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メンタルストーリー(双極性障害Ⅱ型。50年を振り返ってみた:24歳、初めての入院)

こんばんは、アラ50鍼灸師おさむです。snsではこの名前で発信してます。
今まで言えなかったこと。それは自分が精神疾患の患者で現在も通院治療中である、ということ。
「こんなこと言ったら嫌われる、人が離れていく、怖い、おかしい人だと思われたらどうしよう」
そんな不安から「一生隠して生きていこう」と思ってました。しかし生きていて苦しい。自分の本性を見せずにどうして他人が信用してくれるだろうか?そう思うようになりました。
まぁ、離れていく人は離れていく。でも気にかけてくれる人もいるんじゃないかな?
そんな淡い期待もありつつ「ひとまず書いてみよう!」と思い立ったわけです。これを書かないと胸につかえたモヤモヤが取れないし前に進めないような気がしてきたのです。

脈絡のない長文になりますがお付き合いください。

子供時代(~小学生まで)

2人兄弟の次男として生まれました。父は真面目なサラリーマン。母は料理が上手でよく笑う人です。兄は5つ上。よく勉強を教えてもらいました。優しい兄です。
幼稚園に通っていましたが先生が嫌いであまり行っていませんでした。それより母と一緒にいる方が楽しかったのです。小学生の時は楽しい思い出でしかありません。運動が好きで野球、ドッチボールが好きでした。将来の夢は「プロ野球選手になる!」家に帰ると近所の友達と三角ベースで遊んでました。
よく笑う子で些細なことでも転がって笑い転げるような明るい子でした。

学生時代(中学生~)


自分の人生が変わり始めたのは中学2年生の時。兄が有名大学に合格しました。中卒である母は狂喜乱舞し近所に自慢しました。田舎なのでどこに行っても「お兄さん、すごいね!」と言われるのが苦痛でした。「どうして俺を目の前にして兄貴の話をするんだ!」思春期ということもあり兄と比較されるのが凄く嫌でした。周りがみんな”敵”に見えたのです。「○○大学に入ったお兄さんの次男」…誰も私を名前で呼んでくれません。このころから全く笑わなくなりました。部活も辞め家にこもるようになったのです。いじめられることはなく不登校になることはありませんでした。しかし教室に入るといつもビクビクして緊張し家に帰るころにはグッタリして横になる時間が多くなりました。小学生時代は毎日外で遊んでいたのに、です。同級生にも「お前の兄ちゃん、○○大学なんだってな!すごいな!」と言われました。言われれば言われるほど「俺も優秀な成績を取って有名な大学に入らないと誰も認めてくれない、存在価値のない人間になってしまう」と激しくプレッシャーを感じて毎日を過ごしていました。朝起きるのがつらく足が鉛のように重く本当につらかった。集中力もなく帰宅部でも勉強するわけでもなく成績は一向に上がりません。「この成績じゃぁ○○高校に入れないじゃない、みっともない」母は私を責めました。優秀な兄と出来の悪い自分。中3の1学期の成績が良く奇跡的に「母が望む」県立高校に合格しました。しかし今度は「中卒の母でも知ってる大学に入らないと認めてもらえない」プレッシャーの中、高校三年間を過ごしました。男子ソフトボール部に所属はしていましたが打ち込むことなく、とにかく授業が終わると過緊張から解放されグッタリして家に帰る事が多くなりました。「生きていて楽しい」と思うことは一日としてなかった高校時代でした。大学受験を乗り切るような気力は自分にはありませんでした。「これ以上のプレッシャーが加わる生活なんて絶対無理!」。だから一夜漬けで高校の定期テストでいい成績を収めて推薦で大学に行くしかない!!そう思っていやいや机にかじりついて勉強したのを覚えています。今から考えると良く耐えたなぁ、と思います。発狂したり親に当たったりしてもおかしくない精神状態でした。怒りをぶつける気力さえ残っていなかったのです。無事、推薦で大学進学が決まりましたが母に知っている大学ではありませんでした。がっかりした顔を覚えています。その時初めて?親に向かって怒鳴り暴れました(テレビを蹴飛ばして壊した)。このころから両親に対する「怒り、恨み」が強くなってきたと思います。それは親に向かず自分の内側に向かっていきました。期待に沿えなかった自分を責める日々が続いたのです。自分でも「大学に行って何を学びたいか?」明確な目標はなく推薦枠で一番偏差値の高い大学を選んだ、ただそれだけでした。

唯一自分の居場所だったのがバイト先の仲間でした。地元のレストランのバイト仲間。年齢が近く学校も境遇も違う人たちとの交流は私にとって安心で安全な場所でした。仕事を終わって遊びに行くのも飲みに行くのもバイト仲間でした。カノジョも出来ました。暗黒時代の「中学、高校時代」から解放されたようでした。飲みに行ったりデートしたり夜型の生活になっていました。朝起きれず大学を休むことも多くなりました。
いま思い起こすと大学の中にも自分の周りに集まってくれる人はいました。みんな笑顔で近づいてきました。素直に心を開けば大学でも友達は出来たと思います。それを自分は拒絶した。なぜなんだろう。実家から片道2時間かけて大学に通っていたので「授業が終わったら早く家に帰りたい、疲れ切って大学で遊んでる気力なんてないよ」と逃げるようにキャンパスを後にしました。高校時代と同じ思考パターン…
外に出るのが怖い、家にこもっていた方がラク「学校で友達を作ろう!楽しい学生生活を送りたい!」という余裕など微塵もありませんでした。とにかく毎日生きているだけで精一杯の日々だったのです。

勿体ない青春時代だなよぁ~~~確かに家にいれば安全で”無菌”状態だけど新しい発見、出会い、喜びを放棄してたんだから。

就職、退職、挫折、絶望

大学4年の時、世の中は「バブル経済」真っ只中!超売り手市場で「こんにちは!」と挨拶すれば内定がもらえるような時代でした。特にやりたいこともなかったので「仕事に燃えるよりプライベートを重視したい」という気持ちが強くリゾート地の観光サービス業の会社に就職しました。世の中は「24時間、戦えますか~♫」だったのですが「お金さえもらえればそれでいい、やりたい事なんてない」そんな諦めに近い心境でした。仕事を、世の中を完全にナメてました。「適当に生きててもどうにかなる…」
それでも入社3年目に入ったころ「今のままでいいのだろうか?オレはこのままの人生で終わっていいのだろうか?」という思いがふつふつと湧いてきたのです。

「こんな会社もう嫌だ」

そんな思いが大きくなって抑え切れなくなっていました。ここで周囲に相談する人もいるのでしょうが私は一人で悶々と考えていました(思い悩むというよりどうしたら辞めることが出来るか。辞める前提で考えていました)。大事な決断を誰にも相談せず一人で考え結論を出そうとしたのです。もちろん親にも相談していません。親なんて信用していませんでした。中2の時から続いた「暗黒時代」から一転して「現状を打破して新しい自分になる!」的な前向きな発想。「うつ状態」と「軽躁状態」。もしかしたら双極性障害Ⅱ型の症状だったかもしれません。
辞め方は最悪でした。無断欠勤、その後も欠勤を繰り返し「辞めます」その一言で退職しました。24歳でした。
辞める頃は「うつ状態」に落ちていました。「どうして自分は人と交わって生きていけないんだろう」会社でも一人浮いていたわけではありません。同世代の方と仕事帰りに食事に行ったり日常会話も交わしていたのです。しかし心の中は満たされていない。大学時代のカノジョとは付き合って5年になっていました。周囲からは「そろそろ結婚?」なんて言われていましたが全く実感がありませんでした。
退職後の記憶が曖昧です。たぶん家でゴロゴロして「休眠」していたと思います。暫くして大学時代のバイト先で働きました。このレストランでは感情の波も少なく落ち着いていました。休養すると「軽躁状態」に入ります。
もう一度社会人として働く!地元の塾講師として採用されました。ここでも私は選択ミスをしています。「勉強ができない子供たちの気持ちが分からない」。どう教えていいのか?分からない。職場は個人主義的な雰囲気で相談相手もいず退職。この時は激しく落ち込みました。

「俺は生きている価値のない人間だ、どうしたらいいか分からない、消えてしまいたい…」

人生で初めて絶望を味わった瞬間です。この時も親との会話もありませんでした。両親から匙を投げられ自室にこもっていました。不安・焦燥の感情が大きくなり抱えきれなくなると痙攣の症状も出ました。正に「死んだよう」に生きていました。「病院に行こう。病院に行けば治るはずだ。入院して治療して治してもらおう」受診をして、そのまま入院になりました。この病院はのちに妻が働くことになる病院でした。




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