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「ぴえん飲み」に憧れる

「ぴえん飲み」ってご存知ですか?
ピンク色のモンスターとかストロングゼロをストローで飲むことをそう呼ぶそうです。
なんでストローで缶飲料を飲むことが始まったんでしょう。化粧がよれないようにするためか。
女優さんとか花嫁さんがそうやって飲んでいる仕草が素敵だから、私は化粧してなくても家で真似しちゃったりします。

地雷系女子とか「〇〇系女子」って、それだけでカテゴライズされていて、自分が何者であるかを定義づけてくれるから少し憧れてしまう。
美容室に行った時とか、新しい服を買う時に似ている。
苦労しないで瞬間的に自分を作れるから。
特にその定義が危なそうなものだとより特別感が出て憧れてしまうのかもしれない。

今、をのひなお先生の漫画「明日、私は誰かのカノジョ」を再読している。
その中で地雷系女子が描かれているのだけれど、その子は毎日に絶望しながら生きている。
どんなにホストに貢いでも彼は誰のものにもならないと分かっていながら必死に稼いで貢ぎ続ける。

すごい昔、小学生くらいの頃、塾の読解文で解いた評論に「道端で携帯電話で話したり買い食いしたり、奇抜な格好をしたりしている女の子は泣いているのだと思う」みたいな文章があった。
その時は道端で通話や飲み食いをしたり、服を自由に買ったりするような年齢じゃないから、特に何も感じなかった。
その後朝の睡眠時間を優先して移動中にパンをかじったり、深夜に出歩きながら友達とLINE電話したり、ちょっと個性的なファッション(チェシャ猫の指輪とか、一面アルパカ柄のニットとか)をしてみたりした経験を経て歳を取った私は、あの文章を思い出すと「なーに分かったような事言ってくれちゃってんのよ」みたいな反骨精神を心のどこかで感じる。

それは別としてもまあ、心持ち3割くらいは泣いていたかもしれない。
早朝の大学の講義に遅刻しながらパンにかぶりつく時とか、友達とだらだら愚痴をお互い話しながら時間を浪費していく時とか、変わった服や小物をちまちま買い集めて少なくなった口座の金額を見る時とか。
昔「いい子」に育ててもらった時身につけられていたはずの「規則正しい生活」「お行儀のいいお嬢さん」「お小遣い帳を使ったお金の管理」が身から剥がれていったことは虚しかったかも。(でも友達との長電話は今も大好きだし、電話自体は浪費ではないと思う)

漫画の本編であの子が涙を見せるシーンは一度もなかったと思うけれど、街中でぴえん飲みしていたあの子は泣いていたのかも。

簡単な定義づけは泣いている行動に似ているのかもしれない。
根性論とか努力とかひたむきさが100%正しいとは思わないけれど、すぐになれる「何か」に傾倒しすぎるのは虚しい気がする。

…と思って服を爆買いしようとする自分を諌めてみる。

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