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王陽明との交渉【瓦氏夫人第39回】

王陽明との交渉

 陽明は笑みを浮かべて花蓮を迎えた。
 花蓮も笑みを返したが、心のなかには驚きがあった。八年ぶりにみる陽明はひどく痩せていた。ときおり苦しそうに咳をする。明日をも知れない体のように思われた。
「お体は、あまりよろしくないのでしょうか」
 と、控えめに訊くと、
「ご覧のとおりだよ。実を言えばこうして背筋を伸ばして座っているだけでも体にこたえる。とはいえ、臥せているわけにもいかない」
「そのようなお体なのに、このように過酷な任を負わねばならないのでしょうか」
「致士(ちし)(退官)を願ったのだが容れられなかった。故郷に戻れることはもうないのかもしれない」
 と、陽明は寂しげに笑った。その顔をみて花蓮は胸が詰まり、ことばを継げなかった。
「冗談だよ。そのくらいの覚悟ということだ。この任を終えて故郷の会稽山(かいけいざん)の緑を再びみるまで、なんとしても生きるつもりだ」
「これまでに残された数々の業績から考えれば、この中華で総督にまさる人材はいません。それゆえに致士が認められなかったのですね」
 世辞を言うということを知らない花蓮は心からそう思って言った。陽明はひとごとのように聞いたあと、
「寧王の乱のあと、私のまわりでいろいろなことがあったが、君が経験したことに比べれば大したことはない。岑猛の件は残念だった。あのように才も智も勇も持ち合わせた者はそうはいない」
 陽明は猛に会ったことはない。既に当地の状況について調べ上げており、そう言ったのだろう。
「ずいぶんと大変だったろう。夫を失ったことはもちろんだが、その死に自分の父親が関与しているというのはなんとも不幸なことだ。田州での立場は相当に難しいものとなっているのだろう。それを思うと心苦しかった」
 暖かみのあることばに触れて、花蓮の目に涙がたまった。まさか陽明が気づかってくれていたとは思っていなかった。
 口を開けば涙がこぼれてしまいそうで口をつぐんでいると、うしろに控えて立っている鐘富が前に出て、陽明に書翰を差しだした。かつて猛が盛應期(せいおうき)に宛てた弁明の写しである。
 陽明はじっと書翰を読み、傍に立つ参政の胡堯元(こぎょうげん)に渡してから、言った。
「張嵿(ちょうちょう)どのが記された文書は引き継いでいる。しかし、これは初めてみた」
 陽明の前の両広総督が姚鏌(ようばく)、その前が盛應期で、さらにその前が張嵿である。既に述べたが、張嵿の文書とは猛の罪を列挙したもので、猛が、華林の賊徒討伐では行軍中に略奪をおこなったこと、竜州の相続騒動に乗じて自分の親族を土官に就けようとしたこと、私怨で泗城(しじょう)州を攻撃したこと、劉召(りゅうしょう)の乱で着陣が遅かったうえ、わずかの兵しか出さなかったこと、などが列挙されている。鐘富が陽明に渡した書翰は張嵿が並べた罪それぞれについて、猛が後任の盛應期に対しておこなった弁明である。
 花蓮は涙を拭って、言った。
「私には、これはわが夫が天に向かって放った最後の悲痛な叫び声のように思えます。その声がどこにも届いていなかったというのは、まことに残念です」
 胡堯元は書翰に目を落としたままで、罵るような口調で言った。
「華林の賊徒討伐については、他の部隊が略奪をやったから自分もやっていいなどという理屈が通るはずがなかろう。竜州の相続への干渉では、詔勅があったと書かれているが、そんなものは偽物だ。その偽造に猛が絡んでいるのだろう。そして、泗城を勝手に攻撃したのは間違いのない事実だ」
 胡堯元は岑璋にニセの猛の首をつかまされ、それを鵜呑みにして両広総督に送ったこともあって田州討伐においてなんら功を認められなかった。その恨みを岑璋の娘の花蓮に向けているのだ。
 花蓮は、胡堯元のことばは聞こえなかったかのように、陽明だけをみて言った。
「私はこの弁明の書翰に書かれた内容が正しいかそうでないかを論じるつもりはありません。この書翰がなんであるかをわかっていただきたいのです。この書翰は盛應期の使者が田州に来訪したときに手渡されたものです。その場に私も同席しましたが、あのとき使者は張嵿の弾劾の書を売りにきたのです。つまりこの書翰は、賂の代わりとして手渡されたものなのです。使者は、『そんなものではなく、ほかに差し出すべきものがあるのではないか』と言いました。その目は確かに財宝を求めていましたが、夫は拒否したのです」
「拒否した?」と、胡堯元が眉に皺を寄せた。「そんなはずはなかろう。猛がよく賂を使うというのは有名な話だ」
「もともとはね。でも、やめたのよ」
「信じられん」
 花蓮は再び陽明に向かって、
「私は嫁いでからずっと夫のそばにおり、彼のことをみていました。彼は軍備を充実させ、民政でも優れた手腕をみせ、そして外交においてもいくつもの成果を出しました。しかし、しばらくして私は、外交がうまくいっているのは多額の賂によるのだと知りました。これを私は嫌いました。理屈ではなく、感情的に、それを汚いものであり、良くないものだと思ったのです。私はそれを彼に言いました。賂は嫌だと。特に理由があるわけではなく感情的に言っただけですから、彼は受け流すものと思っていました。ところが彼は突然賂をやめると宣言したのです。そのあとすぐに両広総督が盛應期に代わり、着任祝いに田州の物産を贈りましたが、銀は贈らず、それに不満だった盛應期は使者に張嵿(ちょうちょう)の書翰を持たせて田州から銀を得ようとしたのです。しかし彼はその要望を撥ね付け、代わりにその弁明の書を渡したのです」
 陽明が訊いた。
「なぜ岑猛は賂をやめるといい出したのだろう。なにか理由があるのだろうか」
「わかりません。ただ、私が賂は嫌だと言ったすぐあとのことですから、いかにも私の願いを聞き入れたかのようでした」そう言った花蓮は、胸が締め付けられるような感じを覚えつつ、続けた。「私は、感情だけで賂は嫌だなどと言うべきではなかったと思うことがあります。言っていなければ、このようなことにはなっていなかった——」
「岑猛は、君のせいで死んだのではない」
 と、陽明ははっきりと言った。
「そうでしょうか——」
「いま君は感情的に賂を嫌ったと言ったが、それは汚れのない澄んだ心が放った声なのだ。君のなかの良知が発揮されて発せられたことばと言っていい。岑猛にも良知がある。ときに賂もつかって世を渡ってきたが、君のことばが彼の奥底に訴えかけ、彼の良知が共鳴したのだ。彼は、自分の良知に耳を傾け、実行したのだよ。ゆえに、死はもはや逃れられないと思ったときでも、君のせいでそういう結果に至ったとは思わなかったはずだ。良知を開かせてくれた君のことは、掛け替えのないものと思っていたことだろう」
 陽明に言われると、慰めのことばとは聞こえなかった。わずかにだが気が晴れる感じがした。
 ここで花蓮が言わねばならないことを、鐘富に並んで立っている岑匡が代わりに言った。
「良知に照らし考えて賂は正しいことではない。これは確かなことと考えてもよろしいでしょうか」
 うしろに控える岑匡が発言したことに、胡堯元が露骨に不快な顔をしたが、陽明に気にする風はなく、すぐに、
「むろん、そうだ」
 とうなずいた。岑匡は一歩前に出て、
「賂を贈らなかったがために田州は武力討伐を受けたのです。田州は正しい道を歩もうとしたがゆえに討たれたということになります」
 胡堯元が嘲笑するように、言った。
「盛應期(せいおうき)さまが賂を求めたことが事実だとしても、武力討伐をおこなったのはその後任の姚鏌さまだ。賂は関係がないではないか。それとも姚鏌さまにも賂を求められたとでも言うのか」
 岑匡は落ち着いた声で、
「前任の盛應期さまの武力討伐の許しを請う上奏があったからこそ、その後任の姚鏌さまは武力討伐を実行しました。もし盛應期さまの上奏がなければ姚鏌さまが武力討伐を考えることはなかったでしょう。田州に罪があるとすら思わなかったに違いありません」
 胡堯元が反論し、
「そんなことはない。姚鏌さまは盛應期さまの判断とは関係なく、ご自身の判断で討伐を決められたのだ」
 花蓮が、
「その点に関連し、もうひとつご覧いただきたいものがあります」
 と言って、鐘富に別の書翰を提出するよう目で促した。
 姚鏌の子、姚淶(ようらい)が、明朝による田州討伐が決まった直後に猛に宛てた信書である。
 そこには、姚鏌は息子姚淶の説得もあっていったん討伐を実施しないこととしたが、両広総督府への入府の仕方をめぐり巡按監察御史の謝汝議(しゃじょぎ)に恨まれ、「討伐をしないのは息子が猛からの賄賂を受けたから」との冤罪で謝汝議に弾劾されそうになったことから、田州討伐をおこなわざるを得なくなった、という経緯が記されている。
 陽明はそれをじっくりと読み、胡堯元に渡してから言った。
「なるほど。そのようなことがあったのか。官側にも大いに問題があり、それが重なりあってしまったということか。よくわかった。十分に調べたつもりではあったが、まだまだ足りなかった」
「ご理解いただき、ありがとうございます」
 花蓮は小さく頭を垂れた。そして続けて、
「わが田州兵は華林山の賊徒討伐でも、劉召(りゅうしょう)の乱でも、官軍が苦戦していたにも関わらず、目覚ましい働きをし、瞬く間に乱を収める功を立てました。そのほかにも朝廷の求めに応じて幾度となく兵を提供いたしましたし、朝賀貢献も欠かしておりません。にも関わらず、土官を廃して流官と改めるとのこと、あまりに不条理ではないでしょうか」
 胡堯元がわずらわしそうに、
「いかに斟酌すべき事情があろうとも、また、いかに功が多かろうとも、岑猛には多数の罪がある。流官に改められるのが当然であろう。そのうえ岑猛亡きあとも土舎、土目が大乱を引き起こしたのだ。より厳しい処置がなされることも考えておくがいい」
 花蓮は胡堯元に向かって、
「では、あなたに訊くわ。そもそも土官はなぜ置かれるものなの。どういう場合に土官が置かれ、どういう場合に流官が置かれるの」
 と訊いたが、胡堯元はうるさげな顔をして答えようとしないので、
「辺疆には中原とは全く異なる風俗習慣があるわ。冠婚葬祭や年中行事はむろんのこと、衣食住の習慣やことばも異なる。ある地を適切に統治するためにはその地の風俗習慣を正しく理解しなくてはならない。だからその土地の人間に統治をさせるのでしょ」
「そのようなことは、わざわざ言われなくてもわかっている」
 と、胡堯元は煩そうに言った。花蓮は陽明に向きなおり、
「ならば、土官に罪があったとしても、その罪に対する罰として、土官を廃して流官に改めるというのは、理に適わないのではないでしょうか。土官とするか流官とするかは、どちらがより安定的かつ効率的に統治できるかで決められるべきことであって、仮に特定の土官に罪があったのならば、その土官を罰し、他の土官に代えるべきなのではないでしょうか」
 胡堯元は「無礼だぞ」と、陽明に対して教え諭すような口調をしたことを咎めたが、花蓮は構わずに続け、
「思恩も以前は土官が置かれ、土官は朝廷の求めに応じて毎年三千の兵を明の各地に派遣しました。ところが流官に改められて以降の約二十年のあいだに思恩では乱が五回も六回もあり、小さな騒動は休みなく続いています。朝廷はこれを鎮めるために数千の兵を思恩に派遣し続けています。田州を流官に改めれば同じことが起こるでしょう。土官を存続させれば朝廷は中華一の田州兵を各地の戦場で投入することができ、流官に改めれば逆に毎年田州に兵を送り続けなければならなくなります。田州は広く、また交趾(ベトナムとの国境地域)にも近い。田州討伐に必要となる兵の数は思恩の場合の比ではありません。中華最強の田州兵をとりこむことができるか、それとも、いつ敵になるかと怯え続けなくてはならないか、それが土官を保つか流官に改めるかどうかで決まります」
「脅迫するのか」
 と、胡堯元はまなじりをあげた。
「そんなつもりはないわ。土官を保ったほうが朝廷にとって利が大きいと言っただけよ」
「では、土官が残されるのであれば、それでいいのだな。罪を重ねた岑猛の家に土官世襲が今後も認められることはなかろうが、それは構わぬのだな」
 と、胡堯元は言った。
「流官に改められることがないのであれば、誰が土官に任じられようとも不平はないわ」
 と、花蓮はなかば勢いでそう言った。とはいえ、岑氏以外の者が田州土官に任じられることはまずないというとっさの計算もあるにはあった。
 黙って話を聞いていた陽明が口を開いた。
「よくぞ話を聞かせてくれた。今日聞いたことばも十分に考慮し、さらに諸々調査したうえで改めて田州の処置を決める。ただ、土官を残すとした場合だが、最有力土目の盧蘇は、四男邦相を立てようとしているようだな。邦相は君の子ではないのだろう」
「私には子はありません」
「邦相を立てることに同意しているのか」
「私は、次男邦彦の子、芝が次の土官にふさわしいと思っています」
「嫡嗣の邦彦に子があったのだったな。しかし邦彦は二十歳を前に討たれたのだろう。となれば、その子供はまだ幼児のはず。その子で国をまとめることができるのか。土官を残したとしても、すぐに相続の争いが生じて新たな乱が起こるようなことがあってはならんのだが」
 これはどう答えるべきか。今次の乱が収まったのち、芝と邦相と、それぞれを有力土舎、土目が後援し、二派に分かれて内紛が発生する可能性は低くない。
 返すことばを探していると、それをみた岑匡がはっきりと言った。
「ご心配にはおよびません。いまの田州の結束は固く、相続に絡んだ争いなど生じることはありません」
 岑匡は陽明に余計な懸念をされることを避けるためにそう言った。陽明もそれをわかっているだろうが、ゆっくりと二回首を縦に振ったあと、
「私は前任者たちの判断には一切影響されることなく、この耳で各方面の声を聞き、諸々調べたうえで必ずや理に適った処置をくだすであろう」
 と言った。そして笑顔で、
「安心して田州で待っておられよ」
 とつけ加えた。
 陽明の「理に適った処置をくだす」ということばは、花蓮が「流官に改めるというのは理に適わない」と言ったことを受けているのだろう。そうであれば、土官を保つ、という意味ととっていい。
 そして陽明の笑顔には、「いい答えを期待してよい」という含意があるように思えた。
 花蓮は、たしかな手応えを感じて、田州への帰路についた。

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『倭寇の海英傑列伝 瓦氏夫人』は、16世紀の広西壮族の女性で、一軍を率いて倭寇に勝利したスーパーヒロイン、瓦氏夫人をモデルとして描く大河小説です。こちらではその全文を連載で掲載しています。
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