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超能力

 野球場からの帰り、電車の中でそのアメリカ人は言った。超能力はいりませんか、と。まるで今からどこかでコーヒーでも飲まないかというような自然な口調だった。
 聞きまちがえたのかと思った。電車の中は同じ野球場から帰る人々で騒がしかったから。でもたしかに「チョウノウリョク」と聞こえた気がする。僕は「なんて?」という表情で隣に座っているリライの顔を覗き込んでみた。リライは僕の表情を見ると、さっきの紳士的で穏やかな微笑みを1ミリも崩さずに、僕の耳に近づいてもう一度囁いた。超能力はいりませんか、と。
「超能力、ですか?」と僕は訊ねた。
 リライは小さく頷いた。
 リライが冗談でそんな事を言っているとは思えなかった。リライは僕と初めて会ったときも、今晩ずっと一緒に野球観戦していたときも冗談というものは一切言わなかった。でも一緒にいて堅苦しいという感じはしない。リライはいつも口元に穏やかな微笑みを浮かべて、普通のことを普通に話した。そしてそれはときおり新鮮なことに聞こえた。リライが「芝生がきれいだ」と言えば、なぜか僕は目の前に広がるグランドの芝生のきれいさに感嘆せずにはいられなかった。生まれて初めてきれいな芝生を見たみたいに。リライの話(あるいは話し方)には爽やかなものがあった。冗談はリライにとっては蛇足でしかなかった。
 あり得ないことだが、もしかするとリライはドラッグのことを言ってるんじゃないかと僕は想像した。そうじゃないとしたら、新興宗教か何かに属しているのかもしれないと。僕は目の前に座っている女の鞄からはみ出ている黄色いメガホンに視線を移した。リライに対してどう答えようかと思い迷っていた。そんな僕の微妙な困惑を彼は見透かしたように、また僕の耳元で言った。
「安心してください。ドラッグの言い換えではありません。超能力といえば超能力です」
 僕はリライの青い瞳を見た。
「あの、よくテレビでやってるような?」
「そうですね。アレによく似ています」
 向こうの方で野球チームのハッピを着た団体がメガホンをリズムに応援歌を歌いだした。
「物を動かしたり、カードのマークを当てたり?」
「もちろんそういうこともできます」
 僕はなんて言ったら良いのか分からなかった。
 しばらくの沈黙の後、リライは言った。
「心配いりませんよ。私はあなたに何かを売りつけたり、騙したりするつもりはありません。もちろん危害を加えたりするつもりもありません。私は超能力を持っています。東京に来るときバッグの中に入れて持ってきました。今ホテルの部屋の中にあります。遊びのようなものだと思ってください。トランプ、チェス、マジック、将棋、そして超能力。新しい遊びです。きっと楽しめますよ。具体的なことは見てからの楽しみです。もちろんマジックではありません」
 リライは話している間、まるで僕がその新しいゲームを楽しむことを確信しているみたいに一貫して微笑みを絶やさなかった。
「私は明日ナツミと一緒に沖縄に帰ります。最後の夜です。どうですか? 酒でも飲みながら」
 頭の中に夏美が浮かんだ。
「正直言ってよく分からないんですけど、おもしろそうですね」と僕は言った。
「楽しみましょう」とリライは言った。
 僕とリライはそのまま電車を乗り継ぎ、リライの宿泊しているホテルへ向かった。乗り換えのホームで電車を待っている途中、リライは携帯電話を使い、僕をホテルへ連れて行くことを英語で告げた。相手は夏美らしかった。

 リライと初めて会ったのは、一週間前あった大学の同窓会だ。
 卒業から二年後の同窓会は、都内にある中堅ホテルの大広間で行われた。いろんな学部が集まってのパーティーだったので友達を探すのに苦労したが、何人かの友達と再会することができた。友達の何人かは就職し、そのうちの何人かは地方に飛ばされ、他の何人かはアルバイトをしていた。来なかった何人かのうちの一人は死んでいたようだった。僕らは互いの近況や思い出話、当時付き合っていたカップルの誰それが結婚しただの別れただのを、酒を飲みながら談笑した。
 友達との再会を懐かしむ一方で、僕は一人の女を探していた。友達と昔の話で盛り上がっているときでも、頭の中には一人の女の姿がチラチラと浮かんで仕方がなかった。一人の女とは夏美のことだ。自分の大学時代を思い出すとき、一番多くの時間を共に過ごしたのは夏美だった。僕の大学時代の時間とは、そのまま夏美との時間でもある。そもそも同窓会に出席しようと決めたのも、夏美に会えるかもしれないという期待があったから。もしかしたら来るかもしれない、と思った。もし再会できたとしても、そこでどうするつもりはない。新しい時間を作ろうというわけじゃない。ただ、会って話をすることによって、中途半端にテーブルの上に残されてしまった古い時間の切れ端をちゃんと押し入れにしまいたかった。
 しかし会場全体をくまなく探してみても、夏美の姿をどこにも見つけることができなかった。友達に訊いてもみた。しかし誰も夏美を見かけていないようだった。僕はあくる日の仕事の準備のため、その後また会社に戻らなくてはならなかった。ホテルを出るべき時刻になったころ、もう一度会場を歩いて、夏美を探してみた。しかしやっぱり見つからなかった。来るわけがないとは覚悟していたものの、なんだか行き場のない気持ちを抱えながら、友達に別れを告げ、僕は会場を出た。
 ロビーでボーイに冷たい水をもらった。酒の入った体を静めるため、僕はソファに身を深く沈めて、タバコに火をつけた。ロビーには人がほとんどおらず、おそろしく静かだった。時々遠くの方でエレベーターが到着する重い音が微かに聞こえた。目の前にあった大きなガラスの向こうには巨大な交差点が見えた。いろんな色や形の車が激しく行き交っていた。しばらくの間その風景をぼんやり眺めていると、いつの間にかタバコの火がフィルターまで届いているのに気付いた。それを「指が一本骨になったようにもみえた」と描写した小説を思い出した。しかしそういう風にはどうしても見えなかった。それをそっと灰皿まで持っていった。いくつかの灰の塊が音もなくテーブルの上に落ちた。フィルターだけを灰皿の底に強く押しつけた。
 さ、会社に戻ろう、そう思って立ち上がろうとしたとき、突然「奥村くん」と、僕の名前を呼ぶ声がうしろから聞こえた。ロビーの静けさの中で、その声はとても柔らかく響いた。聞き覚えのある声だった。
 僕は振り返った。女がいた。女は僕の顔をじっと見て微笑んでいる。僕の中で古い時間と新しい時間が混ざり合っていくような感じがあった。その感じに戸惑った。さっきまで頭の中にあった二年前の夏美の面影と、目の前にいる女の印象とがあまりにもかけ離れていたから。人違いとさえ一瞬思った。でも目の前にいるのは確かに夏美だった。女の顔をじっと見ているとあぶり出しのように夏美の顔になった。僕はしばらくの間夏美の顔を見つめる以外何もできずにいた。様々な色彩の光線がバラバラに頭の中を飛び交っていた。
 夏美が間を埋めるように笑った。
「どうしたのよ? ひさしぶり」
 夏美はそう言うと、僕の方に近づいてきた。
「来てたんだ。知らなかった」
 僕がやっと口を開くことができると、夏美はまた短く笑った。
「昨日東京に着いたの。ここのホテルに泊まってるのよ」
「そっか」
 僕と向かい合わせのソファに座った夏美は、半分に割れた林檎がプリントされた水色のTシャツを着ていて、色の濃いタイトジーンズと丈夫そうに編み上げられたサンダルをはいていた。学生のとき背中の真ん中まで伸ばされていた髪はすっかりその姿を失っていて、耳が見えるくらいに短く切り込まれていた。ほとんど化粧をしていない顔やTシャツから細く伸びた腕は太陽にこんがりと焼かれていて、バスケットボールのような色をしていた。部活に励む中学生みたいに元気そうだった。
 夏美は僕の格好を見てクスッと笑い、「スーツなんか着ちゃって」と冷やかした。
「スーツぐらい着るさ。会社員だぜ」と僕は笑って言い返した。
「探してたでしょ」
「え?」
「私のこと」
「あ、まあ、もしかしたら来てるかなと思って」
 夏美は足を組み、ソファの肘掛で頬杖をついて、観察するように僕の顔をじっと見つめた。その口元はどこか微笑んでいた。僕はまたタバコが吸いたくなった。
「会場には入らなかったの? 全然見かけなかったけど」と僕は気を取り直して訊いてみた。
「いたわよ。ずっと」と夏美は当然のように答えた。
「そう。全然気付かなかった」
 夏美の風貌があまりにも変わってしまったからかな、僕はそう思った。 
「私は奥村くんに気付いてたわよ」
「ほんとに?」
「うん。ずっと」
 気付いていたなら、と思ったが、言葉にするのはやめた。
「あなた、あんまり変わってないわね。スーツ着ても」と夏美は言うと、またクスッと笑った。大きな変化を遂げた夏美にそう言われると、僕は少し傷ついた。
 僕は時間のことを考え、思い切って沖縄での生活を訊ねようとした。
 しかしそのとき、ロビーの奥の方から背の高い男がこっちに近づいてくるのが見えた。男は足の裏を一歩一歩床に馴染ませるような丁寧な歩き方で、僕らの方に向かってきた。男は白人だった。細身の体に麻のジャケットとジーンズを穿いていた。彼は僕らの側まで来ると、英語で夏美に問いかけた。夏美は彼に気付くと、彼を見上げながら英語で何かを報告し、なにやら可笑しな出来事があったように笑った。そうすると彼も笑った。
 夏美は彼を紹介した。
「向こうで知り合ったの。リライ。アメリカの人よ」
 リライは僕に微笑みかけると、軽く会釈した。僕も会釈した。夏美はそれを見届けると、今度は英語でリライに僕を紹介した。リライはそれを聞きながら小さく何回か頷き、「はじめまして、よろしく」と日本語で挨拶した。
「一緒に来たの。同窓会で東京に行くって言ったら、僕も一緒に行くって言い出して。東京をいろいろ見て回りたいらしいわ。あと、私の生まれた家も見たいんだって。ね」
 夏美はそう言ってリライの方を見上げた。
「彼女が育った街に興味があるんです」とリライは日本語で言った。
「じゃあ、しばらくこっちにいるの?」と僕は訊ねた。
「一週間ぐらい」と夏美は答えた。
 それから恐らく五分ばかり僕ら三人は何かを話した。何を話したのか、まったく覚えていない。たぶん夏美がほとんど喋り、リライがそれに答え、僕はその合間に適当に相槌を打った、のだと思う。
 最後に、これから夕食を食べに行くんだけど、一緒にどう? と夏美は僕を誘った。僕は少し迷ったが、これからまた会社に戻らなくちゃいけないから、と言って断った。その後二、三言葉を交わすと、僕は二人に別れを告げ、ホテルを出た。
 会社に戻る途中、僕は電車の切符のボタンを押し間違えた。横断歩道で青信号になってもしばらく気付かずにいた。何回か人と肩がぶつかった。会社に戻るまで一つ一つの行動をちゃんと意識しなければならなかった。夏美とアメリカ人が英語で話している姿が、印象的だった映画のワンシーンみたいに何度も頭の中に鮮明に映し出されていた。
 誰もいない事務所にたどり着くと、僕は電気をつけ、自分の机のコンピューターを立ち上げた。画面の準備が整うまでの間、トイレに行き、コーヒーを入れ、入力するデータの書類を整理した。しかしウィンドウを開き画面を見ていると、奇妙な感覚に襲われた。僕がコンピューターに打ち込まなければならないデータは、すでに誰かが打ち込んでいることに気付いた。僕は少し不安になり、何枚かあった書類と画面を一つ一つ見比べてみたが、すべてのデータは僕のいないうちに誰かによってきれいさっぱりと打ち込まれていた。不思議な気持ちでしばらく画面を見つめていたが、そうしていても仕方がないのでコンピューターの電源を落とした。家に帰る前に、タバコに火をつけ、最初の煙を肺の中に深く入れてみた。そのとき妙な焦燥感に襲われた。真っ白な壁を掻きむしる自分の姿が、一瞬頭の中をよぎった。胸がざわついた。ふとまわりを見渡してみた。古くなった蛍光灯の黄色い光が無人のオフィスを照らし出していた。

 それから一週間後だった。そのときちょうど昼休みで事務所には僕しかいなかった。僕は仕事で自分の手違いがあったため、昼休みを返上し、一人コンピューターに向かっていた。電話が鳴ったので受話器を取り、会社の名前を告げると、相手は夏美だった。僕は「え」と大きな声を出した。
「今晩空いてる?」と夏美は訊ねた。
 僕は今勤めているコンピューターのシステム構築会社の就職が決定したとき、会社の名前を夏美に知らせていたことを思い出した。そして、それを夏美がまだ覚えていたことに少し驚いた。
「今晩?」
「うん。リライが野球を観たいって言ってるの」
 僕はアメリカ人のことを思い出した。
「なんか、リライがアメリカで好きだった選手が日本で活躍してるらしいのよ。それをどうしても生で観たいんだって」
「僕も一緒に?」
「私これから実家に戻らなきゃならないの。何年ぶりかの一家団欒ていうやつ」
「うん」
「リライは東京のこと全然分からないし」
「うん」
「私は野球のこと全然知らないし」
「うん」
「もし良かったら一緒について行ってあげて欲しいの」
「うん」と思わず生返事をした。
「ほんとに?」
 そう訊かれて僕は一瞬迷った。仕事はおそらく早くに切り上げられるだろうという予想はついたが、なにか引っかかりがあった。しかしそれでも「わかった。いいよ」と承諾した。彼らが宿泊しているホテル(つまり同窓会が行われたホテル)の前で待ち合わせることを決めた。
「ありがとう」と夏美は礼を言い、電話を切った。

 大学卒業を目前とした十二月の終わり頃。その夜、夏美は沖縄に行くことを僕に告げた。
 新しい年が明けようとしていた数日前の夜だった。僕と夏美は、当時僕が住んでいた学生マンションの近くにあった定食屋で一緒に夕飯を食べていた。値段の安さと量の多さが何よりも売りだったその店は、そのあたりに多く住む学生達によく利用されていた。その代わりエアコンはなく、椅子の綿が所々飛び出し、ソースがよく切れ、漫画本は油でベトベトで、床が歩くたびにネチッと音を立てた。その夜はさすがに年末も押し迫っていたせいか、僕らの他にスーツを着たサラリーマン風の男が一人カウンターの席に座っていただけだった。
 食事をしている間、夏美はほとんど何も喋らなかった。僕が話しかけても、何か一言だけ返す程度だった。出てきた料理にもほとんど口をつけていなかった。なにか深く考え込んでいるようだった。
 そういう事はそれまで付き合ってきた中にもよくあった。会話の途中や部屋にいるとき、ふとブレーカーが落ちたみたいに急に黙り込んだ。そういうとき夏美は深くうつむき、長い髪をカーテンのようにして表情を隠した。まだ知り合って間もない頃そういう状況になると、僕は自分が何かいけない事を言ってしまったのかと焦った。しかし夏美は僕がわけを訊ねても「べつに何でもない。平気」と言うだけだった。
 夏美は真面目な学生だった。僕の覚えているかぎり講義をさぼったことは一度もなかった。毎回きっちりノートを取った。毎年登録した講義の単位を一つも落すことなく取得した。どこのクラブやサークルにも属することはなかった。アルバイトもしていなかった。僕と一緒にいるときでも門限をきっちり守って家に帰った。夏でも長袖の服を着ていた。「暑くないの?」と僕が訊くと、「昔から長袖のほうが涼しいの」と夏美は言った。日差しがきついときには日傘を差した。そのせいだったのか、夏美の肌は異様に白かった。青細い血管が体の所々に浮かんでいた。
 夏美はよく小説を読んだ。アメリカの女流作家の小説が多かった。夏美はその中の何冊かを、同じ文学部でほとんど小説を読んだことのない僕に薦めた。救いのない結末の物語が多く、主人公か主人公に近い人物が必ず死んだ。僕は小説よりかは映画の方が好きだった。大体どんな作品でもちゃんと二時間程度で終わってくれるから。いつか二人で見たゴダールの映画の中で「女はみんな内向的なのよ」という台詞が出てきたとき、僕は妙に納得してしまった。僕がそう言うと、夏美は「でも」と付け加え、少し考えてから「そうとは限らないと思う」と言った。
 僕が麻婆豆腐の最後の一口を食べ終わると、夏美はそれを待っていたみたいに、うつむいていた顔を上げた。いつもより思いつめた表情だった。
「どうしたの?」と僕は水を飲みながら訊いた。
 夏美は少しためらった後、「沖縄」と呟いた。
「沖縄?」
 夏美は頷いた。
「沖縄に行こうと思ってるの」と夏美は言った。
「……沖縄、旅行?」
 夏美は首を横に振った。
「住むの、沖縄に」
 夏美はそう言うと、僕の反応を窺うように、僕の目をじっと見つめた。
「親戚のおばさんが住んでるから。そこに住まわせてもらうことになったの」
「……え?」
「……」
「沖縄に?」
「うん」
「ずっと?」
「うん」
「一人で?」
「うん」
「なんで?」
「わからない」と夏美は答えた。
 しかしその後「でも」と付け加え、
「卒業したら一人で沖縄に行って住むことに決めたの」
 まるで自分の唯一の主張のように夏美はそう言い切ると、また視線を落とし、うつむいた。
 僕は話がうまく飲み込めなかった。身動きが出来なかった。無理やり口から長い鉄の棒を突っ込まれたみたいだった。鉄の棒の回りを、いろんな想いと勝手な想像が駆けめぐり絡みついていた。カウンターの男がテレビを見ながら、僕らの様子をチラチラと窺っているのが分かった。テレビはその年起こった重大ニュースをいくつか放送していた。どこかの国の島で行われた原爆実験の模様が映し出された。地の底から湧きあがるような低い衝撃音と共に、地面が揺れカメラが揺れた。画面いっぱいに砂煙が舞った。地中深くで爆発する原子爆弾。テレビタレントが真剣な顔つきで原爆実験を厳しく批判していた。放射能を浴びて首筋にひどい炎症を起こしている若い兵士が娘とフリスビーをして遊んでいる姿が映し出された。僕の中で何かが静かに引き剥がされていく感覚があった。
「本当なの?」
 僕は思わずそう訊ねた。
 夏美は顔を上げ、僕の目をじっと見つめると、「本当よ」、そう諭すように言った。そしてまた黙った。
 重大ニュースのテレビ番組が終了した頃、店主が「もう閉店だよ」と言った。その声で僕らは自動的に立ち上がった。勘定を払って、店の戸を閉めるとき、半分明かりが消された店内で、カウンターの男がまだ熱心にテレビを見ていた。
 その夜、夏美は僕の部屋には寄らずにそのまま自分の家に帰った。駅まで送ると言ったが、夏美は首を横に振り、「じゃあ」と言って夜道を歩いていった。

 それから数日後、年が明けた。郵便受けには数少ない年賀状と共に、夏美からの手紙が入っていた。
 最初に、あなたがいけなかったのではないと書かれていた。私には漠とした不安があります。でも私は空っぽです。将来への不安、人生への不安、自分自身への不安、そういったものがありながら、私自身は空っぽです。今まで何一つ自分の力で成し遂げたことだってありません。朝起きてから、電車の中、授業中、昼休みに友達といるとき、学校からの帰り道、そして夜ベッドに入って眠りにつくまで、私の中には息苦しい空気の固まりみたいなものがずっとありました。あなたといる時間はそういった事を忘れることができました。でも卒業が近づくにつれて、その空気の固まりはどんどん膨れ上がってきました。私は生まれてからずっと東京で暮らしてきました。そしてこれからもそういうものを抱えながら、このまま東京のどこかの会社に就職して暮らしていくことを想像すると、私には耐えられませんでした。まるで一生鉄の壁に閉じ込められるようなものなのです。きっとあなたは私の将来のことも考えてくれていたと思います。でも、私の本当の姿はもっと別のところにあるんじゃないかと思いました。私は遠くへ行きたい。
 そういった内容のことが書かれていた。そして最後に「ごめんなさい」とあった。
 僕は何度か夏美の家に電話した。しかし夏美が出ることはなかった。いつも夏美の母親が出て「出たくないそうなの」と言って断られた。直接家にも会いに行ったが、同じように断られた。手紙も書いた。もう一度会って話がしたいと。しかし返事が返ってくることはなかった。卒業論文の関係で何度か学校に行ったが、そこでも夏美を見かけることはなかった。三月になり、卒業式の日になっても夏美は現れることはなかった。夏美は僕の前からすっかり姿を消してしまった。

 僕はその間だんだんと人とうまく話すことができないようになった。相手となにか話をしていても、途中で黙り込んでしまうことが多くなった。相手が誰であろうと話の内容が何であろうと、落とし穴に落ちるように急に闇の中に引きずられていった。次第に朝とか夜とか関係のない生活になっていった。生活とすら呼べなくなっていった。ほとんど部屋の中で寝転がっていた。髭も伸ばしっぱなしで、風呂にもロクに入らなかった。夕方になると時々駅のベンチに座って、会社帰りの人の流れを半開きの目で眺めた。一度、聖書を持った黒のロングコートを着た女の子が「手かざしを」と言って近づいてきたが、僕が顔を上げずにじっと黙っていると、何もせずにどこかに去っていった。母親から何度か電話がかかってきた。すでに決定していた就職先を僕がどうするか分からないと言ったから。母親は今さら何を言ってるのと何度も理由を訊いた。僕は何度も「わからない」と答えた。最後には電話線を引き抜いた。
 うまく眠れない日々が続いた。眠ろうとすると孤独がアルコール度の高い酒のように一気に体中に染みわたった。心臓の鼓動が激しくなり、空っぽの胃が縮まって何度も嗚咽した。ベッドの中で何度も寝返りを打っては、起き上がった。冬なのにシャツが汗でべっとりと濡れた。孤独は本当に人間を殺そうとする、僕はそう実感した。

 四月になり、散髪屋に行った。はっきりとしない空気の固まりを抱えながら、僕は会社に行くことになった。
 会社に入った最初の頃は、ほとんど毎日残業の日々が続いた。部屋に帰るとテレビをつけっぱなしで眠ってしまうことが多くなった。休みの日には家で寝転がるか、時々映画を観に行った。娯楽が世の中にちゃんと用意されている理由が分かったような気がした。夏の終わりごろ、飲み会で知り合った女の子と仲良くなり、一度だけ二人で会った。しかしそれだけだった。その女の子には実は他に好きな男がいるという事をあとで聞かされた。それから一年ほど経って、母親が死んだという知らせを受けた。スーパーでレジを打っている途中、そのままレジの上に倒れ込んだそうだった。突然死だった。僕は新幹線に乗って実家に帰った。横たわっている母親の手を祖母がひっそりと握っていた。それから数日後、会社でコンピューターの画面に向かっているとき、鼻血が出た。白いキーボードの上に赤い点々がポツポツとついているのが見えた。ハンカチで鼻を押さえたが、血液は溢れ出るように次々と流れ落ち、止まらなかった。顔から血の気が引いていくのが分かった。それに気付いた同僚が近くの薬局まで連れて行ってくれた。その日はずっと口の奥に鉄の味が残っていた。

 不確かな日々が何日も、何ヵ月も続いた。とてつもなく長い行列に並んでいるうちに、自分自身が不確かになっていくような日々だ。
 そして同窓会があった。
 同窓会で再会した夏美は、一度きりしかない生を体の隅々まで染み渡らせているように僕には見えた。輝かしい太陽の下で生まれ変わり、世の中のあらゆる圧力とは無縁に生きている。そんな風だった。
 僕は眠る前、死んだ母親のことを想った。思い出されるのは、普通の生活での彼女の横顔や背中ばかりだった。彼女は何のためらいもなくレジの上へ倒れ込んだため、彼女の顔には額から右目の回りにかけて大きな青いあざの跡がうっすらと残っていた。僕はあざの残った彼女の顔を眺めながら、身が縮まるような気持ちになったのを覚えている。(当然のことだが)そのとき初めて、母親もまた自分と同じように一人の人間だったということを思い知らされた。
 遠くへ行きたい、僕は心からそう願った。

 野球観戦が終わり、ホテルに着くまでの間、僕とリライはほとんど何も会話をしなかった。僕はリライに訊きたい事がいくつかあったが、それはホテルに着いてからゆっくり訊いた方がいいと思った。ホテルに着くとロビーには人が溢れかえっていた。ちょうど何かの会合が終わった頃みたいで、三十代から四十代くらいの何十人もの男女がロビーのいたるところで談笑していた。僕とリライはその間をすり抜けるようにして、エレベーターに乗りこんだ。
「あなたとナツミが恋人同士だったことは、ナツミから聞いてます」
 静かになったエレベーターの中でリライは唐突にそう言い出した。そして「でも」と付け加え、「私とナツミは恋人同士ではありませんよ」と言った。
「なんて言っていいのか分からないですけど、良き友達みたいなものです」
 そして少し間を置き、「安心しましたか?」とリライは言って、僕の顔を覗き込んだ。
 僕はただ笑うしかなかった。リライが言った事は、僕の訊きたい事の一つだった。
「安心してください。私は少年しか愛せません」と言って、リライは微笑んだ。
 部屋に入ると蒸し暑かった。リライはすぐさまエアコンのスイッチを入れ、麻のジャケットをハンガーに掛けた。部屋の壁は真っ白で、ベッドは一つしかなかった。リライは冷蔵庫からビールを取り出し、一本を僕に渡した。僕は椅子に座り、リライはベッドに腰掛けた。僕らは同じように勢いよくビールを口にした。
 僕は最初、シングルの部屋が気になった。夏美の荷物らしきものがどこにも見当たらなかった。てっきりリライと夏美は同じ部屋に泊まっていると思い込んでいたから。しかしエレベーターでのリライの言葉を思い出し、部屋は別々なんだと思い直した。
 リライはベッドの枕元に置いてあったビニール製のスポーツバッグを引き寄せ、自分の横に置いた。そしてバッグの横に付いているポケットから葉書サイズの紙を一枚取り出し、僕に渡した。
 しわくちゃの紙に不思議な絵が描かれていた。じっと目をこらさなければそれが絵だと判断できないくらいだ。砂浜から見える海が描かれていたが、砂浜、海、空、すべてが紫色だった。それらは微妙な濃淡の違いで描き分けられていた。紫の砂浜には裏返しにしたキノコを押し潰したような形の黄色い花らしきものが咲いていた。紫の空には月かUFOか分からない白い楕円形のものが胡麻ほどの大きさでポツンと浮かんでいた。良く言えば、現代のシュールレアリスムの絵画のようにも見えた。
「その絵葉書はナツミがあなたに送ろうとしていたものです」とリライは言った。
 そう言われて裏を返すと、僕の名前と僕が住んでいた学生マンションの住所が書かれていた。久しぶりに夏美の字を見た。
「ナツミはそれを出しにポストまで行こうとしてるとき、トラックにはねられました」
 僕は瞬間的にリライの青い瞳を見た。リライの表情から微笑みが消えている。
「その風景はナツミが実際に見たものです。私も見たことがあります。そしてあなただって見ることができます」
「トラックにはねられたんですか? 夏美は」
「はい」
「今日?」
「いいえ」
「じゃあ、いつ?」
「一ヵ月前です」
「一ヵ月前?」
「はい」
 僕は一週間前の夏美の元気そうだった姿を頭の中で確認した。
「……じゃあ、それほど大した怪我じゃなかったんですね」
 リライは何も答えず、僕の目の奥を覗き込むように見つめている。
「沖縄には特別な唄があります」
 リライはそう言うと、スポーツバッグに手を伸ばした。
「白装束を着た中年の女性が唄うのです。誰でも唄えるわけではありません。その人にしか唄えません」
 リライはスポーツバッグのチャックを開けると、赤いラジカセを取り出した。カセットテープ一本とラジオしか聴けない、ソニー製の古いタイプのラジカセだった。リライはそれを自分の膝の上に置いた。
「私は大学の留学生として沖縄にやってきました。その頃私は、自分が思春期にいる少年にしか性的な興味が湧かないことにすごく悩んでいました。あるとき、そのことを打ち明けていた現地の友人が『不思議な唄があるから』と言って、その女性のところに私を連れて行ったのです。そこは普通の民家でした。中に入ると畳の部屋に簡単な祭壇のようなものが置かれており、その前に白装束を着た女性が座っていました。私はよくわけが分からないまま、その女性の後ろに敷かれた座布団に座りました。女性は祭壇に向かって唄い始めました」
 僕は無性にタバコが吸いたくなった。しかし胸のポケットにあったのはクシャクシャになった空のパックだけだった。
「私は彼女の唄を聴いて、気が狂いそうになりました。実際狂っていたのかもしれません。最初に彼女の唄を、あるいは彼女の声を聴いた瞬間、太い矢が脳味噌の中心を貫くような衝撃を受けました。それからだんだんと頭の中で固まってるものが、ゆっくりと取り外され、溶かされていくような感覚に陥ったのです。頭の中で小さな波が起こっていました。しかし彼女の唄が進むにつれて、それはだんだんと巨大な津波に成長していきました。防波堤は打ち崩され、しまいに波は渦を巻き、荒れ狂いました。ひどく体が熱かったのを覚えています。私は自分でも知らないうちに頭をかきむしり、畳の上を悶え回る状態になっていました。私はそこらへんにあったタンスや襖や机を蹴飛ばしていました。友人は私の後ろから腕を回し、あまりにも激しく暴れ回る私を押しとどめようとしてくれました。しかしそれでも私は友人の腕の中で必死にあがいていました。友人の腕には私の涎がついていました。私は友人の腕の中で何かわけの分からない言葉をずっと呟いていたようです。そのあいだ女性は私の方を見向きもせず、ただ一心不乱に祭壇に向かって唄い続けていました」
 リライはそこまで話すと、ラジカセのイジェクトボタンを押して、中のテープを確認した。僕はその動作を見ながら、ビールを多く口に含んだ。
「唄が終わると、私は横たわったまま、しばらく放心状態になっていました。嵐が去ったあとの砂浜に一人打ち上げられたみたいにです。とても静かでした。空は深い緑色で、海は真っ黒、砂浜には見たこともない奇形の植物が生えていました。地平線には火の玉のように燃えさかる太陽が少しだけ姿を見せていました。どこか遠いところからゴオオオオという低い音がずっと聞こえていました。そういう風な映像をしばらくの間私は見ていました」
 部屋は何故かいっこうに涼しくならなかった。僕は胸を伝う汗を服で拭った。エアコンの作動している音が空しく響いていた。
「それから私は何度かその女性の家に通いました。そして同じように唄を聴き、同じようにのたうち回り、同じように映像を見ました。しかし回を重ねていくと、次第に唄を聴いても苦しみのたうち回ることはなくなっていきました。その代わりに心地よい解放感のようなものが心を満たしました。私はその唄を録音させてもらい、毎晩寝る前に聴くことにしました」
「それが超能力なんですか?」と僕は思わず訊ねた。
リライは頷き、「私はそう名付けました」と答えた。そして「そのテープをナツミにも聴かせました」と言った。
「夏美に?」
「ええ」
 リライはラジカセの再生ボタンを押した。
 最初、お経のようなものが流れた。坊主のような野太い声がわけの分からない言葉を唱えていた。その低い声は地下の暗闇を徘徊するように長い間唸っていたかと思うと、突然地面を貫き高音域に跳ね上がった。その瞬間僕の鼓膜をアイスピックのようなものが突き刺すような痛みが走った。血管が切れたように頭がジワッと痛くなった。高音になった声は鳥がゆっくりと空を飛ぶように、単音を引き伸ばしながらメロディーらしきものを形作っていった。僕は鳥に乗ってみた。空は澄みきっていて、雲一つなかった。目下には巨大なコンピューターの基盤がどこまでも広がっていた。それは東京だろうと僕は思った。鳥は緩やかな昇降を繰り返しながら、僕を遠くへ運ぼうとしていた。風は遊ぶように僕の体にまとわりつき、別れを惜しむようにすり抜けていった。「私が沖縄で初めてナツミと出会ったとき、ナツミは廃人のようにボロボロの状態でした」というリライの声がした。しばらく空の散歩を楽しんだ後、鳥は急激に下降し、ビルとビルの合間を縫うようにして飛んでいく。「その夜、ナツミは公園のベンチにもたれ掛かるようにして、倒れていました」ビルの窓から中を覗いた。「彼女の服には泥がたくさん付いており、手や肘にたくさんのすり傷がありました」僕の母親がレジを打っていた。「よく見ると彼女の腕には注射をした痕の青い点々がついていました」違う窓を覗くと、定食屋の店主が漫画を読みながら女房を怒鳴りつけている。「ナツミはドラッグの打ちすぎで衰弱しきっているようでした」その奥ではスーツ姿の男が熱心にテレビを見て爆笑している。「私は救急車を呼び、一緒に病院へ行きました」向こうのビルの屋上から何かが落ちた。鳥は急速にスピードを上げ、落ちゆく何かに近づく。僕は鳥の体をグッと掴んだ。鳥の筋肉は鉄のように固くなっている。「病院でナツミは家には帰りたくないと私に訴え続けました。住所も電話番号も教えようとしません」落ちていこうとしているのは聖書を持ったロングコートの女の子だった。彼女は泣きながら落ちている。「仕方ないので私はナツミを自分の部屋に連れて帰りました」女の子が地面に落ちるのと同じスピードで、鳥はその横を一緒に落ちた。彼女は鳥に気付くと優しく微笑みかけ、鳥に手をかざそうとした瞬間アスファルトに脳味噌をぶちまけた。「私はナツミから色々と話を聞きました」彼女の脳味噌の匂いを嗅いでいると鼻血が流れ出た。鉄の味だ。鳥の体が僕の血に染まっていく。「なぜ沖縄に来たのかとか、それまでの沖縄の生活のこととか、もちろんあなたのことも」周りを見渡すと四方を巨大なビルが取り囲んでいた。「ナツミが求めてるものが私には分かりました」鉄の壁だ。「私はまず彼女からドラッグを引き離そうと、できるだけ彼女の側にいて、食事と睡眠をしっかり取らせるようにしました」叫び声が聞こえる。地の底から。「次第にナツミは回復していきました」一人ではない。何万人、何十万人の叫び声がアスファルトの底から湧き上がる。「私はナツミにテープを聴かせることにしました」遠くの空でピカッと大きな閃光が走った。僕は手をかざし空を見上げる。「ナツミもまた私と同じように悶え苦しみました」数秒時が止まった後、大地を打ちつけるような衝撃音と共に爆風が吹いた。「ナツミは『お母さん!』と何度も叫びました」信号機が飛び、植木が飛び、車が飛び、自転車が飛び、ミッキーマウスが飛び、猫が飛び、電車が飛び、ピンクサロンの看板が飛び、樹木が飛んだ。「それから毎晩、私と一緒にそのテープを聴くようになりました」巨大な手が地面を押し上げるように僕の立っている場所がモコッと盛り上がった。亀裂が走る。「次第にナツミはよく話すようになり、よく笑うようになりました。アルバイトも始めました」地面から木の根のような腕が何十本も伸び、僕の体をしっかり掴まえた。 「ナツミは自分の感じたことを素直に体の隅々にみなぎらせることができました」腕は凄まじい力で、凄まじい数だ。腕をふり解こうとする僕の腕を新たな腕が掴む。「私達は一年近く一緒の部屋に住みました。性的な関係は一切ありませんでしたが、本当に満ち足りた時間だったと思います」腕は僕を地中深くに引きずり下ろそうとしていた。「しかしある日から、いつまでたってもナツミは部屋に帰ってきませんでした」僕は必死に鳥に助けを求めた。「アルバイト先にも連絡しましたが全然姿を見せていないということです」鳥は凝固した僕の血に閉ざされて死んでいた。「しばらくすると新聞で、米軍基地の塀の上で女の死体が発見されたというニュースが載りました」無数の腕は僕を暗い地中へと引きずりこんだ。「激しい雨が降っていた夜のことです。不発弾を積んだ自衛隊のトラックが雨の夜道を走っている途中、女をはねたということでした」叫び声を上げながら暗闇の中を落下していた。ずっとお経のようなものが聞こえてくる。「女の体はそのまま跳ね上がり、側にあった米軍基地の塀の上に落ちました」お経は次第に波音に変わっていった。「銃を構えた米兵が発見したときには、女の体は鉄条網に絡まって血まみれだったということです」静かな波の音だ。「女の腕には注射の痕がついており、解剖の結果、致死量に近い覚醒剤が検出されました」海は沼のような濃い緑色をしている。「私は警察に行き、女の死体を確認したところ、それはナツミでした」灰色の砂浜で、小さく白い花が所々に咲いていた。「ナツミの体は傷だらけでした」澄みきった水色の空の中で、黒い太陽が黙々と燃えている。遠くの地平線の上を新幹線が走っている。「ナツミの手にはその絵葉書が、最後までしっかりと握られていたようです」僕はずっとそんな映像を見ていた。

「……大丈夫ですか?」
 その声に意識がうっすらと目覚めた。僕はベッドの上に倒れ込んでいた。白い天井がぼやけて見える。起き上がろうとしたが体は動かなかった。まったく力が入らない。
 誰かが僕のベルトをはずそうとしているのが分かった。僕はアメリカ人がいたことをぼんやり思い出した。アメリカ人は僕のズボンを脱がし、パンツを膝まで下ろした。
「可哀そうに。どこに行っても救いなんてありません」
 アメリカ人はそう言うと僕の性器を口に含んだ。その感触で僕は自分が勃起していたことに気付いた。アメリカ人は僕の脚を両腕で抱きしめ、首を動かし舌を動かしながら僕の性器を舐めた。僕はその行為に身をまかせ、最後にアメリカ人の口の中へ射精した。そのとき顔を下に向けると、股間にある顔が一瞬夏美の顔になった。同窓会で再会した、あの夏美だ。
 アメリカ人は立ち上がり、ティッシュの中に僕の精液を吐き出した。そして床に落ちていた絵葉書を拾い上げ、ラジカセからカセットテープを取り出すと、その二つを重ねて僕の手の上に置いた。
「どうぞ持って帰ってください。私はこの二つをあなたに手渡すために東京に来たのです」
 僕はまるで他人の腕のような、力の入らない手でそれを握りしめた。

(2001年作)


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