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田州再始動【瓦氏夫人第42回】

二、後継争い

田州再始動

 岑猛の十七歳の四男、邦相を中心とする田州が再始動した。
 朝廷が邦相に授けた官職は吏目(りもく)。州政府には知州、同知、判官、吏目の四段階の官職があるのだが、王陽明は南寧(なんねい)を出立する約一ヶ月前の七月十九日付で、邦相にまずは吏目を授け、その後、勤めに励み当地が寧靖であれば、三年後に判官、六年後に同知、九年後に知州と昇格させるべき、と上奏した。
 知州、同知、判官はいずれも空席なので、吏目という低い官職ながらも邦相が田州州のナンバーワンである。
 ただし、朝廷は三年のあいだに限って執政を置くこととした。執政として着任したのは副総兵の張佑(ちょうゆう)。張佑は岑猛討伐軍の五将のうちのひとりだった。

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 花蓮はといえば、土官存続を求めて土目たちが立ち上がった盧蘇(ろそ)・王受(おうじゅ)の乱から距離を置いたため、叛乱の結果できた新政権において居場所がないのが当然だった。
 とはいえ、政権に居場所がなくても、できることはある、と花蓮は思っている。
 ひとつは、王陽明との最後の会話のときに心に念じた、
 ——猛と田州の名誉を回復する
 ということ。
 田州の外務大臣ともいうべき地位ながらも、邦相の世襲に反対したことから、やはり政権内で干されている岑栄とともに、田州の復権を目指して梧州に赴いて、陽明の後任で巡撫の林富(りんぷ)に対して交渉をおこなった。
 ちなみに巡撫は総督と同じく軍事・行政にまたがる広範な職権を有する省レベルの長官だが、通常総督は正二品、巡撫は従二品と巡撫のほうが官位が一段階低く、任命される者の拝命時点の官位によって総督となるか巡撫となるかが決まる。
 政治的な要望をおこなう場合、それに関する権限を有する者に多大な金銭財宝を献じるのがこの時代の常識であり、それがなければ、本来通るはずの要望でも通らない。しかし花蓮は賄賂を嫌っており、たとえ賄賂をやめたことが猛を滅ぼした一因だとしても、それにより考えが変わることはなかった。むしろ一層、賄賂は忌むべきものという気持ちが強まっている。
 それゆえ花蓮は、明朝に対する交渉ごとを担うのに相応しい人物とは言い難い。ただ新両広巡撫の林富は、通常の交渉相手ではなかった。
 林富は弘治十五(一五〇二)年の進士で、陽明と同様に宦官の劉瑾の専横を批判したために罪を着せられ、杖刑三十回に処され投獄された過去がある。公正無私であり、獄中で陽明と『易経』(儒教の五経のひとつで占いの理論と方法を説く書)を論じるなど、陽明の盟友というべき人物である。
 林富は、陽明がそうだったように、女だからといって軽んじるところがなかった。また、花蓮が賄賂を出す気配を一切示さないことに却って好感をもったようで、初めての会見で、花蓮のことばに熱心に耳を傾けたあと、
「当地には処理すべき問題が多々ありそうですね。要望の件は早急に結論を出しましょう」
 と約束した。
 二度目の訪問時に林富は、
「君の意見を聞いただけで決めるわけにもいかないから、いま各方面の意見を聴取しているところです」
 陽明と同じくまずは広く情報を収集するという姿勢らしい。梧州の両広総督府に閉じこもらず、実地調査のために各地を巡っているとのことで、若くて健康である分、陽明以上に活動的といえそうだ。
 そして三度目の訪問のとき、林富は結論を出していた。
 林富は、田寧府を廃止し、田州を広西承宣布政使司(しょうせんふせいしし)直隷(ちょくれい)州に改めて、田寧府に替えてこれを置くこととした。
 承宣布政使は、省レベルの地方行政長官のことで、直隷州というのは直轄の州ということ。承宣布政使司直隷州は末尾に「州」とついているけれども府と同級であり、一般の州よりも上位の行政単位である。ちなみに一般の州は、直隷州と区別するために「散(さん)州」と呼ばれることもある。
 つまり田州は、岑猛の乱、盧蘇・王受の乱を経て府から散州に降格され、かつ所領の過半が田州から切り離されて土巡検司(とじゅんけんし)に任じられた土目により統治されることになったが、もとの府級の地位と所領を取り返せることになったのだ。
 陽明は、乱の平定直後だったこともあり、乱の再発を防ぐために田州の戦力を分散させた。林富は、田州は南寧から雲南、貴州、ベトナムへの道が分岐する交通の要衝であり、またベトナムに近い辺境の防衛拠点でもあることから、田州をひとつに戻し、岑氏に全てを統率させることにより、費用をかけずに交通・防衛の要地に強兵を置くことができる、と考えた。
 嘉靖八(一五二九)年十月、田寧府は廃され、田州は直隷州に昇格した。
 花蓮の「田州と猛の名誉を回復する」という目標への大事な一歩だった。
 
 花蓮は、田州の軍を強くすることにも熱を入れた。
 とはいえ、全軍の指揮権を持っているわけではなく、土舎、土目の軍は各土舎、土目が兵権を有し、猛の直属だった軍のほとんどは邦相が掌握しているので、花蓮の配下にある兵は五百ほどに過ぎないのだが、その五百の兵とともに早朝から正午にかけて青空のもとで汗をかき、兵の鍛錬に精を出した。
 午後は、林富に依頼して招聘した兵法家から兵法を学んだ。
 そして日没後は、鐘富(しょうふ)、阮袞(げんこん)、黄維(こうい)、莫蘭(ばくらん)、岑匡(しんきょう)とともに理想の軍組織を論じ、様々な地形や敵兵力を想定し戦術のシュミレーションをおこない、武器の改善を研究した。
 この日没後の議論の成果は『岑氏家法』としてまとめられた。
 その一部は、現代の我々も、嘉靖四十一(一五六二)年に完成した倭寇研究の書『籌海図編』の『巻十一計略客兵附録狼兵』にみることができる。
 それによると、
〈岑氏家法によれば、七人で伍(軍事編成の最小単位。普通は五人で一伍となる)を形成し、各伍は互いに命を預けあう。(七人のうちの)四人が攻撃を担い、三人が(倒した敵の)首を斬ることに専念する。獲得した首級は七人に等しく配分される。首を斬る担当の者も恩賞を得ることができ、攻撃は攻撃担当者が為すので、武芸が優れていることが絶対に必要というわけではない〉
 つまり、敵陣に突入するときは、伍が一体となって進み、錐(きり)のように鋭く敵を突き刺し切り裂いていく。敵味方が入り乱れる乱戦となれば、伍の七人が背中を合わせるようにして死角を無くすので、どこにも隙がなく容易に倒されることがない。武術に熟達した者と未熟な者を組み合わせることにより、熟達者が敵にとどめを刺したり首を取ったりすることで戦闘の効率が下がることを回避し、また、未熟な者をも兵力として活用しつつ、実戦のなかで熟達者から技を盗ませ技量を上げる。
 猛により基礎がつくられた田州軍は、花蓮によりさらに鍛えられ、練り上げられていった。そして四半世紀ののちには、狼兵と呼ばれて恐れられる強力な軍隊に育ち、中華を危機から救うことになる。

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『倭寇の海英傑列伝 瓦氏夫人』は、16世紀の広西壮族の女性で、一軍を率いて倭寇に勝利したスーパーヒロイン、瓦氏夫人をモデルとして描く大河小説です。こちらではその全文を連載で掲載しています。
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