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私は何者にもなれない、隣町のC子だった。

小学生の頃、ヤンチャでイタズラ好きで、先生からいつもしかられている子はいなかっただろうか。
一方で、成績優秀で字が上手、先生からいつも気に入られている子はいなかっただろうか。

私は子どもの頃、良い子にも不良にもなれなかった
学力も中の中で、何かに秀でた才能があるわけではない。
ピアノを12年間続けたが、趣味の域を出ず、それで生計を立てられるほどの技量は身につかなかった。

高校生の頃は、当時流行ったアムラーやヤマンバにはなれない、地味なタイプだった。
時々プチセブンを買うが、結局mcSisterに戻ってきてしまうような女子高生。
ルーズソックスは、ほどほどに弛みを持たせる程度にして、ソックタッチで止める。
(↑すみません。若い人には伝わらんよなぁ…)

唯一試した不良っぽいことは、理由もなく午後の授業を早退したこと。後ろめたさから、心臓はバクバクし続け、何も楽しくなかった。
電車に乗っている最中も、バレたらやばいよな、と不安しかなかった。
今思えば、じゃあなぜやったのかと思うのだけれど、多分若気の至りもあったのだろう。

当然後日、先生にズルだとバレて、怒られる羽目になった。
スリルを味わえたとか、一歩大人に近づけた(ルン♪)とか、そんな気持ちの変化は一切なく、ただ叱られただけで、なんのメリットもなかったというオチである。
「何やってんだか……」
職員室でこってり絞られた後、思わずそんな言葉が口をついてしまったぐらい、自分で自分が情けなくなった。

行動がいろいろと中途半端だった

このように、私は物語の主人公にはなれない、地味な人生を歩んできた。
……というよりも、何もかもが中途半端だったという方が正しいか。

映画や漫画の主人公は、特別な才能のある人が多い気がする(個人的な感想です)。
もしくはのび太くんみたいな落ちこぼれだったり、小公女セーラのように不幸が重なったりするタイプ。
両極端なイメージだ。

私はどちらにも当てはまらない、いつも脇役の人。
他人から印象に残らない人。私がいてもいなくても、世の中はまわっていく。
物語の登場人物で言うなら、隣町で交通事故に合う主婦C子さんなのだ。
ひょっとしたら顔すら映らず、ナレ死しているかもしれない。

子どもの頃は、そんな「何者でもない自分」を卑下した時期もあった。
主役になれない自分は、ダメな人間だと思ったことも、数えきれないほどある。
せめてもっと頭が良ければ、もっと容姿が良ければ、裕福な家に生まれていれば。
自分にないものばかりに目を向け、主役になれない=ダメな人間だと思い込んでいた。

しかし、40代になった今、少し考え方が変わってきた。
「脇役の人生も悪くないかもしれない」
最近はそんなふうに思うようになったのだ。

脇役は気楽に生きられる

主役は物語を引っ張っていかなければいけないが、脇役は大役を任されることもない。
人から期待もされない。注目もされない。
だから、好きなことができる。
立派だな、すごいな、という大変そうなことは主役級の人に任せて、毎日の生活を楽しむ脇役に徹するのも悪くない。
C子のように交通事故には遭いたくないが。

ババアの生活は思った以上に充実しているぞ

私は今、やりたい仕事をしている。ライターという仕事が好きだ。
大変なことももちろんあるけれど、私はこれまで生きてきた中で、今が充実している。

昔と変わらず、私がいなくても世の中は回る。
そして、これからも私は何者にもなれないだろう。
世界平和には貢献できないし、SNSで10万円配ることもできない。
私は、決して主役にはなれない。
今日も脇役の私は、牛乳を入れたインスタントコーヒーを飲みながら文章を書き、子どもとふざけたことを言い合って、温かいオフトンにくるまって眠る。
こんな幸せなことがあるだろうか。

……と、思えるようになったのは、ある程度年齢を重ね、周りが見えるようになってきたからだろう。
だから、若い頃の自分に言いたい。
自分が何者にもなれないからといって、悲観する必要は全くないよ、と。
世の中では脇役の立ち位置でも、自分の人生においては紛れもなく主役なのだから。
日々の小さな幸せを感じられることが、どれだけ幸せなことか。
それがわかる日はいつか来るから、安心してババアになりなさい!とエールを贈りたい。

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