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国境を越える機は熟した【瓦氏夫人第17回】

『倭寇の海英傑列伝 瓦氏夫人』は、16世紀の広西壮族の女性で、一軍を率いて倭寇に勝利したスーパーヒロイン、瓦氏夫人をモデルとして描く大河小説です。こちらでは、その上巻『花蘇芳の山の巻』(2021年6月刊行(アマゾンの購入ページはこちらです))を全55回で掲載しています。(2021年11月頃刊行予定の下巻『仏桑花の海の巻』は、2022年初に掲載予定です)

三、覇権

国境を越える機は熟した

 岑猛(しんもう)の心のうちには強い野心が秘められている。
 岑濬(しんしゅん)に田州を踏みにじられてから十年が過ぎた。復興は概ね果たし、人々の暮らしは、戦乱が続いていたころに比べれば、ずっと豊かになった。財政的余裕もでき、軍備を充実させ、今や広西右江流域で最強の軍を持つに至っている。
 国境を越える機は熟した、と猛は考えている。右江流域の盟主としての地位を固め、広西チワン族の覇者を目指す。さらには明朝による支配からの離脱を考えてみることもあるが、今はまだそれは夢想というべきだろう。まずは支配力の及ぶ領域を着実に広げていかなくてはならない。
 とはいえ、むやみに兵を起こせば明朝が介入してくる。岑濬の轍(てつ)を踏むわけにはいかない。
 猛は乱を待った。周辺で叛乱や内紛、国境紛争などがあれば、軍事力を背景にして介入し、問題を速やかに解決する。そして治安維持を名目として兵を残し、文官を送りこんで内政に関与する。そうしてその国の宗主国としての地位を確立するのだ。
 正徳十三(一五一八)年、猛が待つ乱が、田州の南の竜州(りゅうしゅう)で発生する。 

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 竜州の土官の趙源(ちょうげん)が死に、趙源には子がなかったことから、必然的に相続争いが生じた。
 趙源には妾腹の兄(趙源の父の妾が産んだ子)、溥(ふ)があった。溥(ふ)は既に没しているが、相(しょう)と楷(かい)というふたりの男子がいて、いずれも壮年に達している。竜州の土目たちは長男の相のほうを新たな土官に推した。相と楷とは非常に仲が悪く、兄の相続を妬む楷は趙源の妻のもとに駆けこんだ。趙源の妻は猛の大叔母であり、ゆえに史書においては岑氏と記される。前に、岑濬の乱で竜州が落城した際に趙源の妻が岑濬の妾とされたと述べたが、まさにそれが岑氏夫人であり、岑濬滅亡によって竜州に戻ったのである。 

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 趙楷(ちょうかい)は、岑氏夫人の美しい瞳をまっすぐにみて言った。この妖艶な瞳が二十年前に岑濬の妾とされる要因となったのだ。
「叔母上。なぜ沈黙されておられるのですか。土目どものいうとおりに兄が後継となれば、竜州はもはや叔母上のものではなくなります。夫婦で築き、護った竜州を、叔母上の祖霊に献じて誰が異議をとなえましょう。竜州は叔母上の血脈で代々受け継いでいかれるべきです」
 趙楷(ちょうかい)が「祖霊」をもちだしたのは、岑氏夫人の血族であり、強大な軍事力を有する猛の後援を得るようほのめかしたのだ。趙楷(ちょうかい)は、のちに竜州土官の地位をも狙うのだが、この時点ではただ兄、趙相を妬む心が彼を動かしている。
 子のない岑氏夫人は、今後の竜州における自分の位置について、まさに大きな不安を感じていたところであり、趙楷(ちょうかい)のことばの裏を考えてみようともせず、然りと膝を打った。
 岑氏夫人は趙楷(ちょうかい)と謀議して大胆な策を捻出した。岑氏夫人の妹、すなわち猛からみれば祖父の妹にあたる人物は、田州土目の韋氏(いし)とのあいだで好(こう)、璋(しょう)という二人の男子を産んでいる。このうちの次男、璋を趙源の手がついてできた子に仕立てようというのだ。ちなみに兄の韋好(いこう)は猛の第三夫人、韋氏(いし)の父親である。
 岑氏夫人はこの策を猛に宛てた信書に認め、趙楷(ちょうかい)は信書を持って田州に向かった。

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 大叔母の信書を読んだ猛は、竜州を支配下におく絶好の機会と捉え、韋好(いこう)の率いる兵三千に守らせて、韋璋(いしょう)を竜州に送りだした。兵を三千にとどめたのは、鍛えられた田州兵を前にすれば、竜州はすぐに屈するだろうと考えたからである。
 ところが、竜州の土目は結集して防備をかため、城内に籠って抵抗する姿勢を示した。
 猛は無理に攻めず、韋好(いこう)にいったん兵を退くよう命じた。増援して力でねじ伏せることはできる。しかしそうすれば明朝が必ず介入してくる。その理由がどうであっても、他国の領地に侵入して戦闘行為をおこなったという事実のみで猛が悪とされる。罰がくだされるかもしれない。
 攻めるためには、あらかじめ明朝に対して根回しをしておかなければならない。
 両広総督は陳金。陳金は江西総制として江西の叛乱鎮圧の任を終え、二度目の両広総督として悟州に戻っている。
 猛が歴代の両広総督のなかで最も縁があるのが陳金だ。陳金は、猛が岑濬の乱で荒らされた田州をよく立て直したことも、華林山の農民蜂起を極めて速やかに鎮圧したこともみている。陳金は猛を高く評価しているはずであり、ゆえに竜州の相続争いに介入する出兵を許可するに違いない、と猛は考えた。
 猛は趙楷(ちょうかい)に対し、悟州に赴いて両広総督府に対する工作をおこなうよう求めた。

§

 趙楷(ちょうかい)は、趙相の弟であることは隠し、猛の使者として陳金に会った。
「韋璋(いしょう)は趙源の正妻の子ではありませんが、ただひとりの実子であり、趙源が死んだ今、韋璋(いしょう)こそが竜州の当主に立てられるべきです。それにもかかわらず、当主の地位は血の離れた趙相により簒奪されようとしています。わが主、岑猛はこの不正を正さねばならないと考えており、つきましては竜州への武力介入をお許しください」
 趙楷(ちょうかい)は多額の賂とともにそう上申した。
 ところが、陳金は賂を受け取らず、首を縦に振らなかった。猛の有能さを大いに認めてはいたが、華林山農民蜂起鎮圧の際の田州兵による派手な略奪を考えれば、田州兵を使うことには慎重でなければならない、と考えを変えていたのである。
 陳金は、
「正統な後継者がいずれであるか、調査をおこなう」
 とだけ述べて、趙楷(ちょうかい)を下がらせた。
 
 田州に戻った趙楷(ちょうかい)は、陳金の意図を捻じ曲げて猛に報告した。
「重要なのは軍門が武力介入をはっきりと禁じなかったことです。軍門は調査をおこなうとおっしゃいましたが、そこには、『いったん韋璋(いしょう)を後継に据えても調査の結果によっては覆る可能性がある。それでもよければ好きにしてよい』という含意があります」
 と、趙楷(ちょうかい)は断言して、
「もう一度竜州に兵を出していただけますね」
 と言った。しかし猛は、
「そのような不確かなことばに乗せられるわけにはいかない。軍門が調査をおこなうと言われたのならば、調査の結果を待たねばなるまい」
 是が非でも兄の竜州相続を阻みたい趙楷(ちょうかい)は食い下がり、
「調査をしたところで兄と韋璋(いしょう)とのどちらが正統なのか、明確な答えが出るはずありません。韋璋(いしょう)の母君は既に亡く、趙源も死んだ今、韋璋(いしょう)が趙源の子ではないと確信をもって述べることができる者は誰もいないのです。調査の結果どちらが正統であるかわからなければ、軍門は混乱が少ない方に竜州を継がせようと考えるに違いありません。となると、このままいけば竜州を実効支配しているという事実だけで、兄が土官として認められることになります。あなたは、ここで兵を出さなければ、竜州を手に入れる機会をむざむざ逃すことになります。それでもよろしいのですか」
 猛には前へ前へと進みたいという強い気持ちがある。しかし盲信すれば、却って遠回りになるどころか、岑濬に国を追われたあのころに後戻りするか、悪ければ破滅に陥ることを知っている。
「だめだ。朝廷を納得させ得る理由がない限り、兵を出すことはできない」
(臆病者め)
 と、趙楷(ちょうかい)は内心で詰り、田州から去った。

§

 それから一ヶ月が過ぎた。
 猛は、趙楷(ちょうかい)が今なにをしているのか、気になっていた。兵は出せないと言って趙楷(ちょうかい)を追い返しはしたが、今は竜州をとる絶好の機会であり、この機会を逃したくはない、という気持ちもある。
 趙楷(ちょうかい)抜きの竜州攻略を考えるべきか、と思い始めたとき、趙楷(ちょうかい)が錦衣をまとった男を伴い戻ってきた。
「竜州の岑氏夫人に会ってまいりました。夫人はやはり韋璋(いしょう)を当主にしたいと強く望んでおられます」
 趙楷(ちょうかい)の性格はねちっこい。猛はうんざりしながら一ヶ月前に述べたのと同じことばを述べた。
「今、竜州を攻めれば、俺は海辺の衛所に飛ばされるか、悪ければ首を失うことになる」
 趙楷(ちょうかい)は口元を歪めて笑って、別室で待つ錦衣の男の目通りを請うた。
 猛の前に現れた錦衣の男は、姓名と出身地、生年を述べた。礼にのっとった挙措で、堂々としたもの言いだが、自分がなに者であるかについては触れなかった。
 不敵な笑いを浮かべたままの趙楷(ちょうかい)が訊いた。
「この者、いかなる者だと思われますか」
「なぞかけなどよい。時間の無駄だ」
「まあそうおっしゃらずに」
 猛は不愉快に思いつつも男をみた。胸に麒麟の刺繍が施された羅紗(らしゃ)の官常服(かんじょうふく)を身にまとっている。
「ことばと身なりからは京師(北京)から来た四、五品の官吏であろうと察するが」
「京師からというのは当たっていますが、そのあとは正しくありません。父親は先帝に重用された高官でしたが、政務を顧みない今の正徳(せいとく)帝を諫言する上奏をおこなおうとしたところ、劉瑾(りゅうきん)により阻まれ獄につながれました。この者は連座を恐れて逃走し、京師から遠く離れた竜州で身を隠しておりました」
 猛が話の意図がわからず眉間をしかめると、趙楷(ちょうかい)は続け、
「朝命がなければ大軍を起こせないのであれば、朝命をつくってしまえばいいのです」
「意味がわからんが」
「今まさに勘違いされたように、この者を一見しただけでは京師から来た高級官吏にしかみえません。そこでこの者を、詔勅(しょうちょく)を帯びて京師から派遣された高官に仕立てるのです。そして周辺諸国と連合の軍旅を催すのです。この者に会えば諸国の土官も必ずや偽の詔を信じることでしょう」
 猛はフッと鼻を鳴らして笑い、
「偽の詔勅など、のちに必ず発覚するぞ」
「発覚しても構わないのです。今必要なのは竜州を大軍で攻め、兄を追い出し韋璋(いしょう)を入れることです。そのあとで詔が偽物だったことが発覚しても、そのとき既に韋璋(いしょう)が竜州衙門の椅子に座っていれば、さらなる混乱を避けたい朝廷は必ずそれを追認します」
「詔勅を偽造したことが発覚すれば、俺の首は飛ぶ」
「偽物とは知らなかったと言えば済むことです。自分も騙されたひとりだと言えばよろしい」
 猛は錦衣の男を指さして、
「この者には偽の詔で大軍を動かす理由がなかろう。朝廷は俺か大叔母がこの男に命じたと疑うはずだ」
「いえ。理由ならあります。この者は趙源に庇護され、竜州で土舎の子弟に学問を教えていたのですが、兄と折り合いが悪く、趙源が死んですぐに兄に竜州から追い出されたのです。そのときの兄に対する恨みが理由となりましょう」
「偽造は、この者がひとりで為したことにするのか?」
「そうです」
 猛は「うむ」と言ってしばらく考え、錦衣の男に向かって言った。
「嘘の詔であったことが発覚すれば命はないぞ。命を捨ててもいいほどに趙相への恨みが深いのか」
「いえ。確かに趙相を憎んでおりますが、命を捨ててもよいとは思っておりません。むしろ逆に命を惜しんで生きております。私は東廠(とうしょう)に追われており、捕まれば死が待っています。当地で匿っていただければと思っております」
 趙楷(ちょうかい)が継いで、
「加えて、相応の報酬も与えていただきますよう」
 と、頭を下げた。
「詔書を偽造した者を匿えば、朝廷はわれわれの企てだと確信する」
 趙楷(ちょうかい)が言った。
「この広いご領地のなかで人間をひとり隠すことなど容易いことではありませんか。もし不安にお思いならば、十分な路銀を持たせて安南(あんなん)(ベトナム)に逃がせばよろしいのです」
 猛は黙り、腕組みをして考えた。
 趙楷(ちょうかい)は岑氏夫人の依頼を受けてここに来たような顔をしているが、兄趙相に対する嫉妬と憎しみが趙楷(ちょうかい)を動かしているのは明らかだ。そのような感情を動機としているところに大いに危うさを感じる。しかし、たとえ失敗に終わったとしても、この謀略のことなど知らなかったとしらを切り通せば済むことだ。自分を評価している陳金ならば必ず信じ、自分に災いは降りかからない。
「いいだろう。その策に乗ってみようじゃないか」
 と、猛は抑えた声で言った。
 
 偽の詔書に基づいて、田州と鎮安(ちんあん)府、果化(かか)州、向武(こうぶ)州、養利(ようり)州等による連合軍が速やかに組織された。
 とはいえ、周辺諸国の土官は、偽の詔書を完全に信じたわけではなく、裏には猛がいると疑ったが、猛が裏にいるのならば、その意向に逆らえばのちに報復されることになると恐れ、連合軍に参加せざるを得なかったのである。
 連合軍は二万の大軍で、うち田州兵が一万。総指揮は猛が自ら採った。
 竜州城内に籠る兵数は約二千と攻め手の十分の一。そのうえ偽の趙相討伐令が間諜により城内に流布されたので、将も兵も士気は極めて低調だった。
 竜州城は三日で陥落した。
 そして例のごとく攻城側の兵による略奪がおこなわれ、この戦いによって竜州の兵と民あわせて二千人が死んだ。
 猛は趙相の首を欲した。趙相が生きていれば明朝が趙相を竜州に戻せと介入してくる恐れがあるし、竜州土目が趙相を戴いて竜州奪還を図るかもしれない。
 四方に放った捜索の兵には、「趙相の生死は問わない。生きていれば殺して構わない」と言いつけた。
 しかし猛が望む報は、いつまでたっても、もたらされなかった。
「ならば印綬だ。なんとしても印綬だけでもみつけだせ」
 趙源の後継者としての地位を趙相と争うときに、竜州土官知州印綬の有無が正統性を主張する重要な要素となる。
 ところが、これもみつからなかった。衙門の全ての天井を剥がし、庭の土を掘り返してくまなく捜索したが、どこにもない。
 趙相は、竜州攻略が始まる直前に印綬を持って城外へ出て、両広総督府へ逃げ込んだのだった。
 趙相を殺せず、印綬も奪取できなかったことは誤算だった。
 加えて猛に好意的だった両広総督陳金が異動となり、猛の計算に狂いが生じる。竜州の支配に、多少の回り道をせざるを得なくなった。

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『倭寇の海英傑列伝 瓦氏夫人』は、16世紀の広西壮族の女性で、一軍を率いて倭寇に勝利したスーパーヒロイン、瓦氏夫人をモデルとして描く大河小説です。こちらではその全文を連載で掲載しています。
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