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節子さん

2023年5月某日。晴れ。20℃。



節子さん、母方の祖母、が4月に亡くなった。直近で入院や通院もしていたわけではなくて、突然のことだった。死因は不明だけど、大動脈解離じゃないかと。こたつで横になりながら、息を引き取ったらしい。

少ない親戚の中で一番好きな人だったなと思う。お婆ちゃんっ子だったと思う。妹にもそう言われて、少し誇らしくてどこか恥ずかしかった。



僕が知っている節子さんは、ずっと一人暮らしだった。旦那さんを早くに亡くし、女手一つでお袋と叔父を育てたらしい。だから、節子さんが旦那さんと二人でいるところを見たことがない。僕が生まれた時からそうだったから、それが当たり前のことだったけど、よく考えたら絶対寂しいよね。

だからか分かんないけど、土曜日は必ず節子さんが一人で暮らす家に行って、両親と僕と妹と節子さん5人で夕ご飯を食べてお菓子を食べてお風呂に入って、22時過ぎに帰宅していた。たまに泊まったりもした。



節子さんとの思い出はいっぱいある。いっぱいあるんだけど、書ききれないからかいつまんで。

小学1年生の頃、ショッピングモールで節子さんに叱られて、拗ねて1キロ近く歩いて節子さんの家まで帰った。なんで怒られなんだっけな。

小学2年生の頃、朝早くにバスで市街地に出かけて、百貨店の最上階の洋食屋でホットケーキを注文する、っていう贅沢を2人でよくやった。そのあとは必ず屋上のゲームセンターでゲームをして、そしてデパ地下でお菓子をいっぱい買って帰った。

小学3年生の頃から4年生の頃、節子さん家の応接間でプラスチック製のバットと綿のボールで野球をするのが土曜の夜の楽しみだった。いつもホームラン合戦だった。

小学5年生の頃、毎週恒例の節子さん家訪問からの帰宅途中、節子さんが亡くなるのを想像して、後部座席でこっそり泣いた。

小学6年生の頃、ダイヤモンドっていうボードゲームで始めて節子さんに勝てた。大人を知性で打ち負かした興奮は今でも覚えている。そしてそれ以降はもう負けなくなって、気づいたらやらなくなった。

中学1年生の頃、ハリーポッターと死の秘宝をフォーラスっていう駅ビルの映画館に見に行った。節子さんはストーリーが分からなかったんだろうね、隣で寝ていた。

中学2年生の頃、親父に叱られて不貞腐れて、雨の降る中、実家から10km以上離れた節子さん家に歩いて向かった。着いたら、黙ってタオルを渡してくれた。

高校3年生の夏休み、節子さん家でセルフ勉強合宿を突然開催した。喜んで迎え入れてくれて、毎日美味しいご飯を作ってくれた。進学先については口を出されなかった。

大学3年生の夏休み、節子さんの車の助手席に乗ってパーク獅子吼に連れて行ってもらった。ゴンドラが風でグラグラ揺れていた。頂上から見る、平野と川と、日本海はキレイだった。節子さんのバケットハットが飛ばされそうになっていた。

大学4年生の夏休み、小さい頃よく遊びに出かけてた、戸室スポーツ広場っていう大きめの公園に行った。僕の記憶にある遊具や滑り台は小さくなってて、そして節子さんも小さくなっていた。コロナ禍で閑散としていて、もの寂しさを感じた。

大学5年生の春休み、節子さんを助手席に乗せて千里浜なぎさドライブウェイに向かった。カキフライ定食をご馳走した。美味しそうに食べていた。

社会人2年目の冬、東京に遊びに来た節子さんに、彼女を紹介した。上野の公園の中にあるイタリアンで、ごりごりの金沢弁で会話をしていたら、彼女は口をあんぐり開いていた。長旅に疲れた節子さんはいつもより静かだったけど、それでもよく食べてよく話していた。

社会人2年目の冬、金沢に遊びに行ったとき、寄り道して節子さんに結婚相手として彼女を改めて紹介しておけばよかったな。ツーショットの一枚くらいはLINEで送っておけばよかったかな。あーあ。


今でもふとした瞬間に、毎回違った思い出が浮かんで、毎回同じ後悔をして、そして涙が出る。でも、楽しい思い出の方が圧倒的に多いから、締めくくりはできるだけ楽しい思い出にしたい。悲しい気持ちで終えたくないもん。どうにかならないもんかなあ。


いつかはこんな日が来る、といつ頃からかな、20歳を過ぎてからくらいかなあ、急にそんなことを帰省して祖父母に会うたびに思うようになった。祖父母は全員70歳を超えて、当たり前だけど腰が曲がってたり小さくなったりしていたから無理もない。だから、母方の祖母と2人でドライブに行ったり、父方の祖父母と3人でランチに行ったり、年に1~2回の帰省で必ず祖父母孝行をするようになった。これからももちろん続けていきますよ。



今までありがとう。これからも見守っててね。
向こうで旦那さんと久しぶりに再会できてるといいな。

またね。


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