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「孤独のチカラ」



久しぶりに本の整理をした。

この先もう読むことはないだろうという本にさよならをするのだが
ゴミに出すのは忍びないので、
ブックオフへ持って行くか図書館へ寄贈することにしている。

いつかそのうちに……と先延ばしにしてきた年鑑や図鑑も
思い切って処分する。
あとはハードカバーの単行本が少々、それと文庫本だ。

文庫本はけっこうな量がある。
目に付いた本をまとめて買うことも多く当たり外れがある。
思いもよらず面白い本もあれば、逆もあり、
冒頭の数ページで撤退、なんていうこともある。
汚れも傷みもないそれらの本はブックオフで歓迎される。

整理するうち、なんとも不思議な本が出てきた。

新潮文庫 孤独のチカラ

新潮文庫 齋藤孝著 『孤独のチカラ』(初版発行平成22年)

文庫版、本文約180ページ。
この書籍そのものが不思議なのではない。
不思議なのは、この本を読んだ私、
数年前の私だ。


表紙の角が擦り切れている。
ーーあまり状態は良くないなあ、などとページをめくった。


付箋が貼られている。
誰が貼った? 
もちろん私だろう
貼った憶えはないけれど。
やれやれ
剥がそうとすると
なんと、
そのページのあちらこちらに縦の線
が引かれているではないか!
鉛筆で。文章に沿って。
ギョッとした。

憶えがない

さらにページを繰ると、今度は書き込みがある。
書中の文章にラインを引き、➡️で引っ張り、「NO!」なんて書いてある。

それこそ、「NO!」と叫びたい気分だ。

憶えがない。
それに、私は本に書き込みをしたりはしない。(はず)

しかし
鉛筆書きの、くにゃくにゃと汚い字は確かに私の字だ。

この本を買ったことは憶えている。三年ほど前だ。
数冊の文庫本とともに書店で買った。
読んだことも確かだ。
が、
付箋はまだしも、文章にラインを引いたり書き込みをした覚えがない
自分の仕業とは思えない。

だいいち、(これがもっとも重要な事なのだが)内容を殆んど憶えていない。
ラインを引いたり書き込みをするということは、多少なりともそこに書かれた文章に心を動かされた、ということではないのか?

裏表紙に著者の言葉があるので読んでみる。


私には〈暗黒の十年〉がある。それは受験に失敗した十八歳から、大学に職を得る三十二歳までに体験した壮絶な孤独の年月である。しかし、人生のうちで孤独を徹底的に掘り下げ過去の偉人たちと地下水脈でつながる時間は、成長への通過儀礼だ。孤独をクリエイティブに変換する単独者のみ、到達できる地点は必ず存在する。本書はそんな自らの経験を基に提唱する芳醇な「孤独の技法」である。

『孤独のチカラ』裏表紙

本文中、ラインが引かれた部分は多数ある。
その中から読書について語られた箇所(おそらく当時の私が最も力を込めてラインを引いたところ)を二箇所。

読書は、死者の世界へ旅すること
書物というのは大変不思議なものだ。本来出会うはずもなかった、死んでしまった人が、《いたこ》の形で自分に語りかけてくれるのだから、それだけで興味深い。私はいま流行りの小説よりも古いものを読むのが好きなので、幸田露伴や樋口一葉や式亭三馬を読む。すると、「ああ、《いたこ》が来て語ってくれている」と思うのである。
(中略)
死者の声というのはものすごく面白い。否応なく人は惹きつけられる。そして書物を通せば、いつでも私たちは時代を超えて死んだ人と対話できるし、少なくともメッセージが聞ける。これは奇跡的なことなのだ。

『孤独のチカラ」126ページ

地下水脈のように脈々と流れていく確かなものをつかんでいくためには、どうしても言葉によるドリルが必要なのだ。それには、自分の魂の友を求めるような気持で読書をすることだ。それが身についていれば、孤独に押しつぶされることは決してない。

『孤独のチカラ185ページ

「言葉によるドリル」で地下水脈を掘っていく――
この文章には記憶がある。
ああ……良かった、記憶力は全滅していない。

胸を撫でおろし、本を置いて考えた。
何故、私はこの「孤独のチカラ』という書籍に対し、書き込みなどをしたのだろうか
また、そうまでして読んだ本の中身を何故、憶えていないのだろうか

ふいに思った(思うことにした)
『孤独のチカラ』は〈テキスト〉なのだ。
「これは孤独の技法である」と裏表紙に書かれていたではないか。
そう、この本は啓発本でありテキストなのだ。
テキストにはラインを引くし余白に書き込みもするだろう、そして必要がなければ忘れるだろうー


それ以外の理由を考えるのはやめておくことにした。

いずれにしても
この本は売却も寄贈も出来ない。
手元に置いておこうと思う。





ヘッダーは皆んなのフォトギャラリーからスナフさんの写真を使わせていただきました。