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追悼と称し、志村けんを偶像化する人々

簡単に書いた。読んで欲しい。

本日、午前中に報じられるや否やあっという間に日本の人々に衝撃を広げた志村けんの訃報。
皆が追悼をし、感傷に浸っていただろう。
そんな中、フェミと呼ばれている人々がその追悼ムードの最中彼を批判した。
いや正確には彼に対してのあるツイートに批判を飛ばす形で、間接的に批判が完成していたかと思う。

そのあるツイートとは

「志村けんのお陰でゴールデンタイムに女性の性的部位が見れたんだ。死なせない」

という内容のものだった。

これに対しフェミたちは

「志村けんを追悼はするが、あの番組をいい思い出にしないで欲しい」

という内容で批判した。

さて、皆が志村けんの死に哀悼の意をささげる中、このように批判することは場違いだと
炎上しているわけだ。

しかし、最初から核心に触れてしまうが、追悼と賛美は別物では無いかと私は思ったのだ。

場違いだ、という言い分を持つ人は"追悼と同時に賛美をしているからこそ批判に対して反発した"のでは無いだろうか。

彼らは追悼と称し、志村けんを偶像化することを目的としている。
だから批判は許されない。ただの追悼感情だけではなく強い賛美があるからこそ彼らは批判に敏感に反応する。
つまり彼らの言う「故人を叩くな」は本心からのものでは無い。
真にして欲しくないことは別に眠っている。
仮に批判の最中、志村けんが故人で無くとも彼らから同じような批判があったと私は思う。

その時は、"故人を叩くな"というベールを剥がして。


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