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批判の幻聴

 『ネットはなぜいつも揉めているのか』という題の本を読んだ。ちくまプリマー新書から出版された本である。

 書き始めから筆者には大変失礼なことになってしまうのだが、タイトルの魅力に比して、大して新しい発見の示された内容ではなかったと言わねばならない。至極大まかに言えば、Twitterを見ていればわかるように、発信したメッセージが受け手の立場次第で歪めて解釈される可能性があるだとか、そうした歪んだ解釈から生じた対立が、先のアメリカ大統領選をめぐる事件が例となるように、被害者意識を伴って更なる対立や憎しみを呼ぶだとか、そういったことが書いてある。
 もしかすると、既に経験的に知っていることが多かったので、目新しさがなかったように感じただけかもしれない。しかしそうは言っても、「ネット(=SNS)」におけるコミュニケーションの性質・問題点をあれこれ並べた先にアメリカ社会に顕著に見られる「沈黙」「分断」を析出しておいて、次のようにまとめてある、

残念なことに、ソーシャルメディアでの議論は、そうしたタイプの調整に全くもって向いていません。具体的な事例について詳細に検討するためには、それなりの学習が必要になりますが、論戦の参加者にとってそのハードルは高いからです。

『ネットはなぜいつも揉めているのか』223頁

 これは身も蓋も無い。ネットが揉めるのは、ネットが揉める場所だからですと言わんばかりである。ちくまプリマー新書は主に中高生を読者に想定した入門的内容を扱う新書レーベルだが、本書を読んだ中高生たちは、間違いなくここで肩透かしを食らっているはずである。
 筆者もそうした自覚があるのかないのか、これで終われないと見たのだろう、最後数ページになって、SNSがもたらしてくれる「それまで見えていなかった世界の側面」やら「素晴らしい可能性」をチョロチョロっと書き付けてある。読めばわかるが、小学生でも思いつくようなスローガンだ。竜頭蛇尾という他ない。それと筆者は意識していないかもしれないが、先に引用した表現からは、SNSのユーザーを対話の体力を持たない存在として上から見下ろすような意識が透けて見える。

 この「上から見下ろすような意識」に関連して、もう一つ、私がこの本を読んでいてウンザリした点が一つある。本書の内容とは全く関係がない――ともあながち言えないかもしれない――が、とにかく「おことわり」が多いのである。本文には、何か事実の提示や主張をした後に、

「こう書いたからと言って、コレコレということが言いたいわけではありません。そうではなく……」

「このように書くと、ソレソレではないかという批判の声が聞こえてきそうですが……」 

と、「想定される読者の誤解」に書き手が先んじて手を打つような表現が異常に多いのである。この他、本書のあちこちに「ただし」「もちろん、しかし」などの条件や譲歩の構文が散りばめられていて、読者の読みが筆者の想定から脱しないように脱しないようにと躍起になっている。そんなに一々「おことわり」されると、こちらが「おことわり」なしには読めない読者だと思われているような気さえしてくる。実際そうかも知れないが、何より文章全体が言い訳がましくなって、正直ウンザリするのである。

 ここまで書いたような「上から見下ろす意識」や「おことわり」は、本書で筆者自身が紹介している通り、SNSで「炎上」を経験したことに由来するのだろう。一言で言えば、SNSに毒されすぎている。何か主張しようとした際に、それに対する批判の幻聴を生み出すなんて、言ってみれば病である。
 SNSで何か「つぶやく」ときにビクビクするならその世界だけで完結する病だが、紙の本を書くに至ってさえビクビクせねばならないのは深刻で、気の毒だ。

 内容そのものはレーベルが想定する読者に向けても適切で、至極真っ当なものであるのだから、もっと伸び伸びと歯切れ良く文章を書いてしまって良いのに、非常に勿体無い。SNSを長年やっているとああなってしまうのかと勉強になる一冊であった。

 さて、先に少し触れた「ウンザリ」感は、実は最近出版された他の本を読んでいても結構感じることである。私はTwitterやらInstagramやらのサービスには登録していないのだが、本においてもこんな傾向があるということからすると、おそらく批判の幻聴は、上の本の筆者に限らず社会一般の人々が抱えている病であるらしい。特に比較的若い書き手――概ね1980年代生以降――は、何か主張すると必ずと言っていいほど譲歩構文が尻尾に垂れている。批判の幻聴がSNSのもたらした病であるならば、この傾向が書き手の年齢と相関するのは不思議なことではない。

 見方を変えてみると、むしろ私の考え方が不用心なだけで、そのような自己防衛なしには自分の言葉を発信できない時代ーーあるいは発信するにはあまりにも危険な時代ーーになったのかもしれない。もしかすると、主張を発信していることそれだけでも既に非常に勇気のある行動に出ているわけで、だからこそ多くの人は沈黙しているのではないか。難癖をつけられるだけで一つの得にもならない感情や思いは、黙って殺した方が賢明である。小難しいように見える議論だって、「難しい」ことが嫌なのではない。「難癖」が嫌なのである。やれ真の多様性だの他者理解だの対話だのと奇特なことをする必要はない。食べた物の写真を撮って、カメラに向かって踊っている方が楽しいに決まっている。

 そう考えると、必要な自己防衛をしていること自体にさえも、こんなネットの隅でガチャガチャ言われている筆者にはまた先とは違う気の毒さが湧いて来て、済まない気持ちになって来た。

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