本当にやりたいことは、言葉にはできない
40歳までの僕と、40歳以降の僕、つまり世界一周にでる前の僕と出た後の僕には大きな違いがあります。
「決断」ということをあまりしなくなった、ということです。
若い時は「正しい決断」をしたいと思っていたし、「正しく」「決断」できる人間だけが責任ある成熟した大人で、間違った決断をしたり、決断できない人間を「弱腰」とみてどこか嘲っているところがありました。
随分感じの悪い人間です。
ところが、振り返ってみると人生で僕が下してきた「決断」って、決断と呼べるようなシロモノではありませんでした。せいぜい「ワニに食われて死ぬのがいいか、アナコンダがいいか?さあ、どっちを選ぼうか」というようなたぐいの決断でした。
つまり「状況的にかなり追い込まれてから、限られた選択肢の中でしゃあなしにどちらかを選ぶ」という感じだったんです。
翻って、41歳の時に旅に出てからの自分というのは、どちらかというと「どうしてそんなことをするのか分からない」という選択ばかりしていたと思います。基準は「楽しそうか」とか「気持ちいいか」とかで、理由を聞かれてもなんか答えられないけど、なんとなく「そっちがいい」と思う方を選んできました。決断とは真逆の振る舞いです。
その結果的としていまの生活に行き着いているわけですが、基本的にはとても満足しています。
本当にやりたいことは、言葉にはできない
先の「ワニに食われて死ぬのがいいか、アナコンダがいいか、どちらか選びなさい」というアナロジーの出典は内田樹という仏文学者の先生です。
その内田先生のブログの中に、こんな記事を見つけました。その中の一節に「どうしてそれをやろうと思ったのか?」をきちんと言えることというのは、やらないほうがいい」という趣旨の文章があって、大変共感した次第です。
本当に自分がやりたいことって、「すらすら言える理由がない」。これは現代の価値観に照らしてみると、大半の人にとっては「何いってんだこいつ?」ってなると思います。特に20代〜30代の若い人たちには、無責任な年寄りの戯言のように聞こえるかもしれません。
でも、ある程度馬齢を重ねていくと、自分が選択できることって実は結構限られているし、その選択肢も環境に左右されていて、完全な自由意志による選択なんてありえないっていうことが分かってきます。
僕たちはコンビニやスーパーにいけばたくさんの商品の中から自由に自分の欲しい物を選択できるように思えますけど、その選択肢はその商品を開発した人や、その商品を店の陳列棚に置くことを決意したフランチャイズ本部の購買責任者といった、僕たちの購入行動以前にある無数の人による無数の選択によって狭められまくった結果として僕たちの前に現前しているにすぎません。
就職活動だって同じことです。みんながみんな一律に大学三年生のある指定された時期から仕事を求めてさまよい始めます。多くの就活生にとって就職先となりうる選択肢は、インターンで行った先とか、就職フェアにブース出している企業とか、ネットの検索で引っかかる「自分のやりたいこと」にマッチしてそうな企業ぐらいのものです。
しかも、その「やりたいこと」って、直感に従って見つけられたものと言うよりも、企業の人事採用担当者とか、自分の親とか友達とかに分かってもらいやすいように、頑張って捏造されていたりする事が多いと思うんです。
「なんとなく」のススメ
僕たちは「やりたいこと」を一点の曇りもなく明確に他者に説明することをほとんど制度的に求められています。自分探しを通じてやりたいことを的確に探し当て、明確に言語化し、それに従って行動すること/できることがに対して高い評価を与える社会に生きているんです。
でも、それってちょっと違うと思う。内田先生はこう続けます。
僕の実感ともとても平仄が合った一節です。僕も旅に出たきっかけって「なんとなく」「日本が嫌だった」からでした。あの時の僕はうつ病になって仕事も失って、両親とも決別してて、人生のどん底にいました。そんな状態で勇敢な決断や、それに伴う行動なんてできやしません。
ほとんど本能が導くままに、直感に従って、なんとなく部屋を解約し、身の回りのものを処分して、ほとんど身体一つになって成田空港からフィリピン行きの飛行機に乗ったのでした。理由なんてありませんでした。11月の、ある晴れた日でした。
旅をしながら、世界のあちこちで本当にキラキラした無数の若者に出会いました。世界中の著名人にあうんだ。世界中の絶景を写真に収めるんだ。自分を見つけに行くんだ。みんな本当にキラキラと目を輝かせながら、旅に出た自分の「正当性」を主張するかのように、一点の淀みもなく、旅路にいる自分の目的とゴールと、そして自分自身を語るのでした。
そして、彼らが「こういうことがやりたくて」旅にでた、という話を聞く度に、はっきりとした目的意識もなくなんとなくブラブラと行きたい方に行って、食べたいものを食べてのんびりとしている自分を「みっともない」と思ったものでした。
そんな彼ら/彼女らとは今もSNSでうっすらとつながっていますが、かつて語ってくれた理想や目的意識とは裏腹に、ややもすれば「やりたいことを探さねば」「目的意識を持ち続けなければ」という自己催眠にかかって自らを苦しめている様を観るにつけ「自分はこれがやりたい」という気持ちが儚さを通り越して、はっきりと「呪い」になって若者を苦しめている現状を改めて認識する次第です。
直感は、言語化できない
それよりも「どうしてそんなことをしたのかわからないけど、何となくそうしたかったから」という感覚に従って生きている方がなんとなくうまくいく、そういうもんなんじゃないかなぁと、歳を重ねるにつれて思うようになったんです。
うるせえジジイ、お前らはぼんやりと生きていけばいいが、俺達は嫌だ。そんな声も聞こえてきそうです。僕のような生き方は、僕のようなパッとしない人間の専売特許であり、社会的に成功して然るべき地位を得た責任ある市民はロジカルに決断してきた人たちであると。なるほど、一理あるのかもしれません。
でもね、僕がいつも「直感に従って」「何となく生きることの大切さ」考えるときに思い出すのが、他でもない、世界的に最も成功した人物の1人である故スティーブ・ジョブズ氏の、有名な「スタンフォード演説」なんです。
この中ではっきりと、ジョブズ氏はこう述べています。
「直感」というのは必ず「どうして自分がそんなことを思ったのか、うまく説明できない」という形で訪れます。これには例外がありません。そしてその感覚が深く直感に根ざしていればいるほど、その感覚を言語化できるようになるためには長い年月がかかるんです。
だからジョブズもわざわざsomehow(なぜか)という副詞を補って、直感の非言語性と、それに素直に従うことの大切さを説いているんです。
本当に大切なことって、多分言葉に出来ないんです。あの、世界的な起業家であるスティーブ・ジョブズ氏もそう言っているんです。
先の内田樹先生のブログでも、同じジョブズのスピーチが引用されています。
だから、僕ははっきりと「本当にやりたいことは、言葉にはできない」と言いたいと思うし、それは決して頓珍漢なことではないと思います。
そして、どうしてそれをやっているのか?うまく説明できなくても、全然いいと思う。楽しいから。おもしろそうだから。なんとなく。それで十分だし、理由なんていくらでもあとからついてくるもんなんです。
逆に自分のやりたいことが、口をついてよどみなく、ロジカルに説明できるのだとしたら、それは少なくとも直感には由来していない。手垢のついた、擦り切れた、他者によって使いふるされた借り物の価値観を、自分の口から真似して出しているに過ぎないのかもしれません。
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公務員という職を辞して旅にでると言った時、数人を除いて僕の周りの友達は一斉に僕を止めました。父親は「帰ってくるな」「もう二度とうちに敷居はまたぐな」と言いました。「社会不適合者」「人間のクズ」「死んでしまえ」…。
これが実の父親から長男が言われることか?というくらい、思いつく限りの罵詈雑言を浴びせられました。直感に従って行動すると、得てしてたくさんの友人知人を失います。親族ですら、です。
でも、僕の世界一周の旅は、はっきりとその後のかけがえのない仲間との出会いとか、英検一級だとかTOEIC900点だとかと言った「成果」につながっていますし、今の英語コーチという職業にも結びついています。
旅にでる前には1ミリすら想像もできなかったことです。まかり間違っても「私は1年後に語学学校に勤務し、3年目に多読を始め、それから1年以内に英検一級に合格し、その資格を活用して帰国後英語コーチになる」という中長期計画を策定した記憶もなければそれに沿って行動したわけでもありません。
むしろこのnoteで繰り返し言及しているように、英語からは徹頭徹尾、逃げ回っていた人間なんです、僕。多読も英語学習も「面白かったから」続けてただけです。フィリピンに住んだのも「日本に帰りたくなかったから」「なんか住みたかったから」「マンゴーが安い」以上の理由を今も説明することができないんです。
今、それなりに愉快に過ごしている自分を見て、僕のことを非難する人は誰もいません。いるのかもしれないけれど、そういう人はもう視界には入ってこない。それもこれもみんな、言葉にできない直感に従って行きてきたからだと、今の僕は胸を張って言うことができるんです。
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