釈しているからだ。彼女は、陰気な性格の詩人が、指先からキャンバスに向かって生命を放出するところを、想像して止まない。

それって、なんだかとてもすてきな気がする。わたし、そのことを想像して、ただ目を閉じるのよ。すごく心地良いの。あなたは、わたしのことなんか知りもしないでしょうね。だって、いまは2023年なんだもの。でも、わたしだってあなたたちのこと知らないんだわ。わたしが知っているのは、「ゴッホ」「ルドン」、その「名詞」だけよ。たとえば研究者たちならもっとたくさんのことを知っているだろうけど、わたしはいくらあなたたちのことを調べたとしても、「知らない」と言うのでしょう。
あなたたちが残した作品や、語り継がれてきた人物像をなぞる。その声が空気を揺らすところや、ふれたときの皮膚の感触、身体のにおい、視線、美味しかった食べもの、いちばん悲しかった日の話。そういう毎瞬ごとにちがっていく、あなたたちのことなんか、何も分からないの。あなたたちは、美術館を訪れるほとんどの人にとって「テーマパーク」みたいなもの。もうなにも話さない、あなたたちの存在感へ、わたしたちは人生のなかで「訪れる」のよ。

彼女は、とにかく焦っているひとたちのことが嫌いである。さいきん流行っているショート動画なんて、当然嫌っている。だから、美術館というものが好きなのだ。100年も前の西洋画家たちは、アジアの島国にある都市で、じぶんたちの絵が飾られ、美大生やカップルや批評好きや息抜きがてらの放浪者に、鑑賞されるなんて思わなかっただろう。そのこと自体が、彼女をうれしくさせるのであった。

入場口で、QRコードのチケットを提示する。
「すみません、すこし遅れると電話したものですが」
忘れていたが、彼女は予約した入場時間に遅刻していたのだった。さいきんの彼女は遅刻が多い。

展示室に入ると、さすが土曜日の昼というほど、たくさんのひとたちが集まっていた。彼らは、入ってすぐに飾られるステートメントからきちんと読んでいく、行儀の良いひとびとである。作品たちはふだんどこに所蔵されていて、今ここに運ばれてきているのか。ところで誰が作品を集めているのか。エゴン・シーレは28年の短い生涯でした。などなど

展示室の奥に歩みを進めたとき、彼女はひとりの男の姿を捉えた。絵をみに来たにも関わらず、いまを生きる動物でしかない彼女は、そこに佇む男に目を奪われたのである。
肌は白く、髪は真っ黒で、背はあまり高くなく、目が細い。濃いブルーのシャツに、白いチノパンを履いている。展示室の壁が真っ赤だったから、それは背景によく映えた人間の姿だった。

彼はひとつの絵の前に立ち、ほとんど微動だにせずに鑑賞したあと、次の作品へ移っていった。
彼女は心のなかで、いつか何度も触れては失ってきたような感触を、察知しはじめていた。それは、よいものであるように思えて、あまりにも厄介である。時間が経てばすっかりなかったことになる場合があるにも関わらず、初速の勢いがありすぎて思わず乗っかってしまう。そういう、いやな感情だ。
彼女は、彼と同じペースで鑑賞することを試みた。そもそも、彼女はひとつひとつの絵をじっくり鑑賞しにきたわけではないのだ。美術館や展覧会という空間を経験すること自体、面白がっているのだから。

エゴン・シーレの学生運動的な画家人生が、その展示からは伺えた。彼が直感的・本能的に美しさを捉え、表現したということは、「すべての芸術家は詩人でなければならない。
(I believe that every artist must be a poet.)」という言葉にも表れていた。女の身体や、自分の姿を描く。本能的なものというのは、いまの時代では流行っていないなと思う。われわれは、なるべく気を遣い距離を置くことのほうを、大事にしている。まるで、動物であることをやめたがっているみたいだ。

声をかけたら、彼の足が止まった。ふり返る。なんのフィルターもなく、ただ時間は戻らないのだということだけが強く実感される。身体が二層に分かたれる。表層のわたしが身振り手振り動かすのを、となりあわせのわたしが見守る。かなしいね。おもしろいね。うれしい?たのしい?怖いね。

わたしは彼と出会った。(つづく)

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