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老若日記-その1-プレ棺桶で考えたこと あなたはどこで死にたい?

病院で死ぬことが普通である今日、あなたは「どこで死にたいか」考えたことはあるだろうか。

・しょうもない前書き

あなたはどこで死ぬだろうか。

うっかり交通事故で路上死?

曰く付きの洋館で連続殺人に巻き込まれる?

おそらく、あなたは病院で死ぬのではないだろうか。

日本では、病院の死での死は一般的だ。
少し古いデータだが、1980年代以降、病院で死を迎える人の割合は急増し、反比例的に自宅での死亡は減少している。(下記リンク参照)
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii09/deth5.htmlht

逆に言うと、家で死を迎えることが普通だった時代は、最近まで我が国にもあったということだ。

家で死にたいか、病院で死にたいか。(あるいは他のどこか?)

ちょっと考えてみた。

・祖母が入院した

高校の卒業式の日、母が入院した。
なんでも、どこかの臓器になんかの癌があって看過できないほど進行したとかなんとか。
詳しいことは覚えていない(どうせ聞いたところでわかりやしない)が、その日から私は大学入学手続きのために東京へ、見舞いのために地元の病院へ…と往復する生活を始めた。

「都会」と「地方」、「新生活に浮き足立つ若者」と「生死の境の老人」、まさに栄枯盛衰を往復する生活だった。わざわざ祇園精舎に行かなくとも諸行無常は転がっているらしい。

祖母が入院したのは、地元の総合病院である。かかりつけ医から紹介状を貰って行くようなタイプのやつ。車が無いと行けないような場所にあり、近所にはせいぜいセブンイレブン1軒ある程度。周りは雑木林や畑で囲まれている。季節柄、道路沿いの桜が見頃で綺麗だった。

内科、外科、皮膚科、神経科…と大抵の診療科は勢揃いであり、サッカー場が2 、3個入りそうな駐車場には近隣のナンバーの車がずらりと並んでいる。地域医療の支え、というやつなのだろう。平日の昼間でも、ロビーは見舞客や患者でそれなりに賑わって(?)いた。

祖母がいるのは癌患者のフロアで、4階にある。母の記憶が定かなら、私はその1階下の産婦人科で生まれたらしい。1階下では人が生まれ、1階上では人が死ぬ。輪廻ではないが、人間の数のバランスってこういう感じで保たれるのだろうかと想像すると、なんだか面白かった。

・プレ棺桶

このフロアはほとんど高齢者しかいない。何十ものご老人が皆同じ入院服を着て、一様にぐったりベッドに転がったり、廊下をうろついたりしているのはちょっと異様な眺めだった。ナースが3倍増しで若く見えた。
 
さて、祖母の部屋は6人部屋で満室であり、行けばお見舞いの家族がいるのでまぁまぁ賑やかなものだった。病状の進行は人それぞれ、という感じだったのだろうが…。

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ベッドの配置はこんな感じだった。問題は、祖母の向かい側にあるこのベッドである。毎週行くたびに寝ている人が変わっているのだ。

最初は気のせいかな、と思っていたけれどどうやら思い違いではないらしい。先週は薄い白髪のおばあさん、今週は薬剤投与の影響でむくんだおばあさん…といった具合に変わっていくわけだ。カーテンの陰で見えづらいが、小さくまるまってゼェゼェ息をする様子はちょっと痛ましかった。

何故そのベッドだけ人が居着かないのか。他の部屋でもそんな感じだったのか、本当にそのベッドだけがおかしいのか。実際のところはよくわからなかったが、一日中日陰にあり、なんとなく不穏な雰囲気だったので、私は密かに「プレ棺桶」と呼んでいた。今思えば、全く失礼な話である。

・結局、どこで死にたいか→生きたいか

プレ棺桶」での人の入れ替えとは、どういうことか。ちょっと考えてみた。


1.治ったので無事退院。
2.自宅療養で一時的に退院。
3.霊安室行き。

3.は不謹慎だから考えないことにした。ただ、1.も考えにくいのは確かだ。或いは、2.なら有り得るかもしれない。実際祖母も自宅療養を検討していたので、これについて考えることにしてみた。

なぜ家に帰りたいのか。病院にいれば24時間体調を見守ってくれる人がいるし(味はともかく)健康的なご飯が三食ついてくる。程度の差はあれ、仲が良好なら家族が見舞いにもくるだろう。

しかし家にいるとどうだろうか。家族も常に気を張ってなければいけないし、突然具合が悪くなった時のことを考えるとかえって不安じゃないか。それでも家にいると安心できると言えるだろうか。

ふと、昔読んだ本を思い出した。
人間は動物の中で唯一「生きること」を外に閉め出した不自然な生き物である、という主張。「外」というのは、自分の生活範囲=家の外、と理解して良いと思う。
 
出産は病院の分娩室の中で。排泄物はすぐに流され、下水管の向こうで見えやしない。
台所の野菜が誰にどうやって作られたかさえ、直接見ることはできない。
自分が直接知覚できる範囲、即ち家から我々は実に様々な「生きること」を疎外してきたのだ。こんなことをするのは人間だけだろう。

そして死ぬのは病院。ここで奇妙な事が起きていると気づいた。
あらゆる「生きること」を疎外した自分の、最後の「生きること」=死ぬことは家から疎外されている。死ぬ自分は家から追い出され、病院におしやられる。「疎外していた」はずが、いつの間にか「疎外される」。

こういうことに、私たちは本能的な拒否感を感じるのではないか。

あるいは、周りの患者が亡くなるのを目にする日々が続くと、やっぱり気が滅入るということもあるだろう。死を身近に感じながら怯えて余生を過ごす、というのも酷な話かもしれない。

いずれにせよ「家で最期を迎えたい」という方は、「家で死にたい」のではなく「死ぬ前には家にいたい」と思うのだろう。「家で最期まで生きたい」と言った方が妥当だろうか。問題は死ぬことではなく、生きることにある。

3月も末になって、偶々「プレ棺桶」が空いた日(ちょうど4人目の患者さんがいなくなった)、ちょっとだけ横になってみた。


目に入ったのは、真っ白な天井。リノリウムの床。ギリギリ見える窓の外には、隣の棟の壁があるのみ。

聞こえてきたのは、見も知らぬ来客者の声。知らないおじいちゃんの呻き声。機械音。そして清潔すぎるシーツの匂い。

理屈をこねこねしてみたが。

まぁ端的に言って、こりゃ落ち着かん。

ここは最期に生きたい場所ではない。

 
  

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