見出し画像

グリーン・カーブ 第一話

 北陸の小さな町だった。名前はあるが、たいした名前じゃない。たぶんほとんど誰も聞いたことはないだろうし、聞いてもすぐに忘れるような名前だ。海岸沿いの、雨の多い寂れた町だった。海はいつも汚れていた。波の上では機械油が虹色に漂っていて、細かい木片があちこちに浮かんでいる。濁った海水の底にはごつごつとした岩や鉄くずなんかが埋もれていた。そんな巨大なごみ捨て場のような海があった町だ。
 夏になっても、泳ぎにやってくる者は誰ひとりいなかった。もちろん夏じゃなくても誰もいない。海岸沿いの道路を通るとき、町の人々は眉をひそめて海を一瞥した。そして居心地が悪そうに足早に去っていった。それだけじゃない。海鳥も砂浜に降り立ちはしなかったし、野良猫さえ近寄ってこようとしなかった。ただ汚れた波が汚れた砂を運び、汚れた風がびゅうびゅうと吹きつけているだけだった。そこにいる者といえば、せいぜい私ぐらいだった。いつも夕方になると、少年だった私は誰もいない道を歩き、防波堤に腰を下ろして、見捨てられた海を飽くこともなく眺めていた。
 だからといっても、そこはいつも私の貸し切りというわけじゃなかった。ときどき私以外の人間がやってくることがあった。彼らの腕には決まってマンホールぐらいの小さな島が抱えられていた。ある者は片手をポケットに突っ込み、地面に視線を落としながらやってきた。ネクタイを締めたある者は独り言を呟いて、苛々しながらやってきた。ある者は飼い犬を連れて、どうせ散歩のついでだからというように面倒くさそうにやってきた。一週間に一人来るか来ないか──誰も近寄らないような海にわざわざ足を伸ばしてくる事情はそれぞれ違うようだった。しかし誰もが厄介な荷物みたいに、島を抱えていたことだけは共通していた。大きさや形は多少違っていたが、丸くてマンホールぐらいのサイズというのはどの島も同じだった。
 ごみをよけながら砂浜を横断し、波打ち際で足を止めた後、決まって彼らは手にしている島を海に流した。それが海にきた彼らの目的だった。ある者は砂の上に膝をついて、ひっそりと波に島を流した。ある者は円盤投げみたいに体を大きくひねって島を投げ飛ばした。ある犬は沖合へ流れていく島に向かって激しく吠え続けていた。ビニール製のごみ袋に入れてしっかり口を結んでから流す者もいれば、わざわざ野球のバットを降りおろして、粉々にしてから流す者もいた。流す方法は人によって違った。でも島を流すという目的は同じだった。島を流した後、彼らは海にきたときと同じ様子で帰っていった。地面に視線を落として、苛々しながら、面倒くさそうに、そんな場所からすぐにでも立ち去りたいかのように。
 島を流すぐらいしか使い道がないような場所、それが海だった。ずっと昔から、町の人間はそのように島を流し続けてきた。
 防波堤の上で二つの丸い小石を手の中で転がしながら、私は誰かが流したばかりの島を眺めていた。島は行ったり戻ったりしながら、いつまでも波の上を漂っている。まるで我慢強いボクサーみたいに、ひたすら波に打たれ続けていた。やがて太陽が沈み、海は闇に閉ざされ、私はあばら骨のようなおんぼろの家に帰る。次の日になると、島は水平線の向こうへ消えてしまっている。そして何日か経つと、浮かない顔をした者がいつものように島を流しにやってくる。防波堤では少年の私がそれをじっと眺めている。二つの丸い小石は生き物のように私の手の中で動いている。ごろごろと、いつもと同じように。
 小石は手指の筋肉をほぐしてくれた。ノートに歪んだ字が現れたのは、九歳のときだった。どれだけ集中して指に力を入れても、針金をひん曲げたような線しか書けなくなったのだ。まるで見えない大人の手が私の手を強く握って、無理やり別の字を書かせているみたいだった。鉛筆が手のひらからすっと滑り落ちることもあった。あるとき定規を使って文字を書いている姿を見かけて、姉は急いで私を病院へ連れていった。医者はいろんな器具を駆使して、私の体を調べ上げた。そしてある予言を口にした。
「いつか君の体は使い物にならなくなるよ。全身のあらゆる筋肉がコンクリートみたいに固くこわばりつつある。ゆっくりと、だけど確実に」
 それが医者の告げた言葉だった。それから一週間に一度、病院に通って青色やピンク色のカプセルを受けとることになった。やがて私はポケットの中にいつも二つの小石を持ち歩くようになった。
「どうして島なんか流してるの」
 私が訊ねた相手は皴だらけの灰色のシャツを着て、無精髭を生やしたひどく痩せた男だった。そんな男に声をかけるつもりはなかった。しかしなんとなく何かを試したいような気になっていた。
「ガキにはわかるまい」
 男は吐き捨てるように言い、舌打ちをした。
「じゅづおぐだ」私は小さく呟いた。
 男は垂れ下がった目をかっと見開いた。そして唐辛子みたいに顏を真っ赤にして、固く握った拳を私の頭に降り下ろした。男の目は海と同じぐらい汚れていた。

 波に流された島は海底に沈んでしまうか、あるいは魚の餌になった。食われた島は魚の胃と腸に分解されて糞となり、どのみち海底に沈んでしまうことになる。だが満腹になった魚たちのあいだを運良くすり抜けていく島もある。いくつかの島はそのように限りない海の上を何の指標もなくさまよい続けることになる。飛行機の操縦士は海面を旅する孤独な島を目にすることになるし、漁師は間違って網に掛かった島を面倒くさそうに取り外して、再び海に戻したりする。
 あの巨大な島がいつからできはじめたのか、はっきりとした時期は誰にもわからないようだった。でも今町に暮らす人間たちがまだ一人も生まれていなかった頃というのは確からしい。あるいはもっと昔、戦争が起こっていた時代だともいわれている。
 いずれにせよそのとき、行くあてのない二つの島が海の上で出会った。島同士は身を寄せ合い、数カ月そのまま離れずにいた。やがて土が混じり合い、草の根は絡み合い、お互いを取りこみ合って、一つの島へと姿を変えた。もちろん誰もその瞬間を見たことはない。東京の学者が立てた仮説らしい。学者はその現象を〈グリーンカーブ〉と名付けた。彼の仮説によると、〈グリーンカーブ〉は他の島たちも交えて少しずつゆっくりと、何回も何十回も何百回も繰り返されたという。
 古い人間たちは多くの島を海に流し続けた。そして一人残らず死んだ。でも古い島たちは長い時間をかけて、一つの巨大な島へと少しずつ生まれ変わっていった。今ではその上に街がある。
 巨大な島を発見した新しい人間たちは、新しい土地を求めて建築資材を船に積みこみ、島に足を踏み入れた。島の上には、急速な勢いでビルや家が建ち並んでいった。電線が張り巡らされ、アスファルトの道路が敷かれた。移住者が増えてくると、学校が建ち、車が走り、公園ができた。映画館だって建っている。人々は島の街で働き、結婚をして、子供を作った。その子供も成長し、結婚をして、子供を作った。繰り返し、同じように。そんなふうに島の人間は作られた。
 子供の頃、水平線を見つめながら、私はまだ目にしたことのない巨大な島をよく思い浮かべた。そしてその上で眩しく繁栄しているという街を思い浮かべた。それは波の上を漂う巨大な可能性の塊みたいに思えた。町の人間は島を海へ流し続ける。島は〈グリーンカーブ〉とやらを繰り返し、巨大化を続ける。巨大化する街。限りなく巨大化する可能性。島の中心に建っているという細長い塔は、テレビ放送の電波をこの町まで届けている。

 一度だけ、私の家にも島が現れたことがあった。
 姉と二人で夕食を済ませた後のことだ。私は医者から勧められたとおりに軽い体操をしてから、玄関で姉と自分の靴を磨いていた。靴磨きは毎晩の日課だった。とにかく筋肉が固まるのを遅らせるためにできるだけ体を動かさなくてはならない。そのおかげで他人のどんな靴よりも、私たち姉弟の靴はいつもぴかぴかに光っていた。たぶん靴屋の靴より綺麗だったに違いない。いつものようにたっぷり時間をかけて二人分の靴を磨いていると、姉の短い叫び声が聞こえた。反射的に台所をのぞくと、姉は洗い物をそのままにして、両手で口をふさぎ、立ち尽くしていた。流し台の蛇口からは水が流れ続けていた。
 島は台所のテーブルの下に現れていた。一時間ほど前に夕飯を食べていた小さなテーブルだ。その下にちょうどぴったり隠れるように島は出現していた。姉は目を大きく開いていた。私はしゃがんで、テーブルの下まで近づいた。形はいつも海で目にしている島と同じだったが、サイズは比較的小ぶりだった。やや楕円形で、上面が緩やかな曲線を描き、こんもりと盛り上がっている。その曲線に沿って、手で掴めないぐらいの短い草がびっしりと生えていた。まるで今生えたばかりのような青々とした草だった。若く細かい根は底土をしっかりと抱えこんでいる。土は黒くて、分厚い。とりあえず島を引きずり出そうとした。島に触れたのはそれが初めてだった。結構重そうな感触だった。子供の手ではしっかり掴みきれないほどの厚みで、床の上を引きずっても、土はほとんどこぼれ落ちなかった。
 しばらく島を見つめることしかできなかった。自分の家に島が現れるかもしれないなんて、それまで考えたこともなかったのだ。台所の弱々しい蛍光灯に照らされた島は、いつも海で目にしているそれのようには思えなかった。誰かがスコップで芝生をえぐり出し、それを私の家に悪戯で投げ入れたかのように思えた。そう考える方が、島が突然台所のテーブルの下に出現したことより、いくぶん納得できそうな気がした。しかし窓には鍵が掛かっていたし、入り口は玄関しかなかった。それは私と姉の決して好意的ではない視線をはねつけるように床の上に堂々と存在していた。まるで本物の島であることを証明しているかのように青々とした草を輝かせていた。
 姉はずっと黙っていた。なるべく冷静になって、目の前で起こっている奇妙な出来事をできる限り受け入れようとしていた。壁にもたれ、祈るように口元で両手の指を絡ませ、瞬きもしないで島を見下ろしていた。彼女は陶器のように美しい指の持ち主だった。世界のあらゆるものに平等に触れることのできるような、まっすぐで細やかな指だった。しかし一本足りなかった。右の小指が生まれつき付いていなかったのだ。仕事で一緒に縫いつけちゃったのよと、彼女はいつも冗談めかしていた。その九本の美しい指を使って、姉は私との生活はなんとか成り立たせていた。昼間は近所の畑で手伝いをし、夜は縫い物の内職をしていた。かつて商売に失敗した両親が二人揃って海に身を投げたとき、彼女はまだ十五歳だった。それ以来、畑と縫い物だけの人生を送ることになった。口数が多いタイプではなかったので、誰かと深い付き合いを持つこともないようだった。どんな付き合いにも多少の金が必要だった。しかし毎月のわずかな収入は、生活費と私の薬代によって右から左へと他人のように通り過ぎていった。テーブルの上に残るものといえばため息ぐらいだった。
「誰のだと思う」
 姉は島を見下ろしながら、小さな声で訊ねた。
「誰のって」私は姉を見上げた。
「誰かのでしょう、たぶん」
「そんなはずないよ」私は首を振った。
「そう?」姉は微笑んだ。「きっと私のよ」
 翌日、姉は島を流しにいった。
 いつものように防波堤に座っていると、姉がゆっくりとした足どりで歩いてきた。胸には前夜に現れた島を両腕でしっかりと抱きしめていた。島は赤子のようであり、姉は母親のようだった。すでに日が暮れようとしていた。
 波打ち際でしばらく水平線を見つめた後、姉はスカートの裾を押さえながら、その場にしゃがみこんだ。そして島をそっと手から放した。島は波に揺られながら、何度か砂浜へ打ち戻された。その度、彼女は細い腕を伸ばして島を押し返していた。
 いつまでも私は防波堤に座っていた。いつもなら帰る頃合だったが、相変わらず手の中で小石を転がし続けていた。そして姉の背中を目にしながら、あの痩せた男に殴りつけられたときの痛みを思い出していた。汚れた風の中、姉はいつまでも島を見送っている。とても静かな夕方だった。
「ちゅじがじが」
 そう呟いてみた。

 次の日から、私は海に足を運ばなくなった。防波堤に座りながら、流されていく島をぼんやり見ていたいとは、なんとなく思わなくなった。姉が島を流してからというもの、汚れた波や汚れた砂や汚れた風というものが、やけに息苦しいもののように思えてきたのだった。面倒くさく、苛立たせる何かがそこにあるように思えた。できるだけ島や海のことを考えないようにした。海岸沿いの道も歩かないようにした。町の人間たちがいつもそうしているのと同じように。あるいはどこか他人事と思えなくなった島や海のことを、やはり他人事のように切り離したかったかもしれない。
 それから何年か経った。ある日を境に、何台もの大型トラックが海沿いの道路を一日に何回も往復しはじめた。そして荷台に載せた大量の土砂を海に埋め始めた。どこから運んできたのかわからない。山一つぶんぐらいの量だ。たぶん実際にどこかの山を一つ崩したのだろう。ある程度海が埋め立てられると、ヘルメットを被った作業員たちは大きな機械を操りながら、来る日も来る日も埋めた土の上に鉄骨を組み立てていた。そして私が高校を卒業する頃には、太い煙突を何本も伸ばした巨大な工場がどこまでも長く建ち並んでいた。そのようにして砂浜は消え去った。
 私が座っていて防波堤もきれいさっぱり取り壊された。ただ工場群のいちばん端には、砂浜がわずかに残されていて、波が弱々しく打ち寄せていた。すぐそばには工場の白い壁が迫っている。キャッチボールもできないほど狭い場所だ。そしてそこにはアルミ製の看板が打ち立てられていた。書かれている言葉はこうだ。
 ──島を流すな 何も流すな
 私の体はまだ使えそうな具合だった。医者の予言が外れたと断定するのは尚早だったが、働きに出るのにはとりあえず支障はなさそうだった。手先の細やかな作業は難しいかもしれない。でも荷物を詰めたり、運んだりするぐらいなら問題はなさそうだった。仕事を見つけるのは簡単だった。新しくできた工場の塀に大勢の人員を募集するポスターが貼り出されていたのだ。というかシャッターを閉めっぱなしの商店ばかりが並んでいるような町では、その工場ぐらいしかまともな働き口はなかった。あるいは島の街へ渡れば、いくらでも働き口はあるかもしれない。でも学校を卒業してすぐに働き手であった姉が死んでしまった。どこか違う場所へ行って部屋を借りられるような金はどこにもなかったのだ。
 町の中心にある小さなアパートの部屋を借り、一人で暮らすことにした。できるだけ何も考えないように毎朝ランニングを続け、昼はおとなしく働き、夜はプールで泳ぐことにした。頭を動かすより体を動かし続けること、そんな生活を六年か七年ほど黙々と続けた。おかげで私の筋肉は固まってしまうどころか、イルカのようにしなやかに分厚くなっていった。私の体を診察した医者も驚いて、笑みすら浮かべた。しかしそれでも、私は二つの小石を転がすことをやめなかった。小石はいつも冷ややかに、ポケットの中に潜んでいた。

・・・・・

「最近、鼠をよく見かける」
 伊勢はビールを片手に、店の中をぐるりと見回して言った。店内はコンクリートの打ちっ放しで、照明は薄暗く、愛想のかけらもない内装だった。席数は少なく、客はもっと少ない。「ほら、そこ」と彼は体をひねらせながら、天井の隅を指さした。しかしその指の先に目を凝らしてみても、私には薄汚れたコンクリートの染みしか見えなかった。
「やたらといる。どうしてかわかる?」伊勢は言った。
「さあ」私は答えた。
「何年か前に島で鼠が大量発生した。それは知ってる?」
 私は首をかしげた。
「まだ俺が島に住んでいたときだ。きっと島へ向かう船の中に紛れこんでいたんだ。何匹かの鼠たちがさ。普段は動物が入りこまないように、港で厳重にチェックしてるみたいなんだけど、そのときはなぜか島までたどり着くことができた。あるいは誰かが隠し持ってたのかもしれない。どちらにしろ鼠は島でどんどん子供を作りやがった。天敵になるような動物はどこにもいないから、毎日毎日どんどん増えやがる。まるで鼠の王国だよ」
 彼は指先で鼻をさすり、何かを含むように口の端を曲げて笑った。バーテンは退屈そうに爪の汚れを取っている。
「もしかしたら島の人間よりも鼠の数の方が多かったかもしれない。なにしろ暗い映画館の中でもちゅうちゅう聞こえてくる」
「感動して泣いてたのかもしれない」私は言ってみた。
「島の人間は考えて、猫を連れてきた。古典的だけど、薬を撒くとかより結局それがいちばん効くらしい。動物には動物をっていうことで、この町にいる猫を片っぱしからかき集めて、檻に詰めこんで、島に連れていった。野良猫も飼い猫もみんな総動員して、島の鼠退治ってわけさ。おかげでこの町から猫は一匹もいなくなった。どうだ、見かけないだろう?」
「たしかに」私はとりあえず答えた。そう言われてみれば、しばらく猫を目にしていないような気がした。しかし最後に猫を見たのがいつだったのかなんて、実際のところ憶えてはいなかった。「でも気にしたこともなかったな」
「島の鼠は減った」彼は続けた。「で、次は町の鼠が増えたってわけさ」
「なるほど」
「それでいずれ島にいる猫の半分を町に戻すことを考えてるらしい」
「猫も忙しい」
「馬鹿げてるね、まったく」
 伊勢は本当にそう思っているように溜め息を吐いた。
「何匹だろう」私はふと訊ねた。
「何匹?」
「何匹ぐらいの猫が、島に連れていかれたんだろう」
「知らないね。とにかく船いっぱいの猫さ。白や黒、三毛やブチ、子供から老いぼれ、気の狂ったやつから片目が潰れているやつまで、いろんな猫が一緒くたにされて詰めこまれてきた」
 伊勢は少し酔っているようだった。底にわずかに残ったビールのグラスを手にして、照明のあたりを見上げながら話していた。
「この町と島のあいだにはバランスみたいなものがある。片方で何か起こると、もう片方でも何か起こる」と彼はグラスに口をつけた。
「ビールを飲むと、小便が出ていく」
 私がそう言うと、彼は短く笑った。
「そう、左右の腎臓みたいにさ」彼は言った。
 伊勢が町にやってきたのは半年ほど前だった。彼は島で生まれ、島で育った、島の人間だった。それがどうして町にやってきたのか、それについて彼はあまり話そうとしなかった。憧れとか金を稼ぐために町から島へ渡る者はよくいた。だが島から町にやってくる者などまず聞いたことがなかった。ただ話を聞くかぎり、彼は島のことがあまり好きではないようだった。そして私も町のことがあまり好きではなかった。そのせいか私たちはなんとなく気が合った。
 私と同じように、伊勢も海辺の工場で働いていた。ある昼休み、外の階段に座って小石を転がしていると、彼が話しかけてきた。煙草の煙を静かに吐き出した後、この工場では一体何が行われているのかと彼は訊ねた。彼の目の下には濃い隈が浮かんでいた。肩まで髪を伸ばし、鼻筋が細く、木のように痩せていた。私は首をかしげた。彼の質問に答えられる者はいなかった。たしかに私の所属するラインでは、何かの機械に取り付けるスイッチを作っている。金属やプラスチックや銅線やらのパーツを組み立てて、赤や緑や青のスイッチをひとつずつ作っている。私はそれを決まった数量ごとにダンボール箱に詰めていき、それがたまるとフォークリフトで運んでいく役割だった。伊勢のラインでは植物のプランターを作っていた。しかし私にしても彼にしても、それらが一体その後どう扱われるのか、まったく知らなかった。他のラインではアンテナを作ったり、動物の皮をなめしたり、ガラスの棒を作ったり、鍋らしきものを作ったり、やたらと長い網のフェンスを作ったりしている。なかには製本のラインもあるらしい。実に多くの人間がそれぞれのラインで仕事をしていたが、自分が作ったものが一体どう使われるのか、あるいは工場全体で一体何が行われているのかを把握できている者は、私の知るかぎり誰一人いなかった。工場はあまりにも巨大で、あまりにも多様だった。なぜそんなに巨大で多様でなければならないのかと彼は再び訊ねた。しかし私にはやはり首をかしげることしかできなかった。
 そのときからすでに、伊勢の背後には男がいた。少し離れた場所から、男は監視しているかのように伊勢のことを見ていた。伊勢が移動すると、男は彼の後をふわりと煙のようについていった。伊勢は工場の中で私によく話しかけてきた。彼と話している途中、ふと遠くに目をやると、必ずどこかに男が立っていた。男は伊勢のそばまで近寄ってきたり、話しかけてきたりすることは決してしなかった。ただ相手を見失わないぐらいの一定の距離を保って、伊勢のことをただ静かに見つめているだけだった。
「あいつのことは気にしないでくれ」
 伊勢はそう言うだけだった。
 その夜も、男は店の中にいた。いちばん奥の柱にもたれて、こちらをずっと見ている。暗い照明のせいで姿はほとんど見えなかったが、ときどき影からふっと細長い顔を現した。
「島を出ようとしたときから、ずっとついてきやがる。でも何もしてきやしないさ」
 彼は苦しそうに何回も咳をしていた。

 工場が建ち、多くの人が集まってきたことで、町は変わっていった。
 砂利道は舗装され、ガードレールが取り付けられた。川の土手にはベンチが置かれ、街灯が恋人達を照らしていた。信号機と横断歩道が増え、多くの車が行き交い、道路沿いには服屋やレストランが建ち並ぶようになった。最近になって、道のあちこちにアクリル製の球体が等間隔に並べられた。サッカーボールぐらいの大きさで、夜になると人々の足元を照らすために青や緑やオレンジの光を放つのだ。髪を染めた少年たちは球体の上に立ったり座ったりして、ビルの壁に掲げられた大型モニターのテレビ放送を深夜まで眺めていた。
 いったいどこの誰がいつベンチやガードレールを運んだり、アクリル製の球体を並べたりしているのか。それらの物はいつのまにかそこにあった。まるで何者かがこっそりと壁に落書きを残していくみたいに、それらはいつのまにか町の一部になっていた。きっと猫の回収も我々の知らないうちに行われていたのだろう。伊勢の言ったとおり、路地を覗いてみても猫はいない。そもそも路地というものをほとんど見かけなくなった。誰かそういったことに気づいているのだろうか。人々は以前と同じように通り過ぎていく。いずれにせよ、町はそのようにして少しずつ静かに変わっていった。
 手の中で小石を転がしながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。それはかつて私が知っていたはずの町ではないように見えた。小綺麗な店が建ち並び、人々はいい服を着るようになり、家の中でソファに座りながら映画を観るようになった。誰かを憎んだり、誰かを不幸に陥れようというような考えは誰も持ち合わせていないように思えた。
 島はいったいどうしたのだろう、と思う。今でもあのマンホールぐらいの島は、人々のもとに現れているのだろうか。昔のように島を抱えた人間を目にすることはまったくなくなった。かつて人々はいつも暗く憂鬱な表情を浮かべて、島を海に流していた。誰もが不機嫌で、誰かの悪口を言っていた。空は薄暗く、風は生温かった。そんな町が両親を死なせ、姉を死なせたのだと思っていた。
 今では島を流す人々のかわりに、白く眩しい工場が砂浜を埋め尽くしている。私はそこで働き、金を貰い、生活していた。
 ときどき姉が死んだときのことを思い出す。
 彼女は遺書も何も残さなかった。草の上で倒れていた彼女のそばには、空っぽの瓶が何本も転がっていただけだった。畑の倉庫にしまわれていた除草剤を口にして、そのまま地面に倒れこんだようだった。畑の地主は自分の土地で死体が転がっていたことにひどく腹を立てていた。妙な因縁がついて、土地が売れなくなったらどうしてくれるのだと私を責めた。そして、指が一本足りなかった姉や体が固まりつつある私の体にはやっぱり奇形の血が流れているのだと罵った。私はテーブルの上に置いた姉の遺骨を見つめながら、手の中の小石で地主を殴り殺すことを考えていた。両手が血まみれになるまで、地主の鼻や目を殴りつけているところを何度も想像していた。
 しかしいざ地主の家のベルを鳴らしてみても、そこにはもう誰も住んでいなかった。姉が死んだ後すぐに、主人は畑をどこかの金持ちに高値で買い取らせ、家族と共に島の街へ移り住んだのだった。
 除草剤が撒き散らされたせいで、姉が死んでいた場所には、しばらく草一本生えてこなかったらしい。

・・・・・

 いつものように夜の道を歩いていた。
 風はなく、空には夏の淡い月が浮かんでいた。誰もいない草むらの道の上、羽虫を払いながら私は歩いていく。
 しばらくして学校の校舎が見えてくる。どこにでもある四角い、色あせたコンクリートの建物だ。まわりには錆びついた金網が張り巡らされている。夜の校舎はいつも大きな嘘の塊みたいに見える。のっぺりしていて、平坦で、奥行きというものがない。まわりに人の姿がないことを確かめると、私は金網に手をかけて、思いきり体を持ち上げる。そしてすばやく乗りこえる。奥行きのない奥行きへ侵入しようとする。
 できるだけ足音を立てずに、影の中を進む。昼間の厳しい日差しのせいで、コンクリートの壁はまだ熱を帯びている。暗闇の中から木の葉のざわめきが聞こえてくる。どこか遠くで、誰かがクラクションを鳴らしている。にぎやかなテレビの音もかすかに聞こえてくる。きっと宿直の警備員が退屈まぎれに見ているのだろう。
 校舎から少し離れたところにある、プールサイドの敷地に足を踏み入れる。夜のプールサイドには、湿った空気が重く漂っている。片隅には大量のビート板が乱雑に積み重ねられている。水際まで進み、仄暗いプールの中に指先を浸してみる。そこに水があることを確かめる。奥行きがあることを確かめる。それから靴を脱ぎ、シャツを脱ぐ。月の光の下で、自分の肉体を見定める。いつかコンクリートのように固まってしまうだろうと医者は言った。でもその肉体はまだ私のものだった。指先が水の生ぬるさを伝えてくれる。私は足を上げる。そしてできるだけ水音を立てないように、静かに肉体を水の中に沈めていく。
 プールの底まで頭を沈ませてから、壁を蹴り、水中を進んでいく。両腕で水をゆっくりとかきわけながら、まっすぐ泳いでいく。何も聞こえないし、何も見えない。暗闇の中を泳ぎ、指先が壁にふれると、くるりと体をひねり、そこにあるはずの壁を思いきり蹴る。そして再び水の底を進む。ときどき水面までゆっくり体を浮かばせ、そっと頭だけを出す。その一瞬に吸いこめるだけの空気を肺に送りこみ、すぐに水の中へ戻っていく。そのようにして何回も、何十回も、暗闇を往復する。この世には自分の肉体しか存在していないかのように肉体の動きだけに集中する。一定の角度とスピードで左右の腕を動かし、五本の指をぴたりと揃えて、注意深く水をかきわける。力を抜いた両脚をまっすぐ伸ばし、ときどき上下にゆっくりと揺らす。体が浮かばないように下方へ少し角度をつけて、常にプールの底へ向かっているように進み続ける。速く泳ぐ必要はない。目を開けても、まわりには闇しかない。闇の中で、自分自身とは肉体そのものであることを確かめる。水をかきわける指先が私自身であり、緊張と弛緩を繰り返す腹筋が私自身であり、ざらついた壁を蹴る足の裏が私自身である。
 ひたすら往復を繰り返す。三十分、あるいは一時間以上かもしれない。どちらにしろ連続的に繰り返される行為の中で、時間の単位は次第に意味を失っていく。きれいさっぱりと意味が失われるまで泳ぎ続ける。そうすると、やがてどこにも進まなくなる。泳いでいるうちに、どこかに進んでいるという感覚が果物の皮をむくように一筋ずつ引き剥がされていく。私はどこにも進んでいないかもしれない。真っ暗な空間にぽつんと浮かんで、手足をばたばたと動かしているだけなのかもしれない。ただ闇をつかみとろうとしているだけなのかもしれない。生ぬるい水が私の肉体にまとわりついたり、離れていったりしているだけかもしれない。何もわからない。水が移動するときのくぐもった音が聞こえる。だが、やがてそれも聞こえなくなる。たしかに腕を動かし続け、腹に力を入れ続け、壁を蹴り続けている。しかし同時に、肉体がほんの少し意識から遅れをとって移動していることを感じる。まるで私自身とは別物みたいに。それはただそこにあるだけなのだ。そうして肉体を静かに手放していく。私と私の肉体の結び目を、夜の水がほどいていく。ほどかれて、水の奥へ流されていく。奥行きのさらに奥行きへ沈んでいく。
 ──そこはいつも海辺であった
 空はいつものように黒い雲に覆われていた。乗ってきた舟はすでに朽ちかけている。雨ざらしで、覗きこむと底にいくつかの小さな穴がある。もう乗っては帰れないことを思えば、妙にさっぱりとした気分になって、積んできた荷物を広げはじめる。なかには、どこかで盗んできたような品もあって、よそよそしさも紛れながら、荷物を見定めていく。
 途中、わずかな有り金をうっかり砂にばらまいてしまう。いくらかき集めても、手の中には砂しか残らない。途方に暮れていると、そもそもはじめから何も持ってきてなかったかのように風はやみ、海が凪いでいく。
 荷物を諦め、何も持たずに歩いていくことにする。青々とした草たちは膝の高さまで伸び、あいだに黒い土が見え隠れする。望んだわけでもないのに、いつもその道を歩くことになる。街へ続いているはずの道。
 見上げた先には鉄塔がある。夜空を刺す針のように、はるか向こうに鉄塔が見える。そのまわりを街の光がぼんやりと取り囲んでいる。そこに少しでも近づこうと足を進めているつもりなのだが、道はいっこうに終わらない。いくら歩いても、まわりは草が生えているばかりだ。同じ場所をぐるぐる回っているだけなのかもしれない。なぜなら乗ってきた舟を何度も見かける。何度目かに、ふと話し声が舟の中から聞こえてきた。誰かいるはずもないから、テレビに違いない。そう思うと、望んだわけでもないのに、テレビに寄せられるように再び舟に近づいていく。
 だが結局、いつもどこにも近づけない。太い縄できつく縛られていくように、体が固まりつつあるのだ。腕はぴたりと横腹にはりつき、両脚がもつれあう。呼吸することさえ苦しくなる。やがて鉄柱のように土の上に重く倒れこむ。
 夜はますます深くなる。草の間から、猫たちが珍しそうにこちらを見ている。

 いつもそこで島の街からはじき出された。

 島に入りたいと望んでいたわけじゃなかった。毎年夏になると、学校のプールに忍びこんで泳ぐことにしていただけの話だ。だがある夜、いつものように何もかもを忘れて泳いでいると、ふとプールの底が消えてしまったような気がした。いくら底へ向かって水をかいでも、何も手に触れない。どんどん暗く深い場所へ沈んでいる。そんな感じだった。
 しばらくして真っ暗な底で横たわっている自分を見つけた。次第に暗闇が晴れてくる。そこが砂浜であり、すぐそばで波が打ち寄せていることに気づく。指先を合わせると、湿った砂がざらっと音を立てる。風が吹き、潮の匂いがして、草がざわめいている。砂の上には横たわっていた私の体の跡がある。そしてポケットにはいつものように二つの小石がちゃんと入っている。しばらく言葉も何も思い浮かんでこなかった。それはかつてテーブルの下に島が現れたみたいに唐突な出来事だった。しかしいくら唐突だとしても、遠くには電波塔が確かにそびえ立っていて、私は島の上を確かに歩いていた。
 それからプールで泳ぐたびに、島へ入ろうとした。入ろうと思うと失敗するのがほとんどだった。しかしひどく疲れているときなどはすんなりと入れることもあった。だが入れたとしても、街に向かおうとすればすぐにはじき出された。体が固まり、苦しくなって、地面に倒れこむ。そのまま暗い土の中にみるみる沈みこんでいく。
 冷たい土に沈みながら、いつもあることを感じる。子供の頃、砂浜でいろんな人々が流し続けていた島。あの島々が闇の中で私のまわりを雲みたいに漂っている。私の体を包みこんだり突き放したりしながら、プールの底へ私を連れ戻そうとしている。私はその中に姉が流した島をなんとか見つけようとする。でもそれは不可能だ。いつのまにか島々は溶け合って、ひとつの巨大な闇として広がろうとしている。もう闇に身をまかせるしかない、そう思って再び肉体を手放していく。
 やがて水面を思いきり割る。私はプールの中で立ち尽くす。空には月が浮かび、風が木の葉を揺らしている。夜の水に囲まれながら、まるで溺れて死にかけていたみたいに、私は肩を揺らして荒い呼吸を何回も繰り返す。

 子供の頃から私を診察してきた医者はもうずいぶん歳を取っていた。歩くときは必ず杖を使い、いつも遠くを見るように目を細めていた。診察では私をベッドに横たわらせ、いつも念入りに私の体を確かめた。まるで市場に並べられた野菜を丹念に確かめる卸業者のように、乾いた手で私の腕や脚を触ったり、握ったり、ひっくり返したりして、変わったところがないかひと通り調べた。そして最後にいつもこう言う。
「運動は適度に続けなきゃいかんよ。でも無理をしてはだめだ。逆効果になる。それじゃあまた来週」
 私は一週間分の薬代を支払う。そして小石を転がしながら、いつもの道を帰っていく。

 いつか自分の部屋に島が現れるのではないかと思っていた。
 ときどき部屋の中を見回す。冷蔵庫を開けたり、トイレのドアを開けたりして、島が現れているかを確かめてみる。浴槽を見てみたり、ベッドの下を覗いたり、もちろん台所のテーブルの下も。探しながら、もし島が現れていたら、その後どう扱ったらいいかなどと考えたりした。たとえば火であぶってみようか。あるいはどこかの公園に埋めたり、池に浮かべてみたりしたらどうなるのだろうか。何か起こるのかもしれないし、何も起こらないかもしれない。しかしそんなことを想像してみても、結局どこにも島は現れてこなかった。
 雨の夜はプールに行かず、玄関で昔のように靴を磨くことにしていた。そのあとは風呂に入り、歯を磨いて、ベッドに入るだけだった。子供の頃から、雨の夜は眠れないことが多かった。目を閉じていると、体中の皮膚がじわじわと疼いてくるような気がするのだった。たとえば目に見えない細かな雨粒が部屋の中まで染みこんでくる、雨粒は私の体を濡らし、皮膚の下まで入りこんで、幼虫のように体中を動き回っている、そんな感じだった。体が腐りつつある、そんなふうに思うとうまく眠れなかった。朝がくるのがだんだんと怖くなった。目が覚めて、ぴたりと体が固まってしまっていることを恐れた。もしそうなっていたら、一体どうすればいいのだろう。しかしいくら考えても、どうしようもないことはわかっていた。町の誰にも自分の体のことについては話していない。私の体が固まってしまっているかもしれないなどと誰も思いつきはしない。ベッドの上で指一本動かせないまま、私は一人でゆっくりと死を待つしかないのだ。いつのまにか皮膚の上に汗がじわりと流れていた。まるで頭から足の先までを大量の汗が温かく溶かしていくようだった。心臓だけが乾いた音を立てていた。深い呼吸を何回も繰り返す。いっそのことすぐにでも誰かに心臓を引き抜いてもらいたかった。それで何もかも終わりになる。でも誰かなんていない。ただ誰かを探しにいくところを思い浮かべるだけだ。それはいつも同じイメージだった。私は医者に会いに行こうとしている。医者を殴り殺すためだ。ぐっしょりと汗をかいた両手に小石を握りしめて、医者の顔を何回も繰り返し殴打している。しかし医者は立ち尽くしたまま倒れない。血を流しながら笑っている。いつのまにか医者は石になっていた。医者だけじゃない。まわりの風景もすべて灰色の石になっている。石の町になり果てている。石を握りしめていた私の手もいつのまにか石になっている。町から逃げようとするが、すでに両足は動かない。そのまま地面に倒れこみ、喉が裂けるほどの叫び声を上げる。
 私はベッドから起き上がる。座ったまま、落ち着いて呼吸を整える。台所に行って、大きいコップで水を三杯ほど続けて飲む。そしてシャワーを浴びる。水に打たれながら、指が動くことを何回も確かめる。それはまだ自分の肉体のはずだ。だけどやはりどこか借り物のように思えて仕方ない。台所の椅子に座って、テーブルの上に置いた二つの小石を眺める。子供の頃から握りしめてきたせいで、小石は茶色っぽく変色していて、なにかの臓器のようにも見えた。
 雨はまだ窓を打ちつけている。それは希望のない朝を連れてくる。

・・・・・

 くみの部屋にはテレビがあった。赤色の古い型のテレビである。部屋にいるとき、彼女はいつもテレビをつけっぱなしにしていた。私の部屋にはテレビがない。とりとめもなく映像が流れているという状況がなにか落ち着かないのだが、彼女は逆にテレビがついていないと落ち着かないらしい。映像の内容はニュースだったり、料理番組だったり、ホームドラマだったりで、別にこだわりはないようだった。足の指をいじったり、寝ころんだり、何かを食べたり、猫の背中を撫でたりしながら、いつも彼女はテレビの画面にぼんやりと目を向けていた。
 汲と会ったのは砂浜だった。工場のいちばん端にある、わずかに残されたあの砂浜である。砂以外何もなくて、誰も用がない場所だ。私だって用があったわけではない。仕事が終わって工場を出ると、雨が降っていた。傘を持っていなかったので、いつもとは反対方向に走り出して、バス停の待合室でバスを待つことにした。その途中、彼女の姿があった。彼女は大きな青色の傘を差して、砂浜に立っていた。サンダルを脱いで、ズボンのポケットに手を突っこみ、まるで水平線の先に何かが見えるように遠くを見つめていた。
 私は手にしていたリュックサックを頭の上に乗せながら、彼女の姿を見ていた。彼女が見ている先にも目をやった。でも昔と同じようにそこには何もなかった。ただ柔らかく細やかな雨が、海面の上に音もなく降りそそいでいるだけだった。
「何か見えるの」
 かつて防波堤に座っていた自分のことをふと思い出して、そう訊ねてみた。彼女は海の先を見つめたまま「何も」と小さく首を振った。やはり海の上に何もないことを確かめて、私は再び走り出した。
 待合室のベンチに座って本を読んでいると、砂浜に立っていた彼女が戸を開けて入ってきた。傘をたたみ、髪を整えると、私の近くにそっと腰を下ろした。そして背中を丸めて、さっきと同じような中立的な視線を窓の外に向けた。
 屋根を打ちつける雨粒の音を聞きながら、私は本のページをめくっていた。窓の外で車が何台か水しぶきをはねて通り過ぎていった。彼女に行き先を訊ねてみた。彼女は私の顏をしばらく眺めたあと、小さな声で答えた。彼女が口にした停留所は私の降りる停留所の二つ先だった。
「それは何」
 彼女が訊ねたので、本の表紙を彼女に見せた。中国の若い女の作家が書いた小説だったが、彼女はあまり興味がなさそうだった。バスに乗ってからも彼女はいくつかの質問をしたが、私の答えに「ふうん」とか「へえ」と頷くだけで、何か別のことを考えているような様子だった。
 生まれたのはわたしもこの町、と汲は言った。十歳まで彼女は町で暮らしていた。その後は親の仕事の都合で北海道から九州のいろんな場所を転々と移り住んだらしいが、学校を出て一人暮らしをすることになり、町に戻ってきたということだった。何をしてるのと訊ねると、彼女は何もしてないと言って、少しだけ微笑んだ。彼女は本当に何もしていなかった。この町に戻ってきてからどこかで働くこともせずに、毎日テレビを見たり町を歩き回ったりしてきたようだった。
「不思議だ」私は言った。
「そうかな」汲は外の景色を見ながら言った。
「戻ってくるほどの価値がある町とは思えない」
 汲は短く笑った。「だから何もしてないのかも」

 汲の飼っている猫は、彼女が引っ越してくる前からその部屋の住人だったらしい。荷物を手にしてドアを開けると、まるで彼女が来るのを待ちかまえていたかのように、空っぽの部屋の真ん中に猫が寝そべっていたのだそうだ。
「こないだ洗ったの」
 テレビを見ていた汲はそう言いながら、猫の額を撫でた。「今まで全然洗ったことなかったから、シャワーで石鹸つけてごしごし洗ってあげたの。猫って洗ってみると、意外と細いのね。毛がぺたっと張りついて、なんかミイラみたいになっちゃって、貧しそうで可愛かった。それでタオルで拭いてあげると、すっとすり抜けて、細くなった体をぶるぶる震わせて、向こうへ歩いていくの」
 私は木の椅子に座っていた。汲の部屋には猫とテレビ以外、ほとんど何もなかった。家具といえば小さなテーブルと椅子ぐらいで、あとは備え付けのクローゼットがあるだけだった。
「この部屋ぐらいかもしれない。猫がいるのは」
 伊勢から聞いた猫と鼠の話を汲に話してみた。
「ほんとうに」
 汲はテレビに目を向けながら、あまり興味がなさそうに答えた。
「冗談みたいな話だけど、島に住んでた人間が言ってたんだ」私はやすりで足の爪をこすりながら言った。
「けっこうな労力よね。町中の猫を捕まえるのって」
「たしかに。猫を一匹洗うのとはわけが違う」
「そう」
「でも町の鼠が増えたってのは確からしい」
「ふうん」汲は信じがたそうに言った。「猫ってすき間をするするすり抜けちゃうのに、どうやって捕まえたのかしら」
「大きな檻を仕掛けて、じっと息をひそめて待っていたのかもしれない」
「ふうん」汲は言った。「ほんとに冗談みたい。そんな檻、見たことある?」
「ないな。大きいのも小さいのも」
「わたしもない」汲は猫の顔に自分の頬をくっつけた。「でもこの子は捕まってなんかいなくて、ちゃんとここにいる。冗談なんかじゃなく」
 私はそれ以上何も言わず、爪の破片をごみ箱に捨てた。
「ほんとかな。その話」
 汲はそう言い、間をあけて短く笑った。テレビの画面でコメディアンの男が油まみれの坂を何度も登っては転げ落ちていたが、彼女が笑った理由は別のところにあるようだった。

第2話:https://note.com/osamushinohara/n/n0e99a38cabcb


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?