綿矢りさ『ひらいて』を読んで

いつか、綿矢りさの『ひらいて』を読んだときに書いた殴り書きです。

読み返しても何を言いたかったのか半分くらいしかわからなかったけど、転載してみます。




気分転換のつもりが、全気分を持っていかれた。

綿矢さんの本は本当にすごい。小説という媒体だからこんなに表現がはっきり届くのだなと思った。

本を読むと興奮して、自分も何か書きたくなる。言葉にして誰かに感動を伝えようとすることでしか消化できない気持ちが込み上げ、一杯になる。

好きな本の話は誰にも出来ない。相手は私の読んだ本を読んでいないし、仮に読んでいても私の感動を私が感じたようには理解できない。そして何より、この本を読んで覚えた感動について語ることは、私の心の最も重要な部分をあけすけに開くことだからである。そんな脆い人間になりたくないし、不安定だなと他者に判断されたくない。

それでも、本によって活性化された私の脳は言葉を集め始める。受け取ってくれる相手を想像してしか、私は思考を言葉にすることができない。言葉とは誰かに何かを伝えるためのものだ。私は今これを書きながら、自分と対話しつつ、自分以外の誰かに漏れ伝わるかのようにこれが届いてくれないかと願う。表現欲求かつ承認欲求。

自分の中でしか、自分のためにしか、言葉を使っていないことに気づく。それに陶酔する自分と辟易する自分がいて、年を重ねるごとに辟易の方が勝るようになった。この文章もだから、とてもはしたないものに思えて仕方ない。

それは思いを向ける対象が自分の外にないからだと、この本を読んで気づかされた。この本の主人公である愛は、恋を通して自我の暴発を知り、失恋を通して他者を想う気持ちを知った。心から自分以外の存在を想うとき、蓄えてきた語彙が高速で行き交う私の思考回路は、今とどう変わるのだろう。変わるのだろうか。

私は自我を見せつける相手を今日も探している。「頑張る」というのは自分以外の存在に向けて”頑”を張り、”気張る”ことだと思う。いつからか、何のために頑張っているのかわからなくなった私は、そのまま何年もわからないままでいる。

若さとは、自分のために突っ走るエネルギーのことだと、そんな風なことを私の敬愛する作家や芸人はこぞって言う。自分を認めてもらうために、自分が思う理想の自分を叶えるために。そんな気持ちになれないまま、「なりたい自分」があることを今日も関係ない他者に求められる。私は「若さ」の只中にいるから。

誰かのために生きるしかなくなることができるなら、ちゃっちゃとおじさんになりたい。もうこんな脆い自意識に付き合いたくもない。

私はだから、おじさんになった自分が悔いなく他者のために頑張れるように「若さ」の今を「若さ」満点で駆け抜けなければならない。この本のたとえと美雪は「若さ」を生きる苦しみを共有し、そのことによって想い合い、支え合っている。

今の私に必要なのは、恋愛なのかもしれないが、それ以外で言えば想ってもいない他者のせいにせず、自分をちゃんと慈しむ態度だろう。誰かに合わせることと、誰かのせいにすることは似て非なるが、私は今までごっちゃにしてきた。

もう私は自分自身の観察者ではいられない。誰かを想うことができる余裕のある大人、という「なりたい自分」になるため、未来に向かって身を投げねばならない。死ぬ気で頑張れるのは、若さゆえであると同時に、若いとみなされているうちだけかもしれない。

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