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夢と魔法とみどりのおっさん 第一話


■同じ場所に二匹一緒にいることは絶対にタブーだよ

 千葉県浦安市舞浜1―1。
 かつて烏帽子田えぼしださんは毎朝JR線に乗ってその住所に通勤していた。都心とは逆方向に進むとはいえ、座席に坐れるほど車内は空いていたわけではなかったという。ノートを広げている大学生キッズやイヤホンで英会話レッスンを聴いている会社員キッズ、黄色いランドセルを背負っている小学生キッズ。もちろん烏帽子田さんと同じ職場に通うキッズも詰めこまれていたのだろう。そこでは乗客キッズの誰もが無言の内に空席の取り合いを繰り広げていた。だが烏帽子田さんは毎日人目を避けるように野球帽を目深に被り、車内のいちばん端の吊り革を握りながら窓の外を眺めていただけだった。
 千葉県浦安市舞浜1―1。
 昔、そこはただの海だった。
 ただの海だったところに、何十台もの大型トラックがどこからともなくやってきた。そして大量の土砂を流しこみ始めた。どこから運んできたのかわからない。山一つぶんぐらいの土砂だ。おそらく実際にどこかの山を一つ崩したのだろう。埋め立てが完成すると、ヘルメットを被った作業員キッズはブルドーザーやショベルカーやクレーン車などの特殊大型車を操って、来る日も来る日も何千本もの鉄骨を精密に組み立てた。何ヵ月かが過ぎると、彼らのつくっているものがテレビで宣伝され始めた。完成予定図のイラストでは、広大な敷地の中心にシンデレラが住んでいるという西洋ふうの城が建ち、そのまわりに石畳の道が巡らされていた。さらに本物そっくりにつくられた池や山や洞窟のあいだをトロッコ列車が猛スピードで走り抜けていた。敷地を取り囲む巨大な塀は外界からのあらゆる影響を全面的に遮断していた。
 オープン初日、門の前にはぴかぴかの看板が掲げられた。看板に書かれていたのは「夢と魔法の王国」。商品はもちろん夢と魔法である。
「あれはほんとに夢と魔法だったな」と烏帽子田さんは低い声で呟いた。「烏帽子田みたいなおっさんにでも若い女の子が抱きついてきたんだから」
 余計なことを言ってしまったみたいに烏帽子田さんは野球帽のつばを下げ、コーヒーカップに口をつけた。烏帽子田さんは自分のことを一人称ではなく「烏帽子田」と三人称でよぶことにこだわっているようだった。
 高度に近代化された社会に住む人間がわざわざそんな張りぼてみたいな場所を訪れて金を払うはずがない――という批判はもちろん口々に言われた。そんな子供騙しの商売が通じるはずがないと。だが僕の友人の女の子が警告したとおり、高度に近代化された社会に住む人間が必ずしも成熟した大人たちというわけではなかった。「ここは常に最新の玩具を欲しがっているキッズの社会なんです」と彼女は言った。彼女からみればあらゆる人々はキッズでしかなかった。そういう彼女自身は小学校に数年通っただけである。だが彼女に言わせれば、自分はすでにキッズではないということだった。
 彼女――組子くみこさんの言葉を借りるなら、日本全国から集まった大勢のキッズは、オープン初日の早朝から王国の門の前に長い行列をつくった。キッズは疲れた表情を少しも見せることなく、様々なアトラクションに体を振り回されては気がふれたような叫び声を上げ、日の暮れる頃には土産品がいっぱい詰まった袋を両手に抱え、満足げな顔をして家に帰っていった。
 Tシャツ、クッキー、チョコレート、ぬいぐるみ、マグカップ、ジグソーパズル……。
 近所のスーパーマーケットでも売っているような代物である。だがキッズは何にも代え難いものを手に入れようと惜しみなく金を払った。夢と魔法の王国で売られている商品にはすべて夢と魔法のシールが貼られていた。キッズが本当に求め、本当に代価を払っているのはそのシールだった。そのシールに喚起させられる夢と魔法のイメージをキッズは買っていた。
「イメージするのにも金がいるんだ」と烏帽子田さんはしゃがれた声で言った。
 夢と魔法の王国でキッズを待ち受けているのは、まさに夢に出てきそうな風貌の住民たちである。もはや小動物とは思えない巨大なリスやアヒル、小人とは思えない巨大な小人が徒党を組んで国内を闊歩しているのだ。最近では宇宙から飛来してきた生物まで仲間に加わったらしい。仲間の数は年々増加している。彼らの仲間意識がどういう構造になっているのかは不明だが、少なくとも人見知りとか差別とか派閥というものは彼らのあいだに一切存在していないようだった。硬く張りついた営業スマイルを浮かべている彼らの仕事も、もちろん夢と魔法のイメージをキッズに存分に喚起させてやることだった。
 王国ゆえに、王として君臨している者が存在する。いつもタキシードと赤いズボンを着用している巨大な鼠・・・・がそれである。だが権威を振りかざすことは決してない。鼠はいつも明るく、茶目っ気たっぷりで、キッズと写真を撮ったり抱き合ったり、華麗なダンスを披露したりする。キッズは目の前で本物の愉快な鼠が踊っているのだとイメージすることができる。金を支払っているキッズにはイメージする権利があるからだ。
「完璧な世界なんだよ」まるで政治家の汚職事件を扱った新聞をごみ箱に捨て去るように烏帽子田さんは首を横に振った。
 完璧なる所以は、決して消費し尽くされない点にあった。どれだけ多くのキッズがどれだけ多くの時間をイメージすることに費やしたとしても、夢と魔法のイメージは決して在庫切れになることはなかった。求めれば求めたぶんだけ同量のイメージがきちんと与えられる。それが王国が成り立つための絶対条件だった。代価を支払い続ける限りイメージは永遠に死ぬことがない。それはあたかも愛情のようであった。
 
「だから完璧なんだよ、あれは」
 烏帽子田さんは口数の多い男ではなかった。彼の自宅近くの喫茶店で一時間近く向かい合っていたのだが、彼が自分から進んで何かを話すということはほとんどなかった。背中を丸めて、立て続けに煙草に火をつけ、視線を合わそうとしない。灰皿かコーヒーカップのあたりを見ているのだが、深く被った野球帽のせいで表情を確認することができない。モスグリーンにZのワッペンが貼られた、どこのチームのものかよくわからない野球帽だ。薄い唇のまわりに無精髭が生えている。だが不潔な印象はなかった。ネクタイは締めていなかったが、真っ白なワイシャツにきちんと折り目のついた灰色のスーツを着ている。五十三歳で独身ということだった。
 烏帽子田さんと顔を合わせるのは初めてだった。電話で取材を申しこんだときはなかなか承諾してくれなかったのだが、話をするだけならということで会うことになった。
「びっくりしただろう」新しい煙草に火をつけて烏帽子田さんは自嘲気味に言う。
「何がですか」
「何がって」烏帽子田さんはちらりと顔を上げる。小さな目だが、相手をじっと見定めるような光を放っている。「だって、烏帽子田みたいなおっさんがあの鼠だったんだよ」
「ええ、初めて聞いたときは確かに驚きました。いろんな意味で。でもどうしてそんな特別な仕事を辞めることになったんですか。厳正に選ばれた人しかなれないものでしょう」
「浜本さん、だったっけ」溜め息と共に烏帽子田さんは煙を吐いた。
「浜本です」
「あのう、一匹じゃないからね、あの鼠らは。え、行ったことないの。そうなの。実際あそこには同じ恰好をした山ほどの鼠がうじゃうじゃいて、あちこちに散らばってるんだよ」
「なるほど。たしかに鼠というのはあちこちうろついているものですからね。つまりオンリーワンの仕事というわけではないと」
「かといって同じ場所に二匹一緒にいることは絶対にタブーだよ。それだけは御法度だわ」
「あくまでこの世に一匹という設定なんですね。各々のポジショニングが難しそうです」
「そこらへんはまあ、烏帽子田もプロだから。長年この仕事をやってきてるし、そのへんのルールはよくわかってるつもりだけど」
「烏帽子田さんは何年ぐらい着ぐるみ師としてやってこられたんですか」
「三十年」烏帽子田さんはまだ半分ほどしか吸っていない煙草を灰皿に押しつけた。
「この業界では長いのか短いのかよくわからないけど、数えてみたらちょうどそれぐらいになるね」
「というと赤ん坊だった子がもう一人前の大人。うまくいけば係長ぐらいになっていますね」
「それぐらいの計算になるかな」
「これまでどんな着ぐるみを着てこられたんですか」
 烏帽子田さんは無精髭を撫で回したり、鼻を触ったりした後、我慢しきれないようにやはり次の煙草を抜き出した。「とりあえず十二支は全部着たよ」と彼はコーヒーカップにむかって煙を吐き出した。「でも蛇は辛かったな。基本動作が上半身を揺らすこととジャンプすることだけだから。ほとんど身動きが取れなかったんだ」
「なるほど。龍にはまだ小さな足みたいなのがついていますものね。かなり短い歩幅で、よちよち歩きになるでしょうけれど」
「ボウリングの玉に入ったこともあるよ。あとキャベツにも。やっぱり基本的に球体はバランスが取りにくいよね。活発な子供がいたら最後だわ」
「かなりのキャリアをお持ちなんですね」
「まあそのぶん体を酷使したけどね」烏帽子田さんは野球帽をぐいっと下げた。
 店の時計は十一時を指していた。客は僕たちともう一人の男キッズしかいなかった。男キッズはスーツ姿で僕たちが入ってくる前から隅のソファに坐っていて、空のコーヒーカップを前にしながら劇画雑誌を熱心に読み続けていた。表紙には、衣服としての機能をまったく果たしていないぺらぺらのシャツを素肌にまとって、照れくさそうに頬を赤らめている女キッズが描かれている。カウンターの奥では店の経営者である中年の夫婦キッズが小声で言い争っていた。遺産相続の取り分が少なすぎたとかいった話だ。互いを非難する夫婦キッズの声は僕たちの見えないところから聞こえていた。だが次第に近づいてきたパトカーのサイレンが店の前で鳴り止むと、夫婦キッズは入り口のドアのところまで姿を現して、ガラス越しに外の様子を興味深そうに観察し始めた。どうやらすぐ近くの交差点で原付バイクと自転車が衝突したみたいだった。膝にすり傷を負って泣き叫んでいる若い妊婦キッズを、浅黒い肌の老警官キッズがなんとか落ち着かせようとしている。野次馬キッズが集まりだして、クラクションが苛立たしそうに鳴り響く。その様子をじっと見ている夫婦キッズの口元が愉快そうに歪んだ。だが僕の目の前に坐っている野球帽の男はそんな騒動には目もくれようとしなかった。ただ何かを考えているようにひたすら煙草を吸い続けていた。
「子供っていうのは残酷なもんだわ」
 烏帽子田さんは底に少しだけ残っていたコーヒーを飲み干すと、そう言った。
「たしかに毎日大勢の子供を相手にするというのはきついのでしょう」
 「あるとき、一人の男の子がちょっかいを出してきたんだよ。小学校五、六年生ぐらいで、相撲取りみたいにころころ太った少年だったわ」
「王国で鼠の着ぐるみを着ていたときの話ですね」
「そう。その男の子がずっと体のあちこちを引っ張るんだよ。手袋を脱がそうとしたり、タキシードを脱がそうとしたり。まあ烏帽子田らの仕事にとっちゃあ、そんなことは日常茶飯事だし、最初はおどけてあしらっとったんだ。だけどいかんせん、その子の力が強くてね。全力を尽くしてこっちを倒そうとするんだよ。大抵そんな場合は他のスタッフが優しくあいだに入って止めてくれるんだけど、そのときはたまたま忙しくて、誰もいなかった。まわりの客もちょっとたじろいでたね」
「客は大勢いたんでしょうか」
「かなりいたね。連休直前の日で、ほとんどのアトラクションに行列ができてたよ。そんな観衆の中、男の子はだんだんエスカレートしてきて、いろいろ技をかけようとしてきたんだ。上手投げとか内掛けとか。やっぱりわんぱく相撲をやってる子だったみたいだわ。かなりしっかりした技のかけ方だったから。たしかに今から考えれば烏帽子田も大人げなかったんだと思うよ。はじめから何の抵抗もせずに素直に倒れてたら良かったんだよ。でも彼の体が絶妙な角度で烏帽子田の懐にぴたっと入りこんだとき、つい危険を感じて大人の力を発揮してしまったんだわ」
「反射的に力を入れてしまったわけですね。かなり強い力だったんですか」
「いや、肩をぐいっと押しただけだよ。でも何歩か後ろに退いた男の子はぽかんと口を開けてこっちを見てたよ。だけどそんなことでその子の出鼻をくじくことはできなかった。むしろ闘争心に火をつけられたみたいで、また猪みたいに思いっきり突進してきたんだわ。今度の技は首投げだったよ。烏帽子田の首元に腕を巻きつけて、前後左右に激しく揺らし始めたんだ。これが致命的だったね。まわりもどう対処していいのかわからず、全然助けようとしてくれなかった。みんなのアイドルの頭がぐいぐい引っ張られているのにだよ。自分で頭を抜こうとしたけど、そうすればするほど強く締めつけられるんだよ。顎のベルトをしっかり留めてなかったのも悪かったんだろうね。だんだん異様な角度で頭が捻じれていったわ」
「止めようとする人は誰もいなかったんですね」
「いなかったね。残念なことに。最終的にふっと男の子の腕が離れた。烏帽子田は地面に仰向けに倒れた。雲一つない青い空が見えて、涼しい風を感じたね。その瞬間、小さな悲鳴が起こったのを覚えてるよ。体を起こしてみると、目の前にひっくり返った鼠の頭部が転がっていたんだ。鼠の顔は相変わらず満面の笑みを浮かべながら、かたかた揺れていたね。まわりの客は一斉に烏帽子田を見てた。みんな何も言わず、石みたいに固まってたよ。みんなの視線が何に集中してるか、もちろん烏帽子田は瞬時に察知したよ。あの愛くるしい鼠の笑顔の中からこんなものが現れるなんて、誰にとっても衝撃的だからね。まさにパンドラの箱が開けられたんだわ」
 烏帽子田さんはそう言うと、野球帽をゆっくりと脱いだ。
 目の前に現れたのは、薄暗い蛍光灯の光に鈍く反射した見事な禿げ頭だった。両耳の上には生まれたての雛のような毛が少しだけ残っていたが、それもやがて抜け落ちることは一目瞭然だった。誰が何と言おうと、烏帽子田さんがさらけ出した頭は正真正銘の禿げ頭だった。表情に陰影を与えている顔中の深い皺。彫刻刀で削り取ったような痩せこけた頬。細く小さい目に、薄い紫色の唇。そして四頭身の鼠となってキッズと触れ合うにはあまりにも生々しすぎるヘアスタイル。一瞬、妖怪ぬらりひょんを僕は思い出した。
「誇りだと自分では思ってるよ」烏帽子田さんは手の中で野球帽を回しながら、少し照れ臭そうに言った。「着ぐるみの中は冬でもかなり蒸れるんだわ。常に動き回ってるから、自分の体温でサウナ状態になるんだよ。三十年のあいだそのサウナの中にいるうちに、いつのまにか草木も生えない不毛な頭皮になってたよね。着ぐるみ師としては年季の入った証しだと自分では信じてるけど。でも決してさらけ出すもんじゃない。初めてだったんだよ。客の前で着ぐるみが脱げてしまうなんて」
 僕はまわりを見回した。劇画雑誌を読んでいた男キッズの視線は女キッズのイラストよりも烏帽子田さんの頭に釘付けになっていた。カウンターの夫婦キッズも口をあんぐり開けて、こちらに注目している。静かだった店内に固い緊張が張りつめた。だが、夢と魔法の王国で烏帽子田さんの頭が引き起こした衝撃はこんな程度ではなかったのだろう。おそらく多数のキッズは烏帽子田さんの頭に精神的なショックを受け、しばらく視線を外すことさえできなかったと僕は推測する。だが同時にそんな禿げ頭を認めたくはなく、必死に視界から追い出そうと闘っていたはずだ。せっかく金を出して買った夢と魔法のイメージを消失させるわけにはいかない。
「その日から烏帽子田は仕事を失ったよ」と烏帽子田さんは再び野球帽を深く被った。「仕方ないことだけどね。鼠の頭を被り直したときにやっと到着したスタッフたちに取り囲まれて、烏帽子田は控え室に連れていかれた。真っ黒なスーツを着た男から『今すぐ帰ってくれ』と言われたんだ。今回のことは絶対に他言しないように、自分が鼠の中に入っていたことを絶対に他人に漏らさないように、そうきつく釘を刺された。もし約束が破られた場合、あなたはかなり面倒な立場におかれることになると」
「今でも仕事はされていないんですか」
「そうだわね。何回かデパートの屋上とか遊園地で着たことはあるけどね。生活もあるから。でも前の感じとは全然違うんだよ。何かまわりのお客の視線がやけに冷たくて鋭いものに感じるんだわ。本当はみんな着ぐるみの中に隠れている烏帽子田の頭のことを知っていて、忌み嫌うような視線でじっと見ているような気がしてくるんだよ。そう思えてくると、もううまく体を動かすことはできないね。着ぐるみ師としてはもう終わりだよ」
「たしかに元のテンションを取り戻すのは大変でしょうね」
「ときどきあの相撲取りみたいにころころ太った少年のことを思い出すよ。お天道様のもとであらわになった烏帽子田の頭をじっと見つめていた彼の顔が浮かんでくるんだ。彼の顔には表情とよべるものは一切なかったね。粘土に切りこみを入れただけのような、平べったい目で彼は烏帽子田の頭を眺めてた。まるで自分の住む世界とはまったく別の世界で生きている異様な生物を観察するみたいにだわ」
 烏帽子田さんは空になった煙草の箱をくしゃくしゃに丸めると、立ち上がって尻のポケットから財布を出し、トイレの前にある自動販売機の方へ歩いていった。彼の一挙一動を店内の三人のキッズはちらちらと窺っていた。烏帽子田さんは硬貨を投入した後、しばらく自動販売機の前で立ち尽くしていた。どの煙草を買うかを迷っているというより、やはり他の何かについて深く考えこんでいるようだった。
 僕はICレコーダーの電源を切った。そして烏帽子田さんが戻ってくるまでのあいだ、何も考えずに目の前の山盛りになった灰皿をただ眺めていた。

第2話:https://note.com/osamushinohara/n/n76d8f6f97753

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