生きづらい人は時代の先駆者!世の中の常識を変えるスペックの持ち主!

昔の時代の当たり前に違和感を感じたことはないだろうか?


まだまだ命を簡単に落とす時代には殿様は何人もの女との間に子供を作り、家を存続させようとした。


貧しい家庭では間引きといって生まれたばかりの子供を殺すことが普通に行われていた。


二次世界大戦の時代だって天皇のために死ぬことが美しい使命とされていたし召集がかかれば必ず戦地へ向かわなければならなかった。


それは当時の「常識」だった。


今の時代に本妻がいるのに子孫繁栄のためによそで子供を作るなんて大問題だし、


生まれたばかりの子供を育てられないからといって殺すのは犯罪だし、


明日戦争に召集されたとしても国のために命をはる人なんていない。


昔は良しとされてきたこと、昔の常識は今の「非常識」となった。


戦後から現在にかけても時代は変わってきた。


専業主婦が多かったが、今では女性が働くことが普通になり、


男性が強かったが、男女平等推しになり、


電話は一家に一台だったが、一人一台かそれ以上になり、


大家族から、多くの家庭が核家族になり、


手書きではなくタイピングやフリック入力が主流になり、


乗り物内、会社、レストランまでも禁煙が当たり前になった。


昔は差別の対象であった性同一性障害もだんだんと理解され始めテレビなどでも活躍する人が増えてきた。


日本の特徴の残業問題もだんだん緩和されていく方向にある。


だが、この令和の時代にも、個人の意見は関係ないかのように長男が家や家業を継ぐことを当たり前として教育している親もいるし、


先生の言うことを聞かなきゃいけないと教えられる。先生の多くは「現代の常識」をモノサシにしてるから間違っていることもたくさん教えてくるし意見すると口答えをするなと強引に押さえつけてくる。


クラスで決めることはだいたい多数決で決められ少数の意見は尊重されない。少数派の意見がどんなに良い意見だってそれをやるのが面倒だと多くの人が思えば結局はその意見は却下される。


生まれた場所や人種で差別されることも普通にある。生まれた場所も生まれついた人種も、自分の意志ではないしあまりにも理不尽な差別のされ方だ。


生まれることは尊いことで、親には産んでくれてありがとうと感謝するのが当たり前とする風潮。勝手に産んだのに子供の面倒をちゃんと見なかったり、子供を傷つける発言をしたり、老後をあてにしたり、なんで生まれてきてしまったんだろうと思わせる親はごまんといる。


子供は親を選んで生まれてくると平気で言ったりする人もいる。すべての人は選んだ記憶もないし、生まれるなら超金持ちでめちゃめちゃ優しい両親のみが選ばれるはず。


なんて理不尽な世の中!


こんな風に、「こんなの違う、間違ってる!」と思ってもそんなこと言ったら「非常識」な人に思われるから口には出せないことがたくさんある。


昔の人だって当時の常識に口には出せずにいたが「こんなの違う。間違っている。こんなの嫌だ!」と思っていたはずだ。


それが時を経てだんだんと「これおかしいな・・・」を口にする人が徐々に増えていき今の常識が出来上がっていった。


最初に口にした人は異端児として白い目で見られ非常識なやつだと罵られ出る杭は打たれただろう。



**

義務教育で学んだことは、世論が正解であり正義であるということ。人はそれを「常識」と呼ぶ**


小中学生時代は疑問だらけの日々だった。


なぜ学校に行かないといけないの?


なぜ勉強しないといけないの?


なぜ喧嘩はよくないの?


担任が変わる度に先生に聞いてみたが、子供は勉強が仕事だからだとか、


そういうものだからとか、友達を作るためだとか


全然腑に落ちず自分が納得できた答えは一つもなかった。


私が相談したどの先生も自分がしている「教育」という意味を子供に説明することすらできなかった。


なぜかというと自分の頭で考えたことがなく、常識を疑ったことすらなく、マニュアルでしか教育というものを把握していないからだ。


高校・大学のころにはだんだんと世の中の仕組みがわかってきたが、腹の底では違う違う!こんなの間違ってる!と思いながら、高校生が窓ガラスを割りたくなる気持ちがよく解った。私もガラスを割れるほどの度胸が欲しかった。


解るよぉ・・・圧力に押さえつけられている苦しさにもがいている気持ちがよく解る。


ディベートして打ち負かしてやりたいのに言語化する能力もまだないし、そもそも先生の権力が強すぎて処罰されるだけで自分の損にしかならない。


そして私は短大を出たころに考えることに疲れ、


「私は個性的で異端児で普通ではないんだ。」と腹をくくり、


ついに私は自分の頭で考えることをやめた。


意識的にやめたのだ。


テレビを見て世の中の動きを知り、解説者が話していることが正しいを思うようにし、政治に関しても世間が文句を言っていれば、本当に政治家はどいつもこいつも!と思うようにした。


自分の頭で考えると疑問だらけになり疲れるのだ。


自分が思う気持ちと世の中の常識のギャップがありすぎる。


当時の私の周りには話が通じる人がいなかったし、「自分は変わっているんだ。」と思いこみ、もう同じような考えの人を探すことすら諦めていた。


きっと私のような世の中に疑問だらけの人間はいない・・・と思っていた。


とにかく世論を基準にして生きているとラクだった。


人はこうあるべきだし、夫婦というものはこうあるべきで、親はこうあるべきだ。


世論の「すべき」「であるべき」に自分を無理やりねじ込むことで自分のやる気や考える力は完全に消失した。


世の中はこういうものなんだ。


思考を停止させることで私はかなり生きやすくなった。


義務教育とは国をまとめるために、理不尽に気づかないように国が定めた基準や平均値に中に納まるように、はみ出し者ができないように国民を調教するシステムなんだな。と思った。


だが、結婚し子供ができ、育児をすることによって


長年押し込めてきた気持ちが、疑問だらけの毎日が再びふつふつと溢れてきた・・・


世論に侵された頭で本当に夫婦生活がうまくいくんだろうか?


本当にこんな考えで子供を守れるのだろうか?


例えば、ママ友で集まるとこういう話を聞いたりする


「夫が風俗に行くけど仕事の一環だしプロのところだからみんな行くよね?浮気は許せないけど接待がらみの風俗はありとするべきだよね。」


とか


・育児中も夫は飲みに行くけどみんなそうだから仕方ないよね?



私の心の声→→→本当は嫌なのに我慢するの?何も言わないの?

心の中で何十年も恨んで熟年離婚や老後に報復するの?


他にも、


「子供はそんなに悪いことをしてないけどこの場をうまくやり過ごすためにごめんなさいで仲直りさせておこう」というような考え


→→→そんなんじゃ絶対に子供の信用を失うにきまってる。信用を失ったら守ることすら子供に拒否されてしまう。


特に育児では世論や常識でその場しのぎの行動をとっていたら、子供が将来苦労するんじゃないか・・・と思うようになった。


とことん子供を信用して、とことん子供の話を聞いて、とことん一緒に子供の思いを尊重した策を練って、時には話し合いに、時にはモンスターと言われても声を上げないといけないときもある。

すべては子供の心を守るためだ。心身ともに健やかな成人になってほしい。


守るものがあるのに、人の目を気にして常識にあてはまっている場合ではない。


そして、自分は嫌なのに世間に基準を合わせていたら一生幸せになれないし大切な人を幸せにできない。



そもそも親から受け継がれる価値観がヤバい


多くの親は自分に子供ができたとたんに全てを悟ったつもりになって人生を
しみじみ語りだす。


「人生は苦難の連続だけど、乗り越えられない壁は神様はお前には与えない。」とか、「人生は苦難の連続だけど幸せな瞬間もある!それを味わうために生きているんだ!」とか・・・


声を大にして言いたい!(言えないけど)

そんな苦難ばかりの人生で、たまに味わう幸せのために生きていたくないよ!!なぜ、人生はそんなに苦しいものと知っていて私を産んだんだ!!迷惑すぎる!


だけど、そういうことを言う親ってそもそも自分が幸せになれてはいないし、この世の多くの人は幸せじゃないからこういう価値観はごくごく一般的。


何かしら我慢をしていたり、結婚生活や会社に不満はあるけど世の中はこんなものだと思って特に改善しようとせずに生きている。


なにかと国のせいにするのに自分でその問題を解決するつもりはないようだ。


国のせいにするなら自分が政治家になる努力をして国を変えることができる可能性のある土俵に立てばいいのに・・・と思う。



**

生きづらい人、それはこの世の中(世間や親)に疑問を持っているから**


理不尽な義務教育を受けてきて、それを当たり前として教えてくる親や教師たちに全く悪気はない。


その常識を疑っていないから。洗脳されきっているから。


今もしあなたが生きづらいと感じているのであれば、あなたは理不尽をいくら仕込まれても、なお自分の頭で考えることをやめず、この世の世論と常識を疑っている時代の先駆者なのだ。


世の中の半分以上の人はすでに「常識的」に生きていて、そこになんの疑問も持っていない。


世の中は厳しいこととして受け入れて生きている。


世間になんと言われても、その世間は実になんの責任もとってくれない。


「こんなことしたら世間にどう思われるかな。」「こんなことしたら恥ずかしいよな。」「あんな行動をとったら常識はずれで変な目でみられるよな。」


そして、世間の正体とは自分の価値観だったりする。長年にわたって植え付けられてきた常識という名の価値観。


昔の常識が今は通用しないように、今の常識もまた100年後には非常識になっている。


今は声をあげる人、非常識的に行動する人は少ないけど


「こんなことは間違っている・・・おかしい世の中だ・・・」


と声を上げたり発信してくことで次の時代の常識ができていくことを忘れないでほしい。


今生きづらいと感じている人、それは世間の常識を受け入れられずにいるから。


そういう気持ちを抱えている人たちこそが次の時代を作っていく人なんだと私は思う。

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