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「常識」と「自分の考え」を区別できていますか?

「そんなの常識だろ!」と怒っている人が珍しくないことから分かるように、「常識」と一言で言っても、様々なバリエーションやグラデーションがあるようです。さらに、「常識」ではこうだけれども「自分の考え」ではこうだ、ということもあります。

何が常識で何が自分の考えなのか、区別が必要です。

常識とか社会通念の本質とは?

「常識的に考えれば…」とか「社会通念に照らして判断すれば…」という言い回しがありますよね。

でも、常識や社会通念は法律ではありませんから、明文化されていません。また「私が常識です」と言えるような、常識を代表する人というのも存在しません。さらに言えば、昭和・平成・令和と、常識はかなりうつろっています。

常識とか社会通念というと、どーんと揺るぎのないものが立派に存在しているかのような印象もありますが、実際にはかなり曖昧なものであるということが分かります。

常識とは自覚なく入り込んだ他人の考え

もちろん、社会生活を営むなかで常識が役立つ場面が多いのは疑いようがありません。バリエーションやグラデーションがあっても、それでも「列に割り込まない」とか「迷子に声をかける」とか、そういう常識的な行動があるから、社会が回っていると言えます。

人が常識を身に付けていくのは、親や周囲の大人からの影響、メディアや社会からの影響によるものです。自分で「これは、こうしたらいいのかも!」と思いついたことではなく「こういうものだぞ」と教えられた内容です。

つまり、一番最初は、常識は「他人の考え」に過ぎません。

それを自分の考えのなかに取り込もうと判断したり、あるいは「これは違う」と除外したり、そういう取捨選択の作業があるかというと、実際のところすごく曖昧ではないでしょうか。そういう意味では、常識とは、いつの間にか自分の考えのなかに入り込んでしまっている「他人の考え」だと言えます。

常識を吟味にかける

人が、「自分の考え」というものを確立するためには、「これが常識だぞ」とインプットされたものを手に取って、「本当かな?自分としてはどうだろう?」吟味にかける必要があります。

常識を吟味にかける──そう説いたのは、ギリシア哲学に精通した林竹二さんです。人が自分自身、本当の自分というものを確立していくために、それが必要な理由を、僕はこの『問い続けて』という本から学びました。

「生き方開発lab」では、日本社会を規定する常識を、いくつかの観点から吟味にかけています。家族にせよ仕事にせよ生き方にせよ、「常識的だから」と選択しても、何も保証されません。「自分としてはどうなのか?」にじっくり取り組める場が必要です。

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