イブキちゃんの聖書入門#68 「組織の中では生き辛い(前編)」
⭐︎世の中には大き分けて2種類の人間がいると思います。
「組織の中で上手く立ち回れる人間」と「そうではない人間」です。
私の場合は確実に「そうではない人間」に属しており、言い方を変えれば、「空気が読めない・気が利かない」と周囲から思われてしまうタイプの人間であり、人間関係を構築し維持して行くあらゆる場面において(特に学校や会社内において)、人一倍の苦労をして来たと思っております。
⭐︎前回(#67『あなたの涙を神様は知っている』)でも紹介しましたが、新約聖書の中に、ベタニアという村に住むマルタとマリアという姉妹が登場します。
(どちらが姉で、どちらが妹かはわかりませんが)。
冒頭で記した聖書の記事から推察するに、マルタは「組織の中で上手く立ち回れる人間」であり、逆にマリアは「そうではない人間」ではないかと思わされます。
⭐︎イエスとその弟子一行がベタニアに到着すると、直ぐにマルタは宿屋の女将さながら手際よくイエスたちを出迎え、彼らの汚れた足を洗うことを始めとし、食事の支度や寝床の準備など、細々と気を配り慌ただしく動き回ります。
聖書には記されていませんが、もしかしたらその場には幾人かの使用人がいたか、村人が手伝いに来ていたのかも知れません。
(因みに「マルタ」という名前は、アラム語の「マル」から派生し、「女主人」という意味があります)。
マルタのようなホスピタリティの持ち主は、もちろん貴重で有り難い存在ですが、一方で「気配りが出来、きびきび動ける自分」に酔い、「それが出来ない誰か」を見下げる傾向があります。
そうなると、本来は自己を滅し他者に捧げる為のものであるはずのそのホスピタリティは、自尊心を肥大化させる為の跳躍台へとすり替わってしまいます。
マルタの内面で、いつの間にか、確かに形としては精一杯イエスをもてなしてはいるのですが、「自分がイエスにもてなされたい、この気遣いを認められて当然だ」という思いで満たされていても不思議ではありません。
そのような女主人として振る舞う姿を披露しているマルタにとって、その指揮と支配、自分が作り出すグルーヴ感から外れてしまっている存在、つまり「自分が出来ることを出来ない存在」であり「癪にさわる見下げるべき存在」が、同じ血を分けた姉妹のマリアだったのです。
⭐︎マリアはきびきびと筋肉質に躍動する周囲の空気感を他所に、皮肉なまでにおっとりと、イエスの足元に座ってイエスの話(おそらくは旧約聖書の解き明かし)に聞き入っています。
その姿を見て、マルタはたまらず感情的になってしまいました。
第一に、自分がこんなにも、もてなしの為に動き回っているのに、イエスはその自分を見てくれない。評価されて、もっと言えば敬ってもらって当然なのに、その褒賞をイエスは与えてくれない。
第二に、そればかりでなく、本来はもてなしの為に動こうとせず、見下げられるべきマリアが、その罰を受けていない。むしろイエスはそのマリアを慈しんでいるようにすら見える。
マルタの内側から何ともし難い不条理な怒りが込み上げて来たでしょう。
評価されるべき自分が評価されず、逆に評価されてはならない、叱責を受けるべき鈍臭いマリアが、ここではイエスの寵愛の対象となっているのですから。
それまでマルタが知っている、経験して来た「この世のシステム」から外れた現象が、彼女の目の前で起こっていたのです。
マルタは辛抱たまらずにイエスに訴えかけます。
これはマリアに対する当て付けであり、同時にイエスに対する非難でもあります。
マリアをもてなしの輪の中に入れようとしないイエスのその判断は間違っていると、マルタは言いたいのです。
またマルタにはイエスですらも「自分の都合の良いように動かそう、いや、動いて当然なんだ」という思いがあり、それがこの言葉に率直に表されています。
※次回「組織の中では生き辛い(後編)」へ続きます。
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