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散歩記録 昔は海が見えた「新田橋」

本編

今回紹介するのは、江東区木場の大横川上に架かる「新田橋」



永代通りの木場駅前で路地に入った所に架かっているこの「新田橋」

人道橋でスロープなども無いため基本的には徒歩でのみ渡れる
小さな橋ですが、サイズの割に造りはしっかりしていて
真っ赤なカラーリングで存在感も抜群

裏路地に架かっている割には人通りも多く
地元の方に重宝されているようでした。


区から「まちなみ景観賞」という賞を授与したらしく
レリーフのようなものも。

名前の由来

路地裏に架かっている橋の割には造りや外観等整備が行き届いているように感じましたが、それにもちゃんとした理由があり

橋の袂にある看板によると

説明文が長いため一部省略した分を下に掲載。

 大正時代、岐阜県から上京し、木場五丁目に医院の開業をしていた
新田清三郎さんが、昭和7年、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める
「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものです。

 当初、「新堀橋」と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く、
「木場の赤ひげ先生」的な存在であった新田医師は、亡くなった後も
地域の人々から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。

 また、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。

 平成12年の護岸整備により現在の橋に架替られましたが、架かっていた橋は、八幡堀遊歩道に大切に保管されています。


とのこと。
恐らく、愛称が定着して橋の名前が変わったという中々面白い
名前の由来がある橋です。

八幡堀に保存されているという架替前の橋にすら
元の「新堀橋」と言う名前の痕跡が無かった
ため
最早新堀橋と呼ばれた期間より「新田橋」と呼ばれた期間の方が
長いのではないでしょうか

八幡堀に保存されている「旧新田橋」
旧新田橋の方にも現新田橋と同じ看板がありましたが
名前の部分だけは「旧」がついて区別されてました。


旧新田橋のお隣さん

また、八幡堀公園にはもう1本別の場所からやってきた橋が架かっていて

そちらは元々中央区の楓川(もみじがわ)に架けられていた「弾正橋」

関東大震災の復興計画時に廃橋となり
昭和4年に現在の八幡堀に架替られたそう。

その際、富岡八幡宮の真横辺りに位置していたため「八幡橋」と言う名前に改名され今に至る。

元の場所にあった時は弾正橋だったはずなので、八幡橋の名板は恐らく後付け。
移転後にもかかわらずわざわざ名板が作られるほど力が入っている。

八幡堀に移動してきた2本の橋はどちらも改名済みというのも
なんだか奇妙な縁を感じました。

また、現役を退いた橋達が安らかに保存されている八幡堀遊歩道
橋の墓場のようでした。


新田橋の昔

話は戻り「新田橋」についてですが、古い地図を見るとどうやら
新田さんが橋を架けた昭和7年よりも前にこの場所には
橋が架かっていたよう


その名も「江島ハシ」

ここにきて新たな名前候補の登場かと思いきや、恐らくこの橋は
南にある「木場洲崎神社」へと至る道として使われていた橋。

「木場」の名前の通り材木の保管場所として使われていたこの一帯
かつて海に面していて、南部の洲崎は景勝地としても有名だったそう。

当時の景色は何と、かの有名な歌川広重の手で絵に残されている。

位置から推測するに『洲崎弁財天境内全図』に描かれている橋が
古地図の「江島ハシ」。

現在の新田橋からの景色はこんな感じ。建物に囲まれ鬱蒼としている。



まとめ

路地裏に架かる真っ赤な「新田橋」
橋の名前一つを取っても、その裏には地域の人々の思いや歴史があり
今の状態からは想像もできないような景観で景勝地とされていたこともあったそう。

橋を渡っているときはまさか歌川広重によって
絵が残されているような土地だとは思いもよりませんでした。

今は海が見える景色など夢のまた夢。
海との間に無数に運河と島を挟む立地となりましたが
歌川広重の絵を見ながらかつての景色に思いを馳せるくらいならできそうです。



おわり




おまけ


八幡橋下にはとんでもなく風格のある地域猫がいた。
調べたらどうやら結構お年を召しているようですでに保護されていた。


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