未経験宅建士が独立開業してみるまで プロローグその1(自分語り1社目)

無職になったおっさんが未経験から宅建士を取得して独立開業

はじめまして。むーと申します。

私は現在49歳、無職です。
宅建士(宅地建物取引士)の資格取得を目指し、ハローワークの職業訓練の一環で、資格取得学校に通っています。

これから宅建士取得し、独立開業して、人に雇われないで働いていきたいと考えています。

このブログでは49歳のおっさん、というかもう初老の男が、宅建士取得から独立開業して、不動産業で食べていく様子をリアルタイムで綴っていきたいと思います。ご興味ある方は読んでください。またご支援もいただけると本当に助かります。

今回は自分語りの回なのでうざい人はとばしてください

誰がこんなもの読むのか全く需要がないことは百も承知しておりますが、もし私が明日死んでも、子供たちが「お父さんの人生こんなだったんだね」と大人になったときに読めるように、相当うざいですが、覚えていることをかなり詳細に書いていこうと思います。自分大好き補正フィルター全開にかけまくって。

筆者プロフィール

1972年東京都足立区生まれ。
立教大学経済学部卒。
いわゆる就職氷河期世代でバブル崩壊後すぐの就職活動を余儀なくされるが、大学時代体育会ラグビー部に所属していたため、特に苦も無く一部上場の大手製薬メーカーに就職。医療機器販売の営業職に従事。退職後アメリカNYに短期留学。LINCOLN CENTERにてインターンシップを経験。
帰国後美術関係の企業に就職し、商品開発部勤務。
その時のアーティストとのやりとりから感銘を受け、退職し絵描きになる。
10年以上イラストレーターとしての活動を行う。
会社員時代の経験とスキルを活かし、自社ウェブショップを運営、オリジナル商品の開発・製造・販売も行う。
東日本大震災、第2子の誕生を機に愛媛県に移住。
同時に絵描きを辞め、移住後通算6社に就職するも、どれもうまくいかず、2022年5月より無職。
現在宅建士資格取得のため、講座受講中。

就職氷河期世代の苦悩


年齢的にはいわゆる就職氷河期世代で、就職活動がうまくいかずに、一度も正社員になることがなく、スキルも経験もなく、非正規雇用のまま低所得状態が続いている、という紹介のされ方をするんですが、私自身は、そんなことはありませんでした。
超一流大学とはいかないが、まあ誰でも知っている有名な大学を出て、さらにそこで体育会ラグビー部だったということもあり、就職には特に困ることはありませんでした。

ちなみに「体育会」という言い方ですが、巷でよく使われる「体育会系」という言葉の通り、いわゆる「脳筋(脳みそが筋肉でできている)」「声がでかい」「なんでも気合や根性でどうにかしようとする」的なイメージを表す言葉ではなく、大学には本当に「体育会」なる組織が存在します。「体育会」とは、数多乱立する大学の中のスポーツ系のサークルとは違いますよ、大学の公認の運動部ですよ、という意味です。

私はそんな「体育会ラグビー部」で、やっぱり普通に一般的な「体育会系」的なノリのある人間ですが、自己弁護のため申しあげておきますが、私は高校まで水泳部でラグビーは初心者でした。普通に受験して合格して、大学に入ってからラグビーを始めたのです。それと立教大学は当時いわゆる「スポーツ推薦」はありませんでした。ラグビー部の全員が普通に受験して入ってきた「脳筋」とは程遠い人たちです。私の世代の主将は二浪でした。

そんな「体育会」のラグビー部、つまり体育会系ではなく、体育会のラグビー部は、やはり縦のつながりというか、OBたちが充実しています。卒業生はたかが立教といえどもそうそうたる大企業にお勤めの方がたっくさんいらっしゃいました。

私の同期たちも、JAL、ライオン、NEC、三菱重工、野村證券、博報堂、伊藤忠商事など一流企業のメンツが揃っています。なぜか私の代では銀行はいませんでした。バブルがはじけたせいかもしれません。OBは銀行も多いです。
私が就職した企業も上場企業で一般にすごく名の知れている企業ではあるものの、ここに並べるとちょっと見劣りします。隠してもしょうがねえか、小林製薬という会社です。小林製薬の人に怒られるな。

私の就職活動は、確かに先輩たちのように解禁日に温泉のホテルで囲い込み、とか飯をすげーおごってもらった、とかいった典型的なバブルエピソードが華々しい時代ではなかったです。それなりに苦労して就職活動をし、でもそれなりにすんなりと上場企業に就職できた、という印象しかありません。

自分が就職氷河期世代真っ只中(氷河期世代の分類についてはいろいろあるようです。私は除外されていることもあります。真っ只中ではないのかもしれないですが、言わせてくれよ、苦労してんだよ)というのも、40歳過ぎて、愛媛でブラック企業で働いてるときに知ったくらいです。

1社目退社

そんな感じで就職に関してものすごい苦労を味わったこともなく、そんな大変な状況になっているだなんで露ほども知らなかった私は、結構あっさりめに1社目を退職しました。

私の売っていたものは、サワデーとかアイボンではなく、医療機器でした。当時小林製薬には3本の事業の柱があり、サワデーなどの商品部、商社機能(自社以外の商品も扱う卸売業)の商事部、そして医療機器事業部がありました。
入社してどこに配属されるかは最終的には会社がもちろん決めるのですが、いちおう希望も聞いてくれます。
新入社員研修の中で、それぞれの事業部の先輩たちが話をしてくれます。
そのなかで医療機器事業部の先輩が

「せっかく大学出たのに、スーパーの店員とかに頭を下げるのは嫌だ、どうせなら自分より出来のいい医者に頭を下げるほうがまし」

というようなニュアンスのことをのたまっていたため、「ああ、まったくおっしゃるとおりでござんす」と納得してしまった私は医療機器を希望しました。
医療機器事業は、アメリカのベンチャーから医療機器を買い付け、日本での独占販売権を契約し、それを病院に売り込みに行くという事業でした。
私が担当していたのは脳血管内手術用のカテーテルでした。

医療機器事業部にも部門があり、①大型の電気メスを売る部門、②酸素マスク等の消耗品を売る部門、そして私が担当した③脳血管内手術用のカテーテル、の3部門がありました。
私が配属された営業所では、新入社員が2人(私と、同期がもう一人いた)だったのですが、①電気メスと②消耗品に各1人ずつが配属される予定でした。

話は前後しますが、入社したての新入社員は、電話の取り方も知らないので、社としての全体の新入社員研修が1か月ありました。
そこから各事業部に配属され、各事業部ごとの研修がまた始まります。医療機器事業部は専門性が高いわりに、特に理系の採用をしてるわけでもなく、ふつうに文系の人間ばかりで、しかも国家資格を持つ医師に売りに行かなければならないため、さらに1か月、解剖学の研修を行います。ランゲルハンス島とか教わります。

当時私はなぜか「おまえらには負けないぞ」とひとりだけものすごい意気込んでおりましたので(今考えてもなぜそんなに気合入っていたのか不明)、その解剖学の研修期間に「おれはできる」アピールしまくりました。その猛アピールが功を奏したのかは不明ですが、営業所に配属された時から「なんかすげえできるやつがくるらしい」と噂になっていたほどでした。今思えば、実際のところは過剰にアピールしただけで、能力的にはたいしたもんじゃなかったように思いますが、当時は自分でもおれはできる、おれはすげえと何の根拠もなく思っておりましたし、評価もそんな感じだったので、自分がデキる男だと信じて疑っておりませんでした。当時私は自分のことを「ハイパーサラリーマン」と自称しておりました。イタい。スーツも「TOKYO STYLE」で決めておりました。イタリアンでもアメリカンでもなく東京スタイルです。雑誌の受け売りですが。かっちょいい。てかかっちょわるい。
なんでこんな話をしたのかというと、新人の配属先は、その営業所で①電気メスか②消耗品かという2択だったのに、「どっちの部門がいい?」と希望を聞かれたときに、私は③「脳外科」と堂々と答えたのです。

①電気メスはデモ機持ってって手術に立ち会い、がメイン業務だったし、②消耗品は看護婦(当時の呼び方)にひたすら頭下げる仕事だったので、前述のように、スーパーのなんやわからんおっさん(失礼)に頭下げるのが嫌で医療機器にしたのに、看護婦に頭下げるのはもっといやだ、と当時は思っていたからです。(看護師の方すみません、20数年前ですし、私も若かったので許してください、看護師さんを馬鹿にしてるのではありません、素晴らしい職業です、私には絶対できない)
なので、選択肢はもう1択、脳外科のドクターと対等に話ができる③脳血管外科部門しかなかったのです。なので会社の方針一切無視で、与えられてない選択肢を選んだのです。すごいね。おバカさんだね。

結果、前評判を稼ぎまくっていたおかげで、前任の中年(当時はおっさんに見えたがおそらくまだ30代だったと思う)の方を外し、私がめでたく脳血管外科部門に配属されることとなったのです。
ちなみに外された方はなんだか心を病んでしまったようで、会社に来なくなり、連絡も取れなくなりました。おれのせいなのかなあ。ごめんなさい。

脳血管外科部門に配属された私の活躍は凄まじいものでした。当時、脳血管外科手術と言えば、まだ開頭術が主流でした(今でもそうかもしれませんが)。
開頭術とはつまり、まず髪の毛剃って、頭皮を切開、頭蓋骨に穴を開けて今度は頭蓋骨を開ける。そしてお目当ての血管をようやく手術する、という方法です。
ただ、この開頭術は患者さんにも医師にもものすごく負担が大きく、手術時間も12時間とかはざらでした。
なんせ手術したい箇所に到達するまでがもう大手術です。
なので、長い手術に体力的に耐えられない高齢者や、脳そのものが邪魔になって、そもそも外からのアプローチでは目的部位に到達できない疾患の場合はこの手術の適応外となってしまいます。つまり「手の施しようがありません」となってしまうわけです。

それに対して、私が担当していた「脳血管内手術」というのは、太ももにある太い血管から、カテーテル(要は管(くだ)です)を突っ込んで、ずずずいっと頭の血管まで管を押し込んでいって、血管の中から手術する、という画期的な方法でした。
この方法だと髪の毛を剃る必要も、頭蓋骨を開ける必要も、さらには全身麻酔さえする必要もないのです。手術時間も開頭術に比べ圧倒的に短くなります。
というわけで、当時最先端の手技でした。
なので、必然的に私がモノを売りにいかなければいけない医者は、最先端の手技を行う、最先端の医者(ほんとにそうなのかは不明だが当時私はそう思っていた)でした。
これって営業するには十分な相手です。相手に不足はない。おまえ何様だ。

この営業は楽しかった。

私は当時大阪営業所に配属され、京都大学附属病院を担当しておりました。滝先生、中原先生、坂井先生お元気ですか。
当然京大病院では日本の最先端医療が行われ、脳血管手術も最先端でした。また、この営業の良かったところは、この脳血管内手術(表記ゆれがすさまじいですが許してください)については医師もまだ手探りだったところです。医師という職業は、もちろん医療のプロなのですが、ことこの脳血管内手術に関しては、こなせる医師の数自体がまだとても少なく、症例数もあまりありませんでした。京大病院では脳血管内手術をたくさんこなしておりましたが、京大病院に所属していない医師は、脳血管内手術をやってみたくてもなかなか勉強する機会が得られないのが現状です。もちろん医師の職業は激務なので、手術を見学しに行ったりなんて機会はなかなか得られません。
そんな時、京大の脳血管内手術にまあまあ立ち会っている私が登場するわけです。この私が。京大担当のこの私がです。

重宝されますね。
みなさん話を聞きたがります。
こんな楽な営業ないですよね。
しかも、最先端医療のため、これから論文書いてのし上がってやろう、みたいな野心的な医師も多いのです。喰いつき半端ない。

ただし、実際の手術に関してはもちろん私はど素人です。
ただ、道具に関してのプロなのです。
プロの料理人に最新の調理家電を売る家電量販店の販売員みたいなもんですね。
手術や医療に関しては素人だけど、道具の知識が半端ない。

「こんな症例があるんだけど、京大では何使ってどうやってやってんの?」みたいなことを聞かれるわけです。

私は手術の立ち合いの時に、他メーカーの商品をすべてメモして、それを教えてあげるのです。競合他社メーカーとも手術室で一緒になることが多く、仲良くなってました。いろいろ教えてもらいました。
あるメーカーのお姉ちゃんはおそらく私に気があったのでしょう、王将で飯食って、そのあとカラオケに誘われて一緒に行ったこともありました。
あの頃はモテたなあ。販売店の事務のお姉ちゃんとカラオケボックスでポッキーゲームしたなあ。
と、モテた話をしたいわけじゃなく、この時私が営業で気を付けていたのは「いかに他社製品の情報に詳しくなるか」でした。
いろいろなモノを営業として売った経験をたくさんしましたので、当時のことを今となってから振り返ると、この時の営業は、営業であり営業ではありませんでした。
いわゆる一般的な営業は自社の商品をただ売り込んでいくのに対し、この時の営業は、自社商品と他社商品の特徴の違いをはっきり把握する、というだけでした。つまり、こういう症例にはA社のこの商品、こっちの症例にはB社のこの商品、そんでこの症例だったらウチのこの商品が向いてますよ、なぜならそれぞれこういう特徴があるからですよ、というだけで、商品が売れました。自分とこの商品を使う予定が全くない手術によばれることもよくありました。よく知ってるからです。
つまり私は、自分で売っている商品を買ってください、と言ったことがなかったのです。それぞれの商品の特徴と利点、適した症例をしっかり勉強しておけばよかった。

競合他社商品を手配することさえありました。
「今どこどこ病院のなんだか先生に会ったら、これこれっていう症例があるからあんたんとこの商品がいいよ、って紹介しといたから、あと話しといて」みたいな感じで。
すると競合の営業も私に話をくれます。
まあなんていい世界。

そんなこんなで仕事していると、アメリカのメーカーのCEOが私に声をかけてきました。
「ウチの商品使ってくれている京大病院でケーススタディー作ってほしい」
ケーススタディーとは症例・手技紹介です。
つまり、これこれこういう症例でウチの会社のこれこれこういう商品使ってこれこれこういう手術をしたらうまくいきましたよ、っていう、まあ体験レポート的な。違うかな。

で、英語しか話せないCEOと同行していざ京大へ。

当時私も英語で難しい会話はできませんが、簡単な意思疎通くらいならなんとかなったので、マンツーで京大へ。ケーススタディーも無事完成しました。

営業成績もうなぎのぼりで、全国トップになったこともありました。つっても10人くらいしかいないんですけど。

それでもすごいよね、ってことで、無理やりなった脳血管部門担当ですが、それなりに高評価でした。少なくとも無理やりやらせてもらった甲斐はあったと。

でも、そんな順風満帆な営業生活に突然不幸が降りかかります。

アメリカの会社が営業停止を食らったのです。

なんか工場の設備に不備が見つかったらしく、工場を閉鎖するよう行政から指導をいただいたとのことです。
前述のCEOは、すぐに工場を閉鎖させます。
そしてそのままこの会社をたたんでしまいました。

正確に言うと、この出来事の少し前、アメリカのこの会社は、もっと大きな会社に買収されていました。
メドトロニックという超巨大医療機器会社です。
私が売っていた製品を作っていたこの会社は、いわゆるベンチャーだったのです。ものすごく特徴ある商品を開発・製造し、ある程度伸びたら大資本に売っぱらう、という戦略だったのです。はじめから。
つまり前述の同行したCEOはこれで成功なのです。
今となればそんなの当たり前ですが、当時はベンチャーなんて知りませんでした。そんな風に売り抜けて成功!なんて仕組みも。

そして私はいきなり売るものがなくなりました。
やる気もなくなりました。

もともと小林製薬は大阪本社の会社で、私は医療機器部門に配属された新人9人(10人だったかな)のうち、唯一希望勤務地が聞き入れられなかった新人だったのです。他の同期はみな出身地だったり、なんかゆかりのある地だったり、とにかく希望地にめでたく配属されたのですが、私は研修時のすざさまじいパフォーマンスのため、会社側から無駄に「こいつはできる、いずれ本社で」というありがたい評価をいただいておりまして、めでたく「本社お膝元の大阪でやれ」というありがた迷惑なことになっておりました。真相は全く違うのかもしれませんが、少なくとも私はそう思ってたし、同期もみな口をそろえてそう言ってました。まあおそらく社交辞令ってか同情だと思いますが。そういうことにしといてあげてください。いいじゃん。かわいそうだろ。

縁もゆかりもない大阪という土地で、しかも会社の寮生活。
私は大阪に偏見はありませんでしたが、大阪の人間は違います。ネタなのかほんとうに東京人に対して対抗意識があるのかよくわかりませんが、とにかく同期の大阪営業所配属の男がべったべたの関西人で、すぐ「東京もんは」といじってきます。マクドナルドのことを「マクド」と言います。「マックフライポテト」「マックシェイク」っていうじゃん、それが公式じゃん、と言っても聞きません。口癖は「なにがいやー」です。「何がいやなのか?」という意味ではなく「冒険野郎なにがいやー、冒険野郎マグワイヤー※1」です。私はそれがいやでいやで仕方がありませんでした。

※1「冒険野郎マグワイヤー」だと思っておりましたが、今調べたところ「冒険野郎マクガイバー」でした。全然違うじゃん。すみません。

Amazon.co.jp: 冒険野郎マクガイバー

なので、いずれは本社で、という期待もされてるんだろうな、とは思いつつも、大阪でずっと暮らすのは絶対に嫌、と当時はかたくなに思っていました。

で、販売する商品もめでたくなくなり、大阪にいる理由も、この会社で偉くなって本社で勤めるメリットも全くなくなって、この会社にいることに夢も希望もない状態になりました。

というわけで、辞めました。



まだ1社目かよ。どんだけ語るんだよ。

続く。


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