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いずれ嫌いになる(第7回)

 レッスンが終わり、店のシャッターを閉めた後、ミドリカワ楽器店の店長は台所で夕飯の準備に取りかかっていた。蛇口から流れ落ちる水の音を聞きつけて、ユウジが顔を見せた。
「なんやねん、あれ」
「あれって何がや」流しの下の戸から雪平鍋を取り出そうとしている母親が振り返る。 
「でかいボールや。あんなもんいつのまに俺の部屋に置いてん」
「なんやそれ。知らんで。こっちは何も触ってないで」
「ほんなら誰かが投げ入れたっていうんか」
「どんなボールやの」
「ボウリングの玉や。誰がどう見たって」
「ボウリングなんか、やったこともないわ」
 母親はそれ以上何も言わず、鍋に水を入れ、火にかけた。ごみ袋に入れて捨てるからなと言っても、何の反応も示さなかった母親にユウジは苛立ちを覚えた。押し入れを開けて、黒いビニールのごみ袋を何枚か手当たり次第に掴んで、自分の部屋に戻ろうとした。だが折り畳まれたごみ袋を乱暴に広げながら、なぜ自分は母親のことを疑ったりしたんやろうと、ふと手を止めた。なぜ母親がわざわざボウリングの玉なんかを自分の部屋に置かなくてはいけないのか? それになぜそれはボウリングの玉なのか?
 大学生の頃、ユウジは一度だけボウリングをしたことがあった。ゼミの懇親会で、居酒屋で食事をした後に近くのボウリング場に行くことになったのだ。結局彼は三ヵ月も経たないうちにゼミに出席しなくなり、他の学生たちとはほとんど何の交流も持つことはなかった。だがそのときの光景だけはよく憶えていた。全身のどこにも運動神経を備えていないと断定していいユウジが、ボウリングの初心者にしてはまあまあのスコアを出した。ただのビギナーズラックかもしれない。だが十二ポンドの黒く硬質の玉を何もないところへ力の限り転がすという行為は、彼に新しい快感を呼び起こさせるものであった。他の者たちはピンが倒れるたび大げさに喜んだり悔しがったりした。そして喧噪の中で煙草を吸ったり、会話に夢中になったり、ジュースを飲んだり、電話をかけたりしていた。ユウジは一人、ボールを投げるたびにコツを掴もうとしていた。そして三ゲーム続けた結果、彼の平均得点は参加者たちの中で二位になった。「なあなあ、ミドリカワくんてな」と黒縁の眼鏡をかけた背の低い女の子が声をかけてきた。「なんかすごい危なっかしい投げ方してるよね。体がひょろ長いからボールの方がミドリカワくんの方をどっかに投げ飛ばしてしまいそうやわ。なあ」と友達に笑いかけた。ユウジは何も答えず、そのままボールを投げ続けた。彼が気づいたのはその翌朝だった。たかがゼミの懇親会でなぜ自分はあんなにボウリングに夢中になってしまったのか。他人より少しスコアの点数が良かったからといって、一体それが何になるというんや。実際、連中が興味を持っていたのはスコア争いよりも、俺の変なフォームやった。俺の変なフォームを見て笑ってたんや。
 そういった昔の嫌なことをユウジはつい思い出してしまう。子供の頃の嫌なこと、学生時代の嫌なこと、三人でバンドを組んでいたときの嫌なこと、街を歩いていたときの嫌なこと。どれも一日経てば忘れてしまうような些細なことだ。実際にそのときもすぐに忘れてしまう。だが何カ月後、何年後、それは彼の記憶の奥底にへばりついていた汚れのように、水面にふっと浮き上がってくる。そしてそれがまだそこにあることを認識させられる。
 そんなときユウジは声を出す。低く短い、言葉にならない言葉を呟く。それでへばりついた汚れを切り離そうとする。たとえば一人きりのエレベーターの中で呟いたりする。自分で呟く言葉を耳にして、俺は何かの病気かもしれないと思うこともあった。
 自分の部屋の襖を開けながら、ユウジはやはり何かを呟いた。あのゼミの連中はいま頃どうしているんだろう。どこかの会社でネクタイを締めて働いているのか、それとも結婚して子供にブランド物の洋服を着せたりしているのか。それぐらいしか思いつかない。たぶんそれぐらいのことだ。そんなことは自分が想像する筋合いのものじゃない。
 彼は目の前の、自分の部屋の世界に戻ろうとした。だがそこは何かが違っていた。台所に行く前の自分の部屋と違っている。違っていたのはやはりボウリングの玉だった。窓際に立て掛けている姿鏡の前にあったはずのものが、開けた襖の先にぶつかっている。さっきまで畳の上にあったものが、今度はマーシャルのアンプに寄り添うように移動しているのだ。
 移動している?
 エアコンの冷風で転がるわけがない。老朽化で家が傾いているとしても、重たい玉が転がるほどではない。だがそれは確かに六畳の部屋の端から端まで移動していた。まるで一つの場所にじっとして、気が向くとゆっくり位置を変える老いた飼い猫のように。指を入れる三つの穴はユウジをじっと観察するように見上げている。
「れのもんか!」ユウジは小さく吐き捨てる。まるで俺のものみたいじゃないか。彼はボウリングの玉と目を合わせながらそう思う。
 台所では、洗い物を終えた母親がテーブルの上で売上と経費の計算をしていた。あいかわらず彼女の体調は優れなかった。食べる量を減らし、夕飯を食べた後に毎晩ウォーキングを続けてみたが、病院で計る血糖値は上がることはあっても、下がることはなかった。荷物を運ぼうとすると足の指先がしびれ、目も霞むようになり、体を動かすと濡れた材木になったような疲労感に襲われた。何種類もの薬を服用して、なんとか体調を維持しているものの、いずれ自分も夫のようにベッドの上での生活になるのだろか。そう思うと、何もかも投げ出したくなることがあった。
「ちょっと出るから。鍵閉めといて」
 廊下から息子のぶっきらぼうな声がする。息子とはもう一緒に食事をすることもなくなっていた。わざと食べている時間をずらし、先に食器を洗っているところへ、息子が居間にあらわれる。そしてテレビを見ながら、掻きこむように食べ、すぐに自分の部屋に戻ってしまう。
「さっきのはどうなったんや」壁越しに母親は声をかけようとする。
「さっきのって」さっさと出ていこうとするのを引き止められた苛立ちが声に混じる。
「ボウリングがどうのこうのって言ってたやんか」
「別に」
「別にって。そのボールって、どこにあったんや」
「それはもうええねん。もうわかったから」
 階段を乱暴に下り、裏のドアを閉める音が聞こえる。母親はテーブルに頬杖をつき、片方の手でこめかみを強く押さえる。私に何かあったらあの子はどうなるんやろう。それはいくら考えても答えの出ない不安だった。ときどきまだ中学生の息子を行く末を心配しているような馬鹿らしさもつきまとう。

 外の空気はまだ蒸し暑く、自転車のサドルにはまだ昼間の熱が残っていた。自転車のハンドルを操作するのにユウジは結構手間取った。交差点で曲がろうとすると、余計な力が加わって、ついバランスを崩してしまい、地面に足をついてしまった。学生時代に一度路上で演奏しようとしたときもそうだった。いろんな機材を自転車に無理やり積みこんで、綱の上を渡っているかのようにふらふらしながら大阪城公園まで向かったのだ。言い出したのは確かドラムだったとユウジは思い出した。でもあいつだけ結局来なかった。ドラムセットを車で運んでくれるはずのアルバイト先の後輩と急に険悪な仲になってしまったのだ。なぜか電話先のドラムも機嫌が悪く、それから何日経っても一言も謝ることはなかった。ユウジはハンドルをしっかり握り、地面に片足をついて、信号を待ちながら「かさっ」と呟いた。あのカスが!
 路上ではまだ大勢の人々が行き交っていた。道路を挟んだ向こう側ではスーツを来た自分と同じ歳ぐらいの男が立っている。男はこちらを睨んでいるように見えた。いくら車があいだを通り過ぎても、決して目を離そうとしない。青信号になり、ユウジは自転車を走らせた。男も歩き出した。すれ違う瞬間、ユウジは間近で男の耳をわざとらしく見た。そこには白いイヤホンの線が風に揺られてぶら下がっていた。男ははじめからユウジなんかより、小さな穴の中のポップミュージックだけを聴いていた。
 公園の柵を越えると、ユウジは四カ月前の夜にギターを弾いていた場所へ向かった。そこは定期的にマラソン大会が行なわれるぐらいの大きな公園で、敷地内には観客席付きの競技場や植物園も建てられていた。一定の間隔で配置された電灯が黙々と走り続ける夜の市民ランナーたちを照らし出していた。帽子やランニングシューズに貼られた蛍光シールが暗闇の中できらめき、そのあいだをユウジは自転車ですり抜けていく。そして「こすっ」と呟く。こいつらも結局俺と同じやろ。他に何もやることがない、だから走るしかないんや。穏やかな市民面をしてるけど、オナニーするしかない奴と同じやないか。彼はハンドルの扱いを徐々に覚えてきた。
 ベンチの前で自転車を停めると、前かごに入れていたアディダスのビニールバッグを取り出し、ベンチの上に置いた。そしてファスナーを開け、その中にあるものを確かめる。夜の闇のせいで、部屋の中で転がっていたときより黒の度合いを一層深めているように見えた。あるいは何かを待ち侘びているような深い沈黙を漂わせているようにも思える。ユウジは指穴に指を入れて、内部をえぐるように力を入れて持ち上げた。そしてそのままベンチに腰を下ろして、それを太股の上に置いた。ポンド数は最初からどこにも刻まれていなかった。だが彼の痩せた太股にのしかかる重量は相当なもので、大腿骨まで軋んできた。なんやこいつは。ユウジは少し笑みを浮かべながら、電灯が反射している球面をそっと撫でた。まるで妊娠でもしてしまったみたいやな。だがすぐに「ばかが」と吐き捨てる。馬鹿やろうが、童貞のくせになにが妊娠や。そうやって自分の状況をあたらめて憎む。
 縁側で猫と佇む老人のように、ボウリングの玉を太股の上に置いたまま、ユウジはバッグの中から小説を取り出した。ミシェル・ウェルベックの『闘争領域の拡大』。栞を挟んでいたページを開き、そばに立つ電灯の光だけで活字を追っていく。
 前を通り過ぎていくランナーたちが珍しそうにちらちらと彼に目を向ける。なんでこんな蒸し暑い場所で、なんでこんな暗い場所で本なんか読んでるんや。ちょっと頭がおかしいんか。公園にはいろんな人間がやってくる。ホームレスやトランペット吹きや幼稚な花火で盛り上がる学生たち。公園だからといって自分の好きなふうに振る舞っている連中。まともなのは私たちぐらいやないか。そうやってランナーたちはユウジの前を次々と通り過ぎていく。
 ベンチの後ろには一本の太い桜の木が立っていた。ユウジは本のページをめくりながら、ときどき背後を振り向き、夜空にそびえる木を見上げる。そこは四カ月前に彼が暴行を受け、ギターを奪われた場所だった。その夜、彼はその公園に来るつもりはなかった。できることならもう二度と来たくない場所だった。だがボウリングの玉をかごに入れて、ふらふらと自転車を走らせているうちに、なにか当たり前のようにその場所に辿り着いてしまったのだ。別にそこで何かをするつもりはない。ある程度時間が経てば、漫画喫茶あたりに移動するつもりだった。しかし自分の前を通り過ぎていく人々に何気なく目を向けているうちに、彼は突然ぱたんと本を閉じた。そして太股の上に置いていたものをバッグにしまい、かごに入れると、自転車にまたがってペダルを漕ぎ始めた。そのとき、彼の向かおうとしている先はあてのないものではなかった。通り過ぎる人々の中に、自分のギターを奪っていった男の顔を見たのだ。
 ぼさぼさの髪に、痩せこけた頬。そして機械油で黒く汚れたTシャツ。酔いながらなんとかまっすぐ自転車で走ろうとする男の背中を、ユウジは追いかけていった。相手のスピードが遅いので、できるだけ距離を取って、自分もゆっくりペダルを漕がなければならない。するとバランスを崩して、地面に足をついてしまう。それでもユウジは男の後をゆっくりと追いかけていった。追いかけるといっても何かをするつもりはなかった。ただ男の顔を目にした瞬間、俺はこいつを追いかけなければいけないという衝動に突き動かされたのだ。あのおっさんは俺のギターを奪っていった。そのかわりかごの中のものを俺は手に入れた。それはどういう意味や。そんなことばかりを考えながらユウジはハンドルを強く握りしめていた。
 公園を出て、しばらく国道沿いをまっすぐ走り、交差点を曲がって、バイパスの高架下をくぐり抜けたり、踏み切りで待ったりしながら、やがて男はコンビニの前で止まった。そして自転車から降り、ポケットに手を突っこんで、店内に入っていった。ユウジは店の前の電信柱の陰で止まって、サドルにまたがったまま男の様子を窺った。男は何の迷いもなく奥の冷蔵コーナーまで進み、冷酒の瓶を手に取ると、近くに陳列されているつまみの袋をいくつか取ってレジに向かった。おそらくこの店によく来てるんやろうとユウジは思った。買ったもののバーコードが赤外線に当てられているあいだ、男はレジの店員に何かを話しかけていた。店員は女で四十代前半ぐらいだった。細く小柄で、どこか愛嬌のある表情を浮かべている。男と目を合わせ、ときどき何かを話しながら、ビニール袋に商品をつめていた。まるで何年も付き合っている間柄、あるいは夫婦のような親密な雰囲気は遠いガラス越しにいるユウジにまで伝わってきた。ユウジは女の表情を見ながら、いつものように吐き捨てた。
「ろっか!」
 あの女、犯したろか。そう苛立ちながら、かごの中のものに手を触れた。

(8へ続く)

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