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欲望のバター:カルピスバターとエシレバター

 その昔眩暈のするような恋をしたことがある。その男は無類のバター好きで、普段はずいぶん小食であるにもかかわらず、バターの効いたお菓子ならなんでもすっかり食べた。フィナンシェやクロワッサンが好きで、バターを濃く入れたクッキーなんてひと瓶ぺろりと食べてしまった。

 例えばパンを食べるとき、「塗る」と言うよりは「のせる」と言った方が適切な量のバターの使い方をし、クロワッサンにさえバターを塊にして乗せるので、ちょっとびっくりしたものだ。私は彼といた頃、バターの三文字を見かけるとついつい足を止めたものだった。あるいは焼き立てのクロワッサンも。お土産にすれば喜ぶかしら、と思って。
 私にとってのお酒みたいに、その男にとって「人生と切り離せないもの」がバターだったのだ。悲しいことに、私ではなく。

 その遠い恋はさておいて、私もバターはすごく好き。油分に滅法弱いのでそんなに頻繁には食べないけれど、食パンに塗ったりお野菜を焼くのに使ったり、あるいはおさけのおつまみとして、バター単体でいただくときもある。
 でも実際、バターってとっても贅沢なものだと思う。それも日常のささやかな贅沢。そして時々非日常的な特別の贅沢にもなると思う。ある海外ドラマの中で、殺人事件の犯人の推理根拠に「料理にバターを入れすぎる」というものがあった。「欲望を抑えられないタイプ」だと。人を殺人犯と疑うにはちょっと驚く理由ではあるけれども、私は奇妙に納得し、そのセリフを強く覚えている。
 バターは欲望の味なのだ。まろやかな脂肪分と、濃く下に残る塩味。

 また、こんなのもあった。
 私が小学生の頃、ほとんど熱狂的な旋風として流行った書物に『ダレン・シャン』があった。これはある少年が友人を助けようとしてヴァンパイアにならざるを得なくなり、人間としての自分と葛藤しながらヴァンパイアとして生きていく物語で、眠れなくなるほど面白い。読者を引き込む天才的な描写力、そして登場人物が本当に魅力的なのだ。

 それはさておき、その主人公ダレンが初めて人間の血を飲むシーンがある。確か2巻か3巻で、さまざまなせめぎあいの描かれている切ないシーンなのだけれど、初めて口にした血の味を「濃いバター」と表現している。これ以上に、それがどんなに喉と舌に心地よく、身体が待ち望んでいた甘美な味だったのか、表現する言葉はないと思う。
 ちなみに私は幼い頃はバターがとっても苦手だったのだけれど、この描写が私に再びバターに挑戦させてくれたものである。

 ところで、私がこの世で最もおいしいとおもっているのが特濃カルピスバター。塩の効き方がまろやかでミルクの風味が強く、脂がうっとりするふぉど甘い。もうあらゆる人におすすめしたいもの。

 結構値段が張るけれど、かなり大きいのでずいぶん持つ。第一値段に納得せざるを得ないくらいおいしいのだ。舌触りというのかしら。舌の上でのったりと溶ける感じの、きめの細かい油分。そして塩味が舌に刺さらない感じというか、ふわりと甘いのだ。カルピス、という名前にピッタリの優しい味がする。
 朝ごはんに食べる食パンに塗っても当然おいしいけれど、ハードなパンにほとんど「乗せる」ようにしてワインのおつまみにしてもうすごくおいしい。でも一番お勧めなのは、スクランブルエッグを作る時の敷物に使うこと。すごく優しくて懐かしい味になるのだ。勇気を出してたっぷり入れた方がおいしい。

 ちなみに最近(最近、というか、もうずいぶんまえから)話題のエシレバターはまだ食べたことがない。いつか食べたいなあ、と思っていてはいるのだけれど。

 その、無類のバター好きの男のために取り寄せようと思っている内に別れてしまったために機会を逃してしまったのだ。そしてこういう宙ぶらりんの約束は、エシレバターの表記を見つけるたびになんとなく私の胸で揺れ動くので、まだなんとなく手に取れずにいる。


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