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言えなかった「またね」

記憶を鮮明に甦らせる匂い。

僕は、彼女の家に置いてあった荷物を、別れの朝に両手いっぱいに抱えて持って帰った。

「今日、全部持って帰ると思ってなかったな...」

彼女がいつものように朝支度をしながら、独り言のようにポツリと呟く。

どこか寂しそうな表情を浮かべながら。

宅配便で送ることも考えたけど、なんとなく自分の手で持って帰りたかった。

分けて持って帰ることも彼女に提案されたけど、それもやめた。

どこに旅行するの?と聞かれてもおかしくない量の荷物が、彼女の部屋にいつの間にか増えていた。

前日、深夜まで続いた話し合い。
そのため、朝仕事に行く彼女と一緒に家を出ることになった。

彼女が自転車を押し、駅までの少し遠い道のりを他愛もない話をしながら並んで歩く。

それが当たり前だった。

僕の些細な幸せのひとつだった。

「荷物...重いでしょ...?前に乗せて」

自転車の前カゴは、いつもなら彼女のカバンの特等席だ。

僕は首を横に振る。

「ううん、大丈夫。先に行って。」

僕がそう言うと、彼女は一瞬驚いた表情を見せ、口をぎゅっと紡いだ。

小さな声で

「いやだ。一緒に行きたい。」

...あぁ、ずるい。別れを切り出したのは、君なのに。

僕は、彼女の最後の我が儘を受け入れなれなかった。

壊れた人形かのように「いやだ」の押し問答が続く。

いつもなら、こうなった時は大体僕が折れていた。

だけど今回は、僕の揺るがない固い意志に、彼女が折れた。

そして彼女は小さく何度も頷き、悲しそうな笑顔を見せた。

彼女の目には涙が浮かんでいたけど、精一杯の笑顔でいようと努めていることが分かった。

僕はもう、その涙を拭ってあげることはできない。

頼むからその大きな瞳から溢れ出ないでくれ。

そう願った。

僕も、精一杯の不細工な笑顔で

「いってらっしゃい。仕事...頑張ってね」

そう言った。

彼女は何かを決心したような顔で、

「またね...」

そう言って僕をじっと見つめた。

僕が黙って頷くと、彼女は何か言いたげにゆっくり自転車を漕ぎ出す。

だんだん小さくなっていく彼女の後ろ姿を、見えなくなるまで見送った。

彼女の家から別々に駅に向かうのは、きっとこれが最初で最後だろう。

僕は「またね」の一言がどうしても言えなかった。

都合良く解釈すると、彼女は僕からの「またね」を待っていたようにも思えた。

彼女は友達として「また」僕に会えることを望んでいるから。

でも僕はたった3文字の言葉を、簡単に口にすることができなかった。

彼女が引き返してきて、別れを考え直してくれることを心のどこかで期待していたのかもしれない。

しばらくその場から動けず、呆然と立ち尽くす僕。

結局、彼女が引き返してくることはなかった。

登校中の小学生が、大荷物を抱えて道端に立ち尽くしている大人の男を、不思議そうに見る。

変なおじさんだと思われてるんだろうな。

そうです。僕は変なおじさんです。でも通報しないでネ。

ただ「またね」の一言が言えない、変なおじさんです。

自宅に戻り、荷物をドサっと床に置く。

カバンを開けて荷物を取り出すと、彼女の香りが部屋に広がった。

まさに生き地獄。

キレイなはずの洋服たちを、すぐに洗濯機へダンクした。

このまま僕の気持ちも一緒に洗い流して欲しい。

グルグル回る洗濯槽を見つめながらそう願った。

僕等の「またね」は来るのだろうか。

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