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【洋書多読】1984(174冊目)

少し前になりますが、ジョージ・オーウェルの小説『1984』を読了しました。

読み終えてから随分時間が経ちますが(読み終えたのは4月26日)、少し自分の中で消化してから思ったことを書きたかったので、いつもnoteに書いている読了の報告が遅くなりました。

僕がオーウェルの小説を原文で読んで感じたのはざっとこんなことです。

1.外国語の理解とは、語彙や文法知識を量的に拡大することだけではない

1つ目は「母語以外の言語が読めるってどういうことなんだろう?」ということを考えた時にオーウェルを読みながら僕がずっと考えていたことです。

『1984』には、第2部の後半くらいに、主人公がオブライエンというある組織の男性から手渡された「真実が書かれた本」を読んでいく部分があります。

このパートが非常に難解で、正直「もう投げてしまおうか(読むのをギブアップしようか)」と思った、本書最大の山場でした。

けれど、おそらくここが一番の「読ませどころだ」ということもわかりました。だからなんとか読み進めていきたい。物語は中盤から終盤に差し掛かっていくところです。せっかくここまで読んだのに諦めたくない…というのもあったと思います。

この箇所の英文は、正直いまの僕の手にはちょっと負えませんでした。でも、書いてあることは何となく分かるというか、すごく「読ませる」文章だと思いました。ここが、オーウェルがきっと読ませたかったところだったはずだ、と。

そうしたら、なんだかオーウェルの文体とかリズム、息づかいに読みての僕がシンクロしていく感じがしたんです。同じようなことを、原卓也訳の『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読んだときにも感じました。

何が書かれているのか、いまいちよくわからない。でも、この文章にはとても大切なメッセージが含まれているはずだ、ということは分かる。そうして我慢して読んでいたら身体がだんだん文章の方にシンクロしてきて、本来であれば苦痛でしかない「意味が取れない文章」がなんとなく理解できるような気がしてくる。そして読み進められる。

名文には、時代や言語といった垣根を超えて読み手に響いてくる「何か」がある。そのことを、オーウェルの『1984』から学びました。

文法がわからなくても、意味がイマイチ不明でも、語彙力が不足していても、ある種のテクストというのは十分リーダブルである。そしてそう言うテクストに数多く触れていく経験が「読解力」ということの大きな部分を占めているんじゃないか(だから「多読」が読解力の向上に効くんじゃないか?)ということを考えた次第です。

2.英文はリズムで読む

オーウェルの文章を、まるでカタカナを読むように読み下しているうちは、多分のその魅力って半減するんじゃないか?と思います。

これは別にオーウェルに限らず他の「ネイティブがネイティブに向けて書いているコンテンツ」にも言えることです。情報を伝達するのが目的だけの文章からはこの「英文が持つリズム、うねり」みたいなものが伝わってきませんが、古典とか、名作などと言われているテクストにはそういうダイナミズムのようなものがあるような気がする。

そのダイナミズムを感知できるか・できないか?というのが、英文の読解力を向上させるスピードに大きく関係しているんじゃ…?というのもまた、オーウェルを読みながら感じたことでした。

私事ですが、例えば海外を長く旅行して日本に帰ってくると「韓国語と日本語の区別がつかなくなる」ときがよくあります。空港なんかで、日本語に聞こえるけど意味がぜんぜん取れない言語を話すアジア人がいて、ちょっと耳をそばだててみると「あ、韓国語じゃん」みたいなことってよくあるんです。

これって、日本語と韓国語の同質性のなせる技だと思うんです。そして不思議なもんで、韓国語なんてわかりゃしない僕でも、その人たちがなんとなく「楽しそうな話をしている」とか、分かることがあるんです。

英語にも独特の「リズム」のようなものがあって、そのリズムに乗って文章を読み下していくほうが、総合的な英語力って上がるんじゃ?そんな感じがしました。

3.言葉の現実編成能力を侮ってはいけない

人間は、自分が作り上げたい世界を「そういう世界を記述する」という形で実現できる。そのことを『1984』は教えてくれているような気がします。

『1984』の中の「the Party」(主人公の住む世界を独裁している政党的なもの?)は「言語」を支配しようとします。歴史の改ざんはもちろん、Double SpeakとかThought Policeなど、人間が言語を使って行うあらゆる活動を徹底的に管理することで、「the Party」が国家を支配するに都合のいい「幻想」を作り上げていくんです。

これが『1984』という物語の経糸なんですが、この「言語の統制」が真にディストピアなのは、この「幻想」を国民が「真実」であると認識し始めていくという所です。

こういうことは、古今東西世界のあらゆるところで起きていると思います。なにも全体主義だから云々、ということではありません。僕たちにだって決して無関係じゃないメッセージを含んでいると思うんです。

昨日は憲法記念日でしたが、僕たちの「リアルの世界」で、影響力のある「幻想」を描き込んでいる代表的なテクストといえば紛れもなく「憲法」です。

日本のリアリストの方たちは「この憲法が理想主義過ぎてもはや古臭く、現代にそぐわない」という主張を持って改憲の発議の根拠としていますが、憲法なんてもともとは「理想」を描くためのものです。

もっというと、その「理想」に現実を近づけるためにみんな努力しようね、ということを書き込むのが憲法の大事な役割だと思うんです。合衆国憲法だって、イギリスのコモンローだって、みんな壮大な「こんな世界になったらいいね」という幻想(妄想)を語っています。

もちろん現実はそうはなっていないかも知れないですけど、でもその国民共通の「空想」があるからこそ回避されている惨事って山ほどあると思います。でも、いま日本で起こっている議論って「空想(憲法)と現実が違うので、理想を現実の方に合わせませんか?』っていう議論でしょう?

これって、オーウェルが『1984』とか『Animal Farm』で描いているディストピアの権力者がやっていることと、全く同じことなんですよね。

そうやって新しく書き換えられた「言葉」がやがて現実になっていくんです。あまり突っ込んで書かないけれど、『Animal Farm』の憲法的なルールも動物農場の現状に合わせて「すべての動物はみんな平等だけど、平等でない場合もある」というちょっとした変更がなされて以降、一気に動物さんたちの世界は生き辛いものになっていきます。

そしてもっと恐ろしいのは、そうやって書き換えられた明文法がいつの間にか既成事実になって、元からそうであったかのように現実世界を形作っていくということ。

そのことの恐ろしさを、オーウェルは今から70年前に、しっかりと教えてくれているような気がするんです。


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