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いずれ嫌いになる(第6回)

 カスタムボウルの定休日は毎週月曜日だった。繁華街から少し離れた、どちらかというと学校や住宅が多い立地ではあるのだが、儲けは決して少なくはなかった。学生や家族連れが手軽な娯楽を楽しむ場として集まり、休日になると二階から四階のレーンは混雑して、五階にあるビデオゲームコーナーは高校生や中学生の溜まり場になっていた。
 五月十日、夜の八時。店内の照明はすべて落とされていて、二階の待合スペースの電灯と非常口を示す緑の光だけが無人のレーンを薄暗く浮かび上がらせていた。各レーンの十本のピンはゲーム終了時のままピンセッターに上げられていて、底の白い部分だけが前歯のように覗いている。その上の巨大な広告スペースには「カスタムボウル」と赤い文字が浮かんでいた。
「ここの娘やねん、私」
 入口の前でトウコはそう言った。観覧席のソファに腰を下ろし、持ってきたギターを脚のあいだに挟みながら、ワタルはトウコが戻ってくるのを待っていた。ボウリングをやったこともなければ、ボウリング場に来たのも初めてのワタルにとって、そこはひどく奇妙な場所に思えた。ビルの中にある板張りの広々とした空間。その先には大きく開いた口がいくつも並んでいる。そして大勢の人がそこに向かって慎重に重たい玉を投げこむのだ。ワタルの前にある鉄製の棚には、様々な色の玉が整然と並べられていた。オレンジ、緑、青、赤、黒……。自分ならどの色を選ぶだろうかなどと想像しながらも、ほとんど明かりのない空間ではそれらはすべて同じように見えた。スポーツに使用する道具というよりも、いろんな動物の頭骨を寄せ集めた標本みたいだ。ワタルはいつもポケットに入れている音叉を取り出して、Aの音を耳に近づけた。広く静かな薄暗い空間の中で、その音はいつもよりも長く彼の耳元にとどまっていた。
 ハンカチで手を拭きながら、トウコがトイレから戻ってきた。タイトなジーンズを穿いて、胸の上に林檎のマークがプリントされた長袖のTシャツを着ている。私服の彼女は高校生ぐらいに見えた。「私のお父さんが昔プロボウラーで、ここの店長として引き抜かれてん」
「じゃあ毎日ボウリングやり放題だね」
「やらへんよ、ボウリングなんか」トウコはガラスケースに立て掛けていた自分のギターを手に取って、ワタルのとなりに腰を下ろした。ガラスケースの中には、過去にカスタムボウルで行なわれた試合の写真や記念トロフィーが丁寧に飾られている。トウコはギターを抱えると、面倒くさそうにガラスケースを見上げた。「昔から嫌いやったわ。みんな同じようなフォームでボールを投げて、喜んだり悔しがったりしているのを見てると、なんかすごい阿呆くさい光景に見えてくんねん。それにもっと小さい頃は、いつもゴオオオオオッていう重たい音が一日中響いてたから、なんかすごく怖かった。お父さんは何とか自分の娘にもボウリングをさせようと、わざわざボールなんかを作って触らせようとしたけど、私はお母さんの後ろに隠れるばっかりやったわ」
「ふうん。大阪人が通天閣に上らないのと同じことかな」
「どうやろ。ちょっと違う気がする」トウコは短い前髪をわけながら笑った。高い笑い声が暗いレーンの奥まで響く。「え、通天閣に行ったことないの?」
「ないよ。見たこともない」
「へえ。めずらしいね。私なんか行くとこがないときは、とりあえず連れて行かれてたわ。そういえば大阪弁も話さへんし」
「うん」ワタルは脚に挟んでいたギターを脇に抱えた。そして弦の上に指を這わせ、音を出さずに動かした。「もう長く使ってないね」
「それは、わざと?」
「うん。わざと」ワタルはレーンの果てのぽっかり開いた口を見た。
「ふうん。大阪弁が嫌いなんや」
「さあ、どうだろう」ワタルはフレットの上を音もなく移動している自分の左手に目をやった。「大阪弁が嫌いなのか、大阪弁を話す大阪人が嫌いなのか、正直言って自分でもよくわからない。でも自分っていう人間と、大阪弁を話すような大阪人とは、どこか決定的に違うような気がする」
「なるほど」トウコは一弦ずつ小さく鳴らしては、チューニングペグを注意深く回していた。「でも大阪人の中にもいろんな大阪人がおると思うけど」
「確かにいろんな人がいるね。大阪弁以外の言葉を話してる人間を頭から憎んでいる奴もいる」
「でもやっぱりちょっと不自然なんじゃないかな」トウコは最後の一弦のチューニングを終えると、Cのコードをじゃらんと鳴らした。「大阪で生まれて、大阪で暮らしてるんなら、やっぱり大阪弁を話すのが自然なことじゃないかな。そこを無理やり別々にして、大阪人と違う人間になろうとしたって、やっぱりなんか不自然な気がする」
「でもボウリング場の娘がボウリングを好きでいる必要もないだろう」
 短い柔らかな髪を揺らして、トウコはまた笑った。彼女の笑い方には森の中でリスを見つけたときのような明るさがあった。
「あんね、私の名前って、ボウリングのピンから取ってんて。ほら、ピンって十本あるやんか。だからトウコ。阿呆みたいじゃない。はじめてそれ聞いたとき、ものすごく腹が立って、自分がボウリング場の娘として生まれたことを激しく呪ったわ」
「もし不自然なことだったら、ツケはまわってこないのかな」
「ツケ?」
「君も僕も、生まれたときにあったものから逃げてきたツケ」
「さあ、どうやろ。でもそんなことまでは考えんでいいんちゃうかな、ワタルくん」トウコはおどけるように眉毛を上げた。「でもここでギターの練習するのは好きやわ。だって音がめっちゃ響くねんから」
 無人のフロアは、無人であることをことさら強調するような静寂に支配されていた。まるで何百年も使用されたことのない地下深くの核シェルターにいるような静けさだった。ひんやりとした空気が漂い、奥の方まで広がるレーンはわずかな光も見逃さずに反射させていた。そして二人の中学生の、小さく途切れがちな会話に黙々と耳を傾けていた。ときどき暗い隅の方から、何か固いものが擦り合うような物音が聞こえた。そのたびに二人の会話は止まり、音がした方に目を向けた。だがそこに何が潜んでいるのかはもちろんわからなかった。
 トウコは『アデリータ』を弾いた。ワタルの知らない曲だったが、その腕前は自分と同じぐらいかなと、トウコの指使いを見ながら彼は思った。自分より上手なところもあるし、自分より下手なところもある。たぶん自分と同じぐらい上手で、自分と同じぐらい下手なんだろう。それよりもワタルの気を引いたのは、彼女がギターを弾いている姿だった。自分と同じ年頃の者がギターを弾いているところを見るのはそれが初めてだった。トウコは少し股を開き、そこでギターのボディの大きく膨らんでいるところを支え、首を右に大きく傾けていた。そして赤子に母乳をやる母親のように左腕の中で横たわるギターに顔を近づけて親密そうに見つめていた。トウコが演奏しているあいだ、ワタルは彼女の姿をめずらしそうに眺めていた。
 トウコが弾き終えると、次にワタルが『アルハンブラの思い出』を弾いた。トウコが見ているせいか、ボウリング場という場所のせいか、途中でつっかえたりしていつもと同じように弾けなかった。その後、ワタルとはトウコは二人で『アルハンブラの思い出』を弾いた。「自分の下手さには目をつぶるのがコツ」とミドリカワ店長は言っていた。ワタルは自分の下手さに目をつぶり、トウコの下手さに目をつぶった。二人の爪弾くつたない音色は無人のボウリング場のすみずみに澄み渡っていった。
「どれぐらいレッスンに通ってたの?」ワタルは訊ねた。
「半年ぐらいかな」トウコは答えた。
「なんで潰れちゃったんだろう」
「さあ。はっきりとしたことは何も教えてくれへんかったけど」
 ワタルはポケットに手を突っこんで、音叉に触れた。それはいつも冷たく、彼の指が伸びてくるのをじっと待っている。「あの男の人ってどんな人なのか知ってる?」
「男の人?」
「たぶん店長の息子だと思うけど」
「そんな人、おったっけ」
「ほら、いつもレジに座ってた」
「見たことないな。私のときはいつも店長一人やったから」
 ワタルはそれ以上訊ねるのをやめた。そのかわりポケットの中の音叉を強く握っていた。
 
 毎週月曜日の夜、ワタルはギターを背負って夜のカスタムボウルを訪れた。授業が終わった後の夕方でも良かったのだが、夜の方がなんとなく音の響きがいいねんとトウコは言った。トウコとは学校にいるときでもよく話すようになった。クラスが違うのになんでそんなに仲いいねんとまわりが囃し立てたが、トウコもワタルも特に気にしたりはしなかった。結局三年間同じクラスになることはなかったが、二人とも自分のクラスメイトよりも互いと一緒にいる時間の方が多かった。
 その日、放課後の廊下をワタルは一人で歩いていた。中学三年の進路相談がおこなわれていた時期で、ワタルの面談が終わったときには四時を過ぎていた。ワタルは公立の工業高校に進学することを考えていた。本当はすぐにでも働くつもりでいたのだが、その歳でいまの世間に飛びこむのにはいくら何でも条件が悪すぎると担任に諭された。それよりももっと学力が上位の進学校を狙ってみないかと担任は勧めてきた。ワタルの成績は学年で十位に入るほど高かったし、いまの調子で高校でも頑張っていけば偏差値が高い国立大学も射程圏内に入るだろうと言った。しかしワタルは決して首を縦に振らなかった。彼がひたすら歴史の年号を憶えたり方程式を解いたりしていたのは、学校という退屈な場所ではそれぐらいしかすることがないと考えていたからだった。それさえしていれば誰も文句を言ってこない。休み時間になると、教室という箱の中から早く飛び出したいと思いながら、窓枠に肘をついて外を眺めていた。トウコと話すとき以外は、チャイムの音も、クラスの話し声も、グランドから聞こえるクラブ活動の掛け声も、彼にとってはたんなる背景にすぎなかった。
 その日の夕方の廊下、ワタルの前から歩いてきた少年も、彼にとってはすでに背景と化していた人物だった。それはワタルと同じ小学校の出身で、かつてワタルを取り囲んで殴ったり蹴ったりしていた連中の一人だった。
 ワタルは目を合わさずに、そのまますれ違うつもりだった。窓の外からはテニスボールをゆっくりと打ちあう平和で退屈な音が聞こえていた。だが前に進むにつれて、スニーカーの踵を大股で引きずる足音も大きくなってきた。短く刈りこんでハードジェルで一本残らず立たせた髪、病人みたいな白い肌、神経質なほど綺麗に整えた眉、細くつり上がった目はワタルの全身を舐め回している。
 すれ違いざま、ざらざらした声が耳元で響いた。
「おまえ、あの女とやったんか」
 かつて自分を取り囲んでいた風景が一瞬に思い起こされた。その目に見えない壁を突破したくて立ち向かっていったのだ。今度も同じだった。いつのまにかワタルは相手を廊下に押し倒し、その腹を蹴っていた。相手は体を海老のように折り曲げ、両手で腹を押さえている。ワタルは馬乗りになり、相手の顔面を力ずくで上に向けて拳で殴りつけた。相手は両手で顔を防御している。しかしかまわずワタルは殴り続けた。骨が固い。後ろで相手の足がばたばたと宙を掻いているのがわかった。しかしそれでも殴り続ける。ふと、相手がサトルと呼ばれていたことを思い出した。なぜそんなことを憶えているのか。記憶のファイルから呼び出されたのはそれだけだった。そのときの自分の姿が、丸まった母親をいつまでも殴り続けていた父親とそっくりだということにも気づかなかった。やがて血が噴き出す。それは相手の血であったし、ワタル自身の手から流れ落ちた血でもあった。彼はいつのまにかポケットから取り出した音叉を熊の爪のように握って、相手をさらに殴り続けていたのだった。
 廊下には誰もいなかった。冷たいコンクリートの上に横たわっている相手を後にして、ワタルは足早にその場を立ち去った。奥歯ががたがた震えている。必死に抑えようとしても抑えきれない。それは『アルハンブラの思い出』をはじめて聴いたときの震えと少し似ていた。

(7へ続く)

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