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【走馬灯】~言葉にできないルーツに辿り着く時~



新宿駅構内の女子トイレは”女子の匂い”で満ちていた。

ここは本当にトイレなのだろうか?そう疑ってしまう程に、

若い女の子たちの、甘く、愛らしい匂いが、全く似つかわしくないこの空間いっぱいに広がっていた。

私は何気なく立ち寄ったその場で、突然、視覚と嗅覚の誤作動を疑う。

だけどトイレとは逆側に連なった鏡の前に、入れ替わり立ち並ぶ露出の増えた背中が、すぐに私の五感に異常性がない事を裏付けてくれた。

やっぱり女子っていいな。

そんなことを思いながら、大都市の片隅にひっそりと存在する秘密の地下サロンを後にして、地上階段を軽快に駆け上っている自分に、ふと、

私も女子だけどな。と思った。

私は昔からそう言う所がある。皆にもあるのだろうか?

ちょっと、俯瞰して感じてる時の心地よさだ。

今までぼんやりと感じて来たこの感覚が、一体どこから来るものなのか、私にはずっとわからなかった。

けれど西口大ガードの交差点を渡るころには、この十数年間、言葉で表せなかった感覚のルーツを私は確信していたので、今日はその話を書こうと思う。


私は学校が嫌いだった。

学校には、外の空気とは明らかに違った、独特の時間が流れている気がして、同世代の子一人一人から発せられるエネルギーとかにあてられるのも嫌だったし、有象無象の空間から個々が発する思考ベクトルが、まるで高速道路から見た都心の頭上に広がる排気ガスのもやの様に、そこにはいつも広がっていた。

でも逆に、放課後はあまりにも静かで気味が悪い。

私は集団に溶け込めないくせに、無くなったら困る。と言う身勝手な理論で、よく学校をボイコットした。

どこか違う街に繰り出すこともあれば、裏のじゃり公(園)と呼ばれる場所にいたこともあったが、私には保健室や図書室で共有するこの世界の時の流れが一番心地よかった。


それから私はお祭りを当てもなく一人で歩くのも好きだった。

遠くで鳴り響く笛や太鼓の音、時折流れてくるスピーカーアナウンス、的屋の兄ちゃんのかすれた声、焼きそばを焼く音、景品が当たったことを知らせるベル、無数のガヤに包まれて、

そこを一人。無言で通る。

まるで自分だけ異空間にいるような孤独と、それでいて皆の笑顔を遠巻きから眺めている幸せな気持ちとで、なんだかノスタルジックな気分になれるのだ。

集団の中で感じる孤独は、何とも言えない自己陶酔の時間でもあった。


私は変わっているのか?私は悪い子なのか?


この昔から感じている気持ち。一体どこから来るのだろうか。





私は目を閉じ、次に目を開けた時、辺りは真っ暗だった。

少し汗をかいていた。

今、何時なんだろう。私は一体どれくらい寝てしまっていたんだろう。

ぼーっとする頭をよぎるのは、そんな簡単な疑問くらいで、記憶のない間、まるで長い事ずっと、深い海に沈んでいたような、どっぷりとした疲れを感じていた。

暗闇の中、私はすぐに起き上がれそうにない。

だけどその時、

ふすまの向こうから、漏れた光と共に笑い声が聞こえて来た。

聞き覚えのある、いつもの笑い声。家族の当たり前の会話が。

ふすまのあっち側と、こっち側で、まるで世界が違うようだ。

私がいないのに、皆の日常は変わらない。楽しそうに笑って、ずるいよ。

私は淋しさと、孤独を感じながら、その微かな光と楽しそうな声に安堵していた。もう少し、聞いていよう。


だけど、私は孤独に飲まれる一歩手前で、気怠い体を起こし、少し気恥ずかしそうにふすまをあけ、一直線にお母さんにの元に辿り着き、

そっと抱き着く。


遠い過去の記憶。

そうだ、この感覚は孤独と安堵の狭間で、あの日もう少し聞いていたいと感じたあの感覚にそっくりだ。


きっとこの世には、まだ私の知らない、言葉では表せない感情の波のようなものがあって、

それがどうにもこうにも、人や自分を傷つけるんだけれども、

そういう繊細な物を私は好むし、

その気持ちのルーツを解明するために、人は生きているのかもしれない。

きっと走馬灯って、そういうものの集合体なんだろう。


遅咲会会長 中川ミコ

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