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病名も症例もないその感情、自分で見ないふりしないで。

カサンドラ症候群という病気を知った。


とあるYouTuberのコメント欄で、
その名前を初めて目にした。



昨今、LGBTやらHSPやら、
あまり世間に理解されなかった個性が
だんだん認知されつつある。

なかでもADHDの特徴や
それが別段珍しいものでもないという認識は
広まってきているのではなかろうか。

その他にも、双極性障害や摂食障害など
同じ境遇で苦しんでいる人に向けて
自分のことをネットを通じて曝け出す
発信者も増えてきた。



精神病は現代病だ、という人がいるが
わたしはそうは思わない。
現代のモノや情報に溢れた"飽和感"や
親戚や地元などの繋がりが希薄になったことによる"個別化"が
精神疾患患者の増加を招いているなどと言うが、
昔の著名な画家や作家や音楽家が
心の病で命を落とした話などありふれているではないか。

精神疾患や障害に対する世の中の認知度が上がったまでで、
もちろんそこにはネットなどの発達が関与しているのだろうが、
実際に患っている人の数自体は今も昔も大差ないと思う。

世の中の認知度が上がるとき、誤った認識のまま広がってしまうことがよくある。

元からそこに存在はしていたはずの数々の個性や疾患がクローズアップされることで、
逆に名前のつかない感情や性格や症状に対する意識が、軽薄になってはいないだろうか。



わたしは「いわゆる≪メンタルを病みやすい人≫というのは存在しない」という認識が世の中にはまだ足りていないように感じる。




わたしが小中学生の頃、
母が会社の愚痴を溢すのをわたしはよく聞いていた。
母曰く、愚痴は言ってもいいけど悪口は言っちゃダメ。
そしてあなた達くらいの年齢の子はその違いが判らないから、
愚痴を言うなら学校でなく家で言いなさい、と。

周りと自分は全く違う人間なのだから、
気の合わない人がいて当然、気が合わないと思うこと自体は悪くない。
母はよくそう言っていたし、わたしも今でもそう思う。

でもその軋轢を周りに発散させてしまったり、
自分の中に溜め込んでしまうと弊害が起こる。
だから家族に愚痴を言うのだと、母は言った。

ところが、わたしから母に愚痴を言うことは
ほとんどなかった。
信頼しているたった幾人かの友達か、妹に聞いてもらうことが多かった。

そのせいか、母はよくわたしに
「おさしみちゃんは悩みとかなさそうだよね、
何を言われても受け流せるその性格、
本当に素敵だと思うよ」と言うのだった。

母は本当に本心からそう言っていて、
嫌味でも何でもなく、心から良い性格だな、と思っていたのだと思う。

わたしも、自分はメンタル強いのだと思っていた。

たしかに周りの友達で
すぐに緊張でお腹が痛くなってしまったり
悪口を言われて言い返してしまったり
情緒が分かりやすい子達に比べれば
わたしは穏やかで、落ち着いていて、
他人にも自分にも優しくて、多少のことは受け流す。

何かをされてめちゃくちゃ怒った経験などないし
あくまで他人は他人なのだから
怒っても仕方がない(というかむしろ
最初から他人に何も期待していない)みたいな節がある。

周りの友達は大抵自分より幼稚で
気分の浮き沈みが激しくて
そういう人達の気持ちが理解できなかったし
理解できない自分のことを
メンタルが強い大人な子なんだと思い込んでいた。





一度だけ、精神科に行ってみたことがある。
どうしようもなく生きていく気力がなくて、
誰に相談したらよいかもわからず、
でも学生だしお金もないので
指定曜日だけ受け付けている学内の精神科を受診した。

結論から言うと、思ったのと違った。

優しい先生が優しくお悩みを聞いてくれる、
みたいな相談室を想像していたわたしは、
まるで風邪の診療のように
「どんな症状ですか、どこを治したいですか、あぁそれならこういうお薬がありますから、処方しますね、とりあえず1週間飲んでみて、なくなったらまた来てください……」
と機械的に浴びせられた言葉に、機械的に答えるしかなかった。

今思えば、カウンセリングに行けばよかったのだと思う。
でも当時のわたしはそこで心が折れてしまった。


そのあと、一人で家に向かいながら
大通りを行き交う車を見て
あぁ、不慮の事故で消えてしまいたい、
と思ったのだった。



一体どこで間違えたのだろう。

性格も良くて、頼りがいがあって、
お勉強もできて、スポーツこそできないけれど、
絵や作文や音楽もそこそこにできて、
そこそこに友達もいて、
そんなわたしが真っ暗な部屋で一人蹲り
泣くことすらできないまま
ただただ無駄な一日を過ごしながら
今日もまた何もしなかったことに日々絶望しているなんて
あの頃のクラスメイト達の誰が想像するだろう。

というか、今のゼミやサークルの仲間だって、
わたしがこんな夜を過ごしているなんて知らないだろう。
知ってほしくない。


悩みとかなさそうだよね、
何事にも動じなくてすごいね、
そう言われ続けてきたはずの自分が
たった一人のたった一言をきっかけに
ぐらぐらと壊れていくのが怖かった。

メンタルに強いも弱いもない。

はっきりと自分の身を以て知ったのだった。




カサンドラ症候群は、発達障害を持った方の周りにいる人が陥るという。
自分はこの人より強いから。自分がこの人を守らなきゃ。
他人に理解されづらいパートナーのことを強く思うが故、
陥ってしまうのだと思う。

生まれつき、生きづらい特性を持った人が存在することは確かなのだと思う。
しかし、そうでない人が強靭かといえば、そうではない。
そうでない人はなんでもできるのかといえば、そうではない。

≪メンタルを病みやすい人≫の存在を肯定することは、≪メンタルを病みにくい人≫を作り出していることに他ならない。
そういう意味で、病みやすい人はこういう人、のような文言を見るといつもモヤモヤしてしまう。


自分はしっかりしている、メンタル強い、と思い込んでいる人に伝えたい。
メンタル強い人なんていないよ。

メンタル強いことが貴方の自信になっているうちは、それはとっても素敵な貴方の個性。
だけれどその自信が貴方に牙を剥くことがある。
貴方を苦しめることがある。


病名も症例もない貴方のその感情、
自分で見ないふりしないで。


自分は強いと思わなくていい。
不幸を他人と比べなくていい。
貴方が苦しいと思うなら、苦しいと言って。




わたしをそこから引き摺り出してくれた人たちの話は、
長くなるのでまたいつか機会があれば。



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