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いずれ嫌いになる(第8回)

 結局ワタルは工業高校の設備科に進んだ。家から自転車で二十分ほどの場所にある府立高校で、生徒はほとんどが男子だった。六クラスのうち一クラスだけ十人ほどの女子が在籍していたが、誰も彼女たちのグループに近寄ろうとはしなかった。工業高校に進学するような女なんかと誰もが蔑んでいたし、男同士で馬鹿な話をしている方がまわりに溶けこめる、そんな学校だった。
 ワタルの両親は学費が安いことと通学定期券の必要がないことに満足して、息子の進学について何も口を出さなかった。たとえ成績が良くても本人が希望しないのであれば別に進学校に行く必要はない。働きたければ働けばいい。父親はアルバイトでも始めろと言い、母親は設備の勉強をしっかりしておきなさいよと言った。そのときはまだ二人とも知らなかった。彼らの息子は一刻も早く高校の三年間が過ぎ去るのを望み、大阪という土地から早く離れたがっていた。
 高校生になっても、ワタルはカスタムボウルに通い続けた。トウコと一緒にギターを鳴らし合うことは次第に減っていったが、そのかわり二人の関係はより親密なものになっていた。トウコの通う私立の女子高は、昔から名高いカトリックの進学校で、有名人を何人も輩出しており、子供を外車で送り迎えする保護者もいて、学費も気安く口にできないほど高かった。もしワタルが共学の高校に進むなら、トウコも同じ高校にしようと思っていた。それがあたり前だと思っていた。しかしワタルが考えていたのは彼女とは別のことだった。
「普通科じゃ働き口なんてないだろう」プラスチックの椅子の上で脚を組みながらワタルは言った。
「そんなに働きたいの?」トウコは少し高い段の上に立って、ワタルを見下ろしていた。彼女の手はボウリングの玉に触れていた。声は少し強ばっている。
「うん。働きたいよ」ワタルは答えた。
「なんで? 何の仕事するの? 大学出た方がいろんな仕事があるんじゃないの?」
 冬の冷たいレーンの上でトウコの声はどこまでも反響し、やがて闇の奥に吸いこまれていった。
「何の仕事かまではまだ決めてないよ」ワタルは立ち上がって、トウコが触れているボウリングの玉に左手の指を入れた。そのときになっても彼はまだボウリングの玉を実際に投げたことはなかった。
「決めてないのに、なんで設備科なんよ」
 拗ねているようなトウコの言い方を聞いて、ワタルはらくだのように鼻の下を思いきり伸ばした。
「何それ。何してんの」
「こうやると鼻がよく匂うようになる。やってみなよ」
「変な顔やわ。何か匂う?」
 ワタルは動物のようにくんくんとトウコの顔に鼻を近づけた。「ボウリング場の匂いしかしない」彼はそう言い、肩まで伸びたトウコの髪に触れた。そしてそのまま静かに唇をつけた。
「三年経ったらまた考えるよ」ワタルはいつものように微笑んだ。

 その三年間、トウコはときどき不安になることがあった。別々の学校になったのだから仕方ないと思ってはいたが、ほとんど学校の話をしようとしないワタルに、ふとした孤独を感じさせられることがあった。工業高校でどんな勉強をしているのか、どんな先生がいて、どんなクラスメイトがいるのか。そしてどんな友達と付き合っているのか。そもそも友達がいるのかどうか。トウコが訊ねてみても、ワタルは断片的なことしか話さなかった。たとえば体育のハンドボールで同じチームになった生徒のことを話したとしても、その人物が出てくるのはそれきりだった。
 もしかしたら他に付き合っている女がいるかもしれないと疑ったこともあった。ワタルに人気があることは知っている。中学のときも自分がいることを知っているにもかかわらず、何人かの女子が彼に言い寄ってきた。でもワタルが動じることはなかった。自分以外の生徒とはろくに言葉を交わそうとしなかった。いまだって月曜の夜は決まって会いにきてくれている。ほとんど女子がいない工業高校で新しい出会いなんてゼロに等しいはずや。安心していいはずや。それやのに何にも繋ぎとめられていないような不安はなんやろう。自分の知らないところでワタルはいったい何をしてるんやろう。
 トウコの父親がワタルのことをあまりよく思っていないことを彼女は知っていた。たしかに落ち着いていて、礼儀正しい少年だと彼女の父親は言った。話し方もしっかりしている。だが本当のところでいったい何を考えているのか、腹の底がよく見えない。長年プロボウラーとして研鑽を積んできた父親は、物事を見定める自分の眼力に自信を持っていた。その世代の男の子というのはいろんな意味で不安定なものだよ。精神的にも肉体的にも。でも彼にはその不安定さがどこにも見受けられない。全然不安定じゃない。まるで冷たい鉄の柱みたいだ。大阪弁を使わないことを言ってるんじゃない。そんなことは表向きのことだ。わかるか、トウコ?
 もちろんトウコはわかっていた。わかっているからこそワタルのことが好きになったのだ。そんなこともわからずに自分のことを子供扱いする父親のことが嫌いだった。いつも自分の判断を至上とする父親が嫌いだった。大人はどうして自分が嫌われていることに気づかないのだろう。そんなときトウコはワタルに会いたくなる。そして同時に、出所不明の不安に襲われる。

 実際のところ、トウコ以外にワタルがセックスをした女は五人いた。
 高校に入学して、まず同じ学年にいる数少ない女子の内の二人とワタルは関係を持った。一人とは文化祭の係で一緒に行動するようになり、もう一人とは放課後の教室でどちらから声をかけることもなく話すようになった。二人とも口数が少なく、学校ではワタルと親しげにしようとしなかった。だがあるきっかけで互いにワタルと寝たことが判明すると、二人は教室でなりふり構わず激しい口論を交わした。その後、ワタルも二人と関わらなくなった。
 アルバイト先のビデオショップで知り合った二人の女とも同様のパターンだった。二人とも他に付き合っていた男がいて、ワタルとは軽い付き合いのつもりだった。だがそれぞれに隠していた関係が発覚し、付き合いがややこしく重たくなってくると、ワタルはビデオショップを辞めた。
 あとの一人は新今宮の駅前で声をかけてきた見知らぬ女だった。ふさふさの毛皮のコートを着て、忙しそうな素振りでいろんなことを立て続けに喋りながら、ワタルの手を引っぱってホテルの中へ連れていった。毛皮の下は、下着しか着けていなかった。
 ワタルはたまに彼女たちの前でギターを弾いた。ギターを弾く場面といえばそれぐらいだった。それも暇つぶしのために弾いているようなもので、積極的に上達しようという気持ちは彼の中からすでに失われていた。トレモロ奏法の動きも次第に均一ではなくなってきた。「本日のワンポイントアドバイス」とワタルは呟く。「いい演奏がしたいならセックスするな」。かつてミドリカワ楽器店の息子に言われたことが頭の片隅に残っていた。だがワタルにとってはそんなことなど、もうどうでもよかった。「セックスしたいならギターなんか弾くな」あの息子にそう言ってやりたかった。
 しかし複数の女と関係を持っているあいだでも、ワタルはトウコと抱き合うことが何よりも好きだった。毎週月曜日、何も問題のない日は必ず交わった。裸で抱き合い、手を繋ぎながら、小さな声で話をし、くすくす笑い合った。ワタルが少し動くと、トウコは敏感に体を硬くした。そしてまた笑う。これほど自分に近い距離まで近づいてきた人はトウコだけだとワタルは思った。誰もいない夜のひんやりとしたボウリング場で、ワタルはトウコの頭を抱えこむ。そして気づかれないように目を閉じる。もしかしたら自分と一緒に大阪を離れてくれるかもしれないとさえ思うこともあった。
 だがトウコは結局大阪の大学を受験することにした。何よりも一人娘が家を出ることなど父親が許さなかった。どこか品のある大学を出て、一部上場企業の事務職にでも就き、そこで将来有望な青年と結婚させるのが父親の見定めたコースラインだった。そしてトウコ自身もたぶんそれが自分の現実的な人生なんだろうと薄々感じていた。中学生のときはプロのギタリストとまではいかなくても、何か音楽関係の仕事に就けたらいいなと漠然と思っていた。自分の中には他人と違うものがあるはずだ、そう信じていた。だが成長し、ワタルの存在が彼女の中に自然に溶けこみ、彼の腕に抱かれていると、そんなことは次第にどうでもよくなってきた。「大阪で働いてよ」とトウコは何度もワタルを説き伏せた。しかしワタルはいつものように微笑んでいるだけだった。やがて彼が自分のもとを離れていくことをトウコは予感していた。
「なに勝手なことぬかしとんねん」
 ただ一人、ワタルを罵倒したのは彼の父親だった。その夜も父親は酔っていた。「いままで親のもとで食わせてもらってきたのに、なにが出ていくや」
 ワタルは居間の壁にもたれて、立てた片膝を両手で抱えていた。そして丸めたスポーツ新聞を手にしている父親の顔をじっと見つめていた。
「でも、もう決めたことだから」
「そんなもん誰が認めるか」
「別に誰かに認めてもらう必要なんかないよ」
「おまえはこの家の長男やねんぞ。長男が家におらんでどうすんねん」
「長男」ワタルは小さな声で繰り返した。そのときはじめて自分が長男だったということを知ったみたいに、ワタルは父親から視線を外した。だがすぐに、あいかわらず職場を転々とし、母親を毎日働かせている父親がそんな仰々しいことを口にしていることに可笑しさを覚えた。
「長男は家を継がなあかんもんなんや」
「家を継ぐって、ここは借家だろう」
「偉そうなことぬかすな!」父親は丸めた新聞で思いきり机を叩いた。「親の気も知らんと、自分一人で大きなった顔すんな」
 手を出そうとするのを必死で抑えている父親の表情をワタルは注意深く見ていた。
「仕送りはちゃんとするつもりだから」
 そんなふうに父親と言い合うのは久しぶりだった。普段は何か用があれば母親に言っていたし、父親と二人で話をすることなどほとんどなくなっていた。いつもテレビに向かってぶつぶつと文句を言っているだけの男。ワタルはあえて母親が夜勤の日を選んで、父親に打ち明けることにした。案の定父親は立ち上がり、ワタルに近づいてくると、十年ぶりぐらいに息子の頬を打った。しかしワタルはやり返そうとせず、再び父親の顔を強く見上げた。最初の一発でたがが緩んだのか、父親は立て続けに二発同じ頬を打った。
「おまえは薄情や。昔からそうやったわ。結局俺らに後足で砂かけて出ていくねん」
 父親の目は赤く滲んでいた。酒のせいもあったかもしれない。ワタルは目をそらして、テレビの画面をぼんやり眺めた。
「好きにしたらええわ」父親は声をつまらせた。「でもええか、そのかわり二度と大阪に帰ってくんな」
「あのギター、やっぱり盗んだんだろう」
 そのことを言うつもりはなかった。父親は何も言わず、腰に手をついて立ち尽くしていた。やがて戸を勢いよく開けて、夜の中に消えていった。

まとわりつくものをすべて切り離したかった。大阪という場所はいつも自分にまとわりついていた。まるでうるさい蚊柱に包まれたように、そこにあるのが大阪なのか自分なのか次第にわからなくなる。そんな不快な状況からワタルはずっと抜け出したいと思っていた。ほんとうは臆病者たちの閉鎖された街。そんなところで窒息して死んでしまいたくなかった。
 母親は父親とそれなりにやっていくだろう。普段から言い争いをしているが、それでも基本的にはうまが合う者同士だ。合わないのは自分だけだ。俺は誰とも合わなかった。トウコとも結局別れることになった。そう思うと、急にトウコに対して憎々しさがこみ上げてきた。なぜ俺と一緒に行こうとしないんだ。なぜ大阪の大学なんかに通わなきゃならない。理由は自分でもわかっている。本気じゃないからだ。俺のことが本気で好きじゃないからだ。たぶんはじめからそうだったのだ。ただ俺が馬鹿だったから気づかなかっただけだ。それだけのことだ。
 卒業式を終えた後、ワタルは駅のごみ箱に卒業証書を捨てて、手ぶらになった。そして目的もなくJR環状線に乗り、本屋に行ったり、ゲームセンターに行ったり、ファミレスでパスタを食べたりして、いろんな場所をうろついた。
 日が暮れて、細かな雪が降りはじめた。
 いつのまにかワタルはミドリカワ楽器店の前に立っていた。そこはかつてミドリカワ楽器店であった場所だった。看板は取り外され、ショーウィンドウは空っぽで、錆びたシャッターには赤いスプレーで落書きされていた。ワタルはポケットに入れていた手を出した。そこにはいつもの音叉があった。それで片方の手首をぽんと叩き、球体部分を耳に近づける。冷たい金属音はいつも彼を孤独にしてくれる。音叉を耳にあてながら、金属音が聞こえなくなるまで、彼は空っぽになった楽器店を見上げていた。

(9へ続く)

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