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那覇市のB面シティにあった父の実家付近に、シャレオツなスパイスカレー屋ができていた話

最近、ふと気付いたらKIRINJIを聴いている。
1996年に実兄弟である堀込高樹さんと堀込泰行さんが結成し、2020年に終止符を打ったバンドである。

無意識的にこんなにも雰囲気の良い楽曲を聴いている自分自身が不思議で、なぜかときっかけを探しに思考の旅へ出かけ、数マイルほど遡ったところで『その日のこと』を見つけた。
元社交街(赤線地帯と人は言う)にあった父の実家のそばに、シャレオツなカレー屋ができていたのだ。その店内で流れていたのがKIRINJIだったのである。

父方の実家は記憶の彼方

父方の実家は沖縄県那覇市壷屋の神原大通りにあった。私は*諸事情により帰省時の際は、隣町にある母方の実家に滞在することが多く(「両家は近所にあるものの文化圏は違う」と母は言う)、父方の実家の記憶は正直あまり残っていない。

*私の両親は沖縄県那覇市出身だが、私自身は東京都で育ったため、沖縄へは長期休みを利用した帰省にて訪れていた。そのため土地勘がアヤシい。

神里原大通り(神原、神里大通りとも)といえば、戦後の復興も著しく、那覇の裏社会を物語るには欠かせない大人の社交場、いわゆる赤線地帯という。
父はニューシネマパラダイスの主人公・トトと同じように、幼少期には近所の映画館でポップコーンを売って小銭を稼いでいたそうだ。どこの国の話だよと思ったが、これもそう遠くはないかつての沖縄の話だ。
親族もそのような町で育ってきたため、何かと物騒な思い出話が多いのも我が家の特徴だ。

神原エリアについて、詳しくは『新日本Deep 案内|那覇市内戦後最初の繁華街「神里原」が道路拡張で解体されかけている件』を読んでいただきたい。ちなみにこちらのブログの1枚目の写真こそ、我が実家の跡地である。

新日本Deep案内の管理人さんには、このような形で記録を残していただき、感謝の気持ちでいっぱいです。厚く御礼申し上げます。

父方の実家は小さな商いを営んでいた。
店内の冷蔵庫に商品と一緒に入った家族用のピルクル、レジ裏にある2畳ほどのスペースで従兄たちがゲームをしていたこと、2階より上の階への侵入は固く禁じられていたこと。ばあちゃんといえば、レジにドカンと座っているイメージだ。地震が起きたら数名が潰れてしまいそうなほど、あらゆる商品がある。
そして婆は言うのだ「冷蔵庫のピルクル飲んで良いからさ〜」
これが私の記憶のほぼすべてだ。

そのような商店は、一帯の再開発により、私が高校生のときに立て壊されることになった。そして事件は起こったのである。

燃えた家、風化しゆく風景

部活から帰ってきた日だった。ドアを開くと、居間に両親が揃っているのである。しかも父親は笑っているのだか焦っているのだかわからない妙なテンションの高さで、私を見た。そして言うのである。
「家、燃えたってよ」

結論から言うと、死傷者はゼロだった。実家を含め近隣の数棟が焼け落ちる事故となったそうで、出火元は近隣住宅の漏電だとかなんとか。もらい火とのことだが、建物にはかなりの被害が出た。
不幸中の幸いというか、立ち退きが決定した後だったため、我が親族は「引っ越しの手間が省けた、立て壊しの手間が省けた」とガハハ笑う。後日、地元の新聞に大きく掲載され、一族でオオーッと声を上げた。

一旦、物がなくなってしまうと、人の記憶はたちまち風化していく。恥ずかしながら私は映像としての記憶はもう抜け落ちてしまった。
こうして町は新陳代謝を繰り返しながら、いくつもの時代を越えていく。そこに立ち会っただけなのだ。

面影を探して、2022年冬の那覇へ

2022年冬、私は神里原大通りに立っていた。祖母の一周忌も兼ねて帰省し、時間を見つけてカメラを片手に町を散策していたのだ。

やちむん通りのシーサー。小綺麗な町となっている。
「ばあちゃんがよく連れて行ってくれた喫茶店」と兄談。

地図と記憶を参照しながら町を歩く。数年後には姿を消してしまいそうな景色を見つけて、シャッターを切って歩いた。

アーケードの裏側。父曰く、近隣に立つハイアットの最上階から見ると「より汚い」
父の実家の真裏にある歓楽街。兄は中学生のときにここら辺でキャッチされまくっていたそう。

レトロや鄙びを愛するブーム、いわゆる昭和レトロブームがメインカルチャーを席巻する中、私はぽつねんと思うのである。
流行りでも何でもなく、ここは町で生きる人間の日常なのである、と。この風景を肯定も否定もすることなく、ただ記録し、書き残し、頷くことしかできない。
ばあちゃんや父が生きていたこの場所を、私はどうしても嫌いになれない。

のうれんのそばにあるカレー屋

冒頭に戻ろう。ここでKIRINJIにようやく繋がるのである。もし音楽を流せる環境にあれば、『十四時過ぎのカゲロウ』を流すと臨場感が増すぞ。

暑いとも寒いとも言えない、煮え切らない12月の那覇の気候には、カレーがぴったりだった。例の実家跡地のスナップ写真を撮影し終え、振り返ったところに、こぢんまりとしたおしゃれなカレー屋が建っていた。看板には『カレー屋タケちゃん』と書かれている。
時間は14時を過ぎており、昼飯を食べるにも少々遅い時間帯だったため、いまここで食べ逃すと、中途半端に空腹を感じるハメになってしまう。こざっぱり綺麗になってしまった町の、垢抜けた店の扉を、私は開いた。

そこで流れていたのがKIRINJIだ。那覇のB面を背負っていた町で流れるアーティストではない。だが、この町の記憶も形なき今、ひとつの”歴史”として昇華されてしまったのだ。

ボサノヴァを感じさせるリズムに哀愁を帯びた旋律。ドライブで流したら心地よさそうなその曲こそ『十四時過ぎのカゲロウ』だった。
「この町でまさか、こんなにおしゃれな音楽を聴きながら、スパイスカレーを頂くなんて」と、私はなぜか泣きそうな気持ちで、あいがけカレーを注文した。

豆乳と野菜のベジカレーとキーマカレーのあいがけ。驚くほど絶品!

スパイスの香りが気持ち良く口いっぱいに広がった。付け合わせのインド風漬け物も美味で、2種のカレーが徐々に混ざり合い、新しい味がどんどん生まれていくのも愉快だ。

町は移ろう。流行も変われば、人も生まれ、そして死ぬ。そのたび泣いてしまいそうになるが、この涙は悲しみでも喜びでもなく、移ろうことへの執着を洗う儀式なのだ。

歴史にはA面とB面があり、人が行き交い、このカレーの味のように移ろうからこそ面白い。と、一種のこじつけ脳裏でかき混ぜながら、綺麗に舗装された神里原大通りを、お腹いっぱいの私は歩いた。

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