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できるだけ端を歩く

「なんかさ、もういいかなって思うんだよね。」
友人にそう漏らしたことがある。
具体的な何かではなく、とにかく全てに対して。
自分の目の前にある空気とか、温度とか、色とか、そんな曖昧なものも含めて全てに。

彼は、おそらくそれを「死にたい」と受け取った様子だった。
厳密には、「死にたい」という欲求すらも湧かないくらい、何かをしたいと思えなかった。
「何もしたくない」ではなく、「何も考えや感情が湧かない」のだった。

彼は、私の言葉を受けて、努めて感情が揺れていないような表情をしながら、こう言葉を返した。
「道を歩く時は、できるだけ車道から離れて、歩道の端を歩くこと。あと、遠回りになったとしても、歩道橋は使わないこと。」
彼の返答はあまりに技術的で、思わず笑ってしまった。

彼と私は同じ大学、同じ福祉系の学科で出会っている。
彼は福祉の分野の知識と経験に長けている。

友人としてじゃなくて支援者として扱われたな。
と、やけに冷静になったが、それが彼にとって人を守るための最高のアンサーであることも知っているから、悪い気は一切しなかった。


私は、以前も書いたように、「死」という選択を否定しきれない。

自死を選択することは、とても悲しいことだ。それは間違いなくそう思うけど、その選択を否定できるほど、生きることを肯定できない。


この日、彼は続けてこう言った。
「自死が他の自傷行為と違うのは、後戻りできないこと。死んでから、また元通りに生きることはできないから。」と。

私は、わりとこの言葉に生かされている。

「もういいかな」と思って、ふっと思い立って高いところから飛び降りてみて、死んでしまったとして、後悔しても取り返しがつかないんだよな。
そう思うと、今日死にたいけど、明日も死にたかったら死のう、とか、また明日も、とか、先延ばしにして、そう思ってるうちに少し楽しいことがあって、死のうと思うことすらもどうでもよくなって、そうやって今日まで生きている。

多分、明日も仕事終わり、甲州街道沿いの歩道の、車道から一番遠い方を歩く。明後日も、その次も。
それが癖になって、いつか急にいなくならないで、何年先もずっと、できるだけ端を歩いているのが、私が彼に感謝を伝える最大のアンサーだから。

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