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イブキちゃんの聖書入門#30 「光は闇の中に」

"初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。"
ヨハネの福音書 1章1~5節

★思い出のクリスマス会

⭐︎私(大城TED)はクリスチャンになる前から、クリスマスは好きでした。

もちろん、ケーキが食べられる、クリスマスプレゼントを買ってもらえる、などの現金な理由もあったのですが、それ以上に、クリスマスというイベントが近づくにつれて変わり出す街の雰囲気や、それに伴って流れるクリスマスソング、そこに含まれるメッセージに何とも言えない温かみや安心感を感じていました。

聖書のこともイエス・キリストのことも殆ど知らなかった時でさえ、「クリスマス」というイベントには、「自分が自分のままで許される、祝福される」という「存在の全肯定」と言うべき保障された平安がある、と確信していました。

⭐︎私にとって、一番印象に残っている、クリスチャンになる前の幼き日のクリスマスの思い出は、小学校低学年時に通っていた絵画教室での子供クリスマス会です。

その絵画教室の先生はクリスチャンでした。

今思えば、半分は子供たちに対する伝道目的だったと思うのですが、当時8、9歳だった私にとって、そこでのクリスマス会は、他の集まりや子供会とかで行われていたそれとは様相が全く違う、「かなり本格的なもの」でした。
「かなり本格的」というのは、子供視点で、いわゆる「キリスト教会のミサみたい」という意味です。

⭐︎その絵画教室はログハウス風の小さな建物だったのですが、クリスマス会では部屋を真っ暗にしてキャンドルだけを灯し、先生がギターを弾きながら皆で子供讃美歌を歌う、というものでした。

その讃美歌の時間が終わると、キャンドルの非日常的な灯りの中、配られたお菓子を食べながら、先生による「クリスマスのお話」を聞く流れになりました。

今となってはどのようなお話であったか、細かい内容は覚えてはいませんが、いわゆるクリスチャン用語で言うところの「証(あかし)」のようなお話であったかと思います。
「証」とは、自分がどのような経緯でキリストを信じたか、どのように変えられたか、どのような神の祝福を体験したかを語るメッセージの一種で、簡単に言えば「体験談」のようなものです。

断片的に覚えているその先生のお話は、彼がまだ北海道に住んでいた、戦後間もない子供時代の出来事で、戦地からクリスチャンだった父親がボロボロの姿で帰って来て、その父親が持って来た聖書を読み始めてやっとキリストの愛の深さがわかった、信仰を持つようになった、というような内容であったと思います。

確かに断片的ではありますが、記憶に残っている部分に関しては、その先生の話を、当時の彼が体験した匂いや温度、湿度までも、リアリティをもって私の頭の中で再現しており、そのことは今でも私の内側で息づいています。

暗闇の中に灯るキャンドルの光、その輪の中で語られるキリストの話、神との出会いの話。

その時の空間を支配していた非日常性も相俟って、私は妙に、温かいようでいて、透き通った、微かな畏怖の念すら感じるような、不思議な感覚を味わったことをよく覚えています。

思えばそれが「神の神聖さ」に僅かにでも触れた、最初の経験なのかも知れません。

★「ことば」であるキリスト

"初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
ヨハネの福音書 1章1~5節

⭐︎新約聖書には4つの福音書があり、「マタイ」「マルコ」「ルカ」の3つの福音書は「共観福音書」と呼ばれています。

それはその3つの福音書には共通する記述が多く、似たような表現も見られることから、そのように括られて呼ばれるのですが、上記の聖書箇所が書かれてある「ヨハネの福音書」は、同じ出来事が描かれる場合でも、他の3つの福音書とは異なる視点やスタイルで描かれる場合が多く、その為に「第4福音書」と呼ばれていたりします。

「ヨハネの福音書」の特徴は、「キリストこそ神である」、つまり「キリストの神性」を明確に示しているところにあり、「光と闇の戦い」をテーマとしているところにあります。

その特徴とテーマが、この一番最初の冒頭部分に提示されているのです。

⭐︎「初めにことばがあった。」

この「ヨハネの福音書」の書き出しは、聖書の民であるユダヤ人にとって馴染み深い創世記1章1節を彷彿とさせるものです。

"はじめに神が天と地を創造された。"
創世記 1章1節

著者であるユダヤ人ヨハネは明らかに、旧約聖書が記録している宇宙の歴史の中で最も古い事柄について記した創世記1章1節を意識しており、キリストを紹介するにあたり、その宇宙創造以前にまで、神のみが存在されていたこれ以上遡ることが出来ないところまで、時間を遡らせようとしています。

⭐︎「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」

…「ことばは神であり、神とともにおられ、天地創造の働きをなされた」。

というここでの説明から、「ことば」とは神であり、同時に神とは区別された存在であり、かつ神としての調和がある、という、人間の理性的な理解を超えた、神秘的かつ超自然的な存在であることを示しています。

実に、「ことば」とは、父、子、聖霊の三位一体の神の中の「子なる神」であるキリストを示しているのであり、キリストは100%、天地創造の神である、ということをヨハネは読者に伝えているのです。

⭐︎しかし、「神・キリスト=ことば」というのは、一体どういう意味なのでしょうか?

どこかわかるようでわからないような、含蓄がありそうで、掴みどころがない比喩のように感じてしまいますが、著者のヨハネには明確な意図があったようです。

新約聖書は全てギリシャ語で書かれており、この「ことば」と訳されている原文のギリシャ語は「ロゴス」という単語です。

ヨハネが生きていた紀元1世紀当時のユダヤ人社会では、ヘブライ語と同時に、ヘブライ語の親戚のような言語であるアラム語が話されており、むしろ日常生活においては、ユダヤ人たちはアラム語を主に使っていたとのことです。
そのような中で、ユダヤ教のラビ(教師)たちは、アラム語で「ことば」という意味を持つ「メムラ」という概念を作り出し、そこに6つのユダヤ教由来の教えを確立させたと言われます。

その6つの教えとは、

1:「メムラ」は時に神であり、しかし、時には神とは区別されるお方である。

2:「メムラ」は天地創造に参加されたお方である。

3:「メムラ」は神の代理人であり、仲介者である。

4:「メムラ」は神の栄光の現れである。

5:「メムラ」は神の契約の仲介者である。

6:「メムラ」は神の啓示の仲介者である。

というものです。

⭐︎お気付きかと思いますが、「メムラ」の箇所に「イエス・キリスト」を当てはめれば、完全に、新約聖書が指し示すキリストの姿と調和します。

三位一体の教理を受け入れてこそ初めて、この「メムラの教え」(特に1番目)は説明可能になるのですが、当然、「メムラの教え」が確立された当時は新約聖書は存在せず、ラビたちもイエス・キリストの存在を知らず、三位一体の教理も認められていませんでした。

それなのに何故、このような教えが生まれたのかは全くもって不思議ですが、恐らく、何らかの神からの啓示がラビたちにあったのだと思われます。

ラビたちは自らこの「メムラの教え」の1番目を説明することはしなかったと言われています。
ただ「そういうものだ」と受け取っていただけなのでしょう。
「理解出来ないことは理解出来ないこととして理解する」というスタンスはユダヤ人の中に根付いているのかも知れません。

しかし、驚くべきことに(恐ろしいことに)、この「メムラの教え」を十分に説明し得る、「メムラ」そのもののお方が、全ての人にも見える形で、理解できる形でこの地上に現れたのです。

「ヨハネの福音書」の著者、ヨハネはガリラヤ地方という田舎の漁師でしたが、ユダヤ教の伝統と文化の中で生まれ育った生粋のユダヤ人です。
当然、「メムラの教え」の内容も知っていたと思います。

その彼はイエス・キリストと最も近しい弟子の一人であり、直にイエスの神性を目の当たりにして来ました。

故にヨハネは、「メムラ」こそイエス様である、と確信し、キリストを「ロゴス」(ことば・メムラ)として表現したのです。

ここには確実に、旧約聖書に預言されたメシアを待望する、同胞のユダヤ人に対するヨハネからのメッセージがあります。

キリストの神性への畏怖と感動、また愛する同胞に何とかイエスこそメシアであると気付かせたいヨハネの熱い思いが、この冒頭の箇所に凝縮されていると私は思います。

★光は闇の中に

"この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。"
ヨハネの福音書 1章4~5節

⭐︎「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。」

ヨハネはここで「いのち」「光」を関連付けています。

「この方」(キリスト)こそが「いのち」の源であり、またキリストが与えられる「いのち」こそが「人の光」だとされています。

ここでヨハネが語る「いのち」とは、神と永遠の平安の時を過ごす「永遠のいのち」です。
その「いのち」こそが、人が本来持つべき真の「いのち」であり、最後まで残る「いのち」です。

それ故に、ヨハネは神が賜る「永遠のいのち」を、最終的な勝利者である「光」と紐付けているのです。

⭐︎「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」

「光と闇の戦い」は「ヨハネの福音書」のテーマであると書きましたが、「戦い」と言っても、「光」と「闇」が五分五分の争いをしている、という訳ではありません。

「打ち勝たなかった」の「打ち勝つ」に当たる部分は、原語のギリシャ語では「カタランバゾウ」という動詞であり、意味は「捉える・認知する」という意味です。
それに、ここでは否定を意味する副詞の「ウゥ」が付きます。
(ウゥ・カタランバノ)。
そのことを踏まえて翻訳するならば、「闇は光を理解出来なかった」とするのがより自然かと思います。

光は闇に対して圧倒的な勝利者であり、そもそもが次元が違う存在です。

暗闇の部屋に灯りを灯せば、その部分の闇の支配は消え去ります。

光に対抗し、光を飲み込もうとする闇を、私たちは見たこともないし、闇が光と互角に勝負出来るような現象は、光である神が支配されるこの宇宙において、決して起こり得ないのです。

⭐︎将来、宇宙が造り替えられ、新天新地が現れると、一切の闇は消え去り、神の栄光による光が世界を照らす、とされています。

光しかない世界であり、またそこには「永遠のいのち」しかありません。

闇もなければ、「滅びゆくいのち」も存在しなくなっています。

"また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」"
ヨハネの黙示録 21章1~4節

「光」の勝利は約束されているのです。

⭐︎キリストは光です。

この闇に沈んだ、闇の支配が当たり前かのように錯覚してしまう世の中を照らす真実の光として、今から約2,000年前に、赤ん坊の姿となってこの地上に下って来て下さいました。

私がかつて絵画教室の子供クリスマス会で体験した、闇に輝くキャンドルの温かい灯よりも更に温かく、優しく、それでいて何よりも力強い光をもって、キリストは今、私たち一人ひとりの心の中の闇を照らそうとして下さっています。

そのキリストを、あなたの造り主である神を、心の全てで迎え入れて下さい。

現在、過去、未来、全てにおける解決が必ず与えれます。

「キリストによる永遠のいのち」

それこそが神による真のクリスマスプレゼントです。

良きクリスマスを!

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