髪をかきあげて竜巻 第一話
鳥の巣箱ほどの窓を開けると、今日という一日を思い知らせるような風が入りこんできた。こんなに細やかな風が今日は吹いていたのか。縫われた糸が音もなくほどかれるように一日の力が抜けていく。すでに空は赤く染まっていた。窓の下ではスーツ姿の人影が一つ、窮屈な歩道をとぼとぼと進み、その先では信号機が点滅している。ここ数日はずっと事務所にこもりっぱなしだった。紙メディアに掲載する広告を十パターンほどデザインソフトで作り続け、もう片方の手で月次の経理事務を処理し、それらの隙間を縫って顧客からのクレームに対応していた。十五インチのモニター画面と八畳ばかりの事務所の壁以外は目にした記憶がない。まだほのかに熱を持っているノートパソコンの電源を落とし、オフィスチェアの背もたれに深く身をあずけ、スマホで今日の日付と曜日を確かめる。疲れてはいたが、塞ぎこむような気分ではなかった。栞さんとの約束の時間にはまだ余裕がある。僕はしばらくまぶたを閉じて、今日を終わらせようとする風を静かに味わうことにした。
ついにオーナーから解放されたのは先月のことだった。会社員から独立してちょうど五年めのことだ。独立といえども一人きりの雇われ社長という立場であり、株を所有していたのは七十七歳で糖尿病を患っている爺さんだった。
しょせんサプリメントの通信販売なんて世間の隅でひっそりと営むような商売だ。毎月の売上から上納金を掠め取っても知れた額だし、大きなトラブルでも起きたらぺたんと傾く規模の会社である。出資金はすでに回収しているし、今のうちに手を引いた方が面倒なことに巻きこまれない、実入りが減った分は他の会社からの上納金を増やせばいい──若い頃から経営者として生き抜いてきた糖尿オーナーはたぶんそう判断したのだろう。「篠原、あとはお前の才覚一本で渡り合えるだろうよ」という糖尿オーナーのしゃがれた声に「まかせてください」と僕はスマホに向かって嘘臭く応えた。
糖尿オーナーはすべての株を僕に譲渡した。高齢で基礎疾患を抱えているという要因もあるだろうが、そう決断させるために僕としても手を打ってきた。たとえば売れ筋である鉄分補給サプリについては広告掲載の数をあえて増やさなかった。世の半数以上の女が鉄分不足であり、需要に比例して競合商品も多いが、実際ドラッグストアに並ぶ商品は低品質のものばかりだ。それらと差別化した広告をうまく作り、ニーズと合いそうな宣伝メディアを細かく選びさえすれば、ドラッグストアの安価な商品より雑誌やネットで見つけた高品質の商品を女たちに選ばせることができる。女性器の匂いを抑えるミストスプレーについても似ている。自分の性器の匂いを気にしていても対面店舗で買うわけにはいかず、ネットで注文するしかない。もし効果がなかったとしても、声高にクレームを付けるわけにはいかない。自分が赤面するだけだ。まさにネット通販向きの商品だろう。ただ、年代や趣味や閲覧履歴といった条件で潜在ユーザーを絞りこむターゲティング広告の配信はある程度控えることにしていた。顧客に送信するメルマガも減らし、郵送するダイレクトメールも必要最低限しか発注しなかった。中東情勢が不安定で紙代が高騰しているのでと説明すると、糖尿オーナーはふんと鼻を鳴らしただけだった。
僕は自分の望むように会社を運営したかったが、株をすべて譲ってほしいと糖尿オーナーに直接頼むのは逆効果だと考えていた。この会社はまだ稼げるのだ、手放すのは惜しいぞ、と糖尿オーナーの金銭欲が高まる可能性が大いにあった。それより芽はもうないと思わせ、毎月の売上から五パーセントを掠め取っている上納金も、いずれ右肩下がりになると見限らせることが有効だと考えた。
広告運用のギアをあえてトップに入れず、売上横ばいの低速状態を数年にわたり意図的に継続させた。なにも売上を自在にコントロールできる能力を持ち合わせているわけではない。どちらかというと水族館で静かに泳ぐ回遊魚に似ている。死なないために泳ぎ続けなければならないだけで、同じ場所をぐるぐる回っていればいい。多少の波はうまくかわしながら、水底によろよろと沈まないよう気をつけること。糖尿オーナーの目を欺き、いつか水槽の前から立ち去ってもらうために、僕は退屈な回遊魚として泳ぎ続けた。やがて糖尿オーナーは投資的興味を失い、譲渡手続きの書類をやりとりし終えると、互いに電話一本交わさなくなった。
風は吹き始めたばかりだった。事務所が入居するビルを出て、駅の方へ向かう。日はすっかり暮れ、春先のひんやりとした空気が鼻をくすぐる。このあたりは都心から離れているので、買い物袋を提げた主婦や塾に通う子どもを目にすることが多いが、駅に近づくとオフィスファッションに身を包む男女が道路を交差し始める。この街の中で自分はどういうふうに見えているのだろう、僕は人波を眺めながらそう思った。四十二歳の男が厚手のパーカーとジーンズに白いスニーカーを履き、リュックを背負って繁華街に向かおうとしている。たぶん窓の下で見た人影と同じように、どこにでもある風景の一部として通り過ぎていくだけだろう。あるいは見上げた雲の形を一瞬で忘れてしまうのと同じように。
待ち合わせのタイ料理店は駅のすぐ近くにあったが、その前に大型の百円ショップに立ち寄って、ストックが減っている会社の備品をいくつか買った。約束の時間に五分ほど遅れて店の扉を開けると、栞さんは丸いテーブルの席で頬杖をついていた。視線の先には象が刺繍された色鮮やかなタペストリーが飾られていたが、栞さんが見つめているものはもっと遠くにあるような視線だった。僕は遅れたことを詫びて、栞さんの前の席に座った。栞さんは微笑み、一人で考えていたことに区切りをつけるように長い髪をかきあげた。
「今日ね、猫のお葬式をあげたの」栞さんは静かに言った。
「猫」僕はおしぼりで手を拭きながら繰り返した。「ハルオのことですか」
「そう、ハルオ。前からほとんど動かなくなって、仏像みたいにずっとクッションの上で目を半開きにしてただけだったけど、ついに固くなっちゃった」
「そうか……淋しいですね」
「朝から仕事を休んで、もう全部済ませてきたんだ。卒業式のシーズンだからカットの予約が入ってたけど、申し訳なくキャンセルさせてもらったの。家に帰ってきたのがお昼過ぎかな。骨壷の置き場所がどこにもなくて、とりあえずこたつの上に置いてぼうっとしてたら、いつの間にかそのまま眠っちゃって、目が覚めたら夕方。だから何にも食べてないの」
おどけたように笑う栞さんに「そんな日にすみませんね」と僕は謝った。「旦那さんも一緒に?」
「ううん、旦那はいつもどおり朝から仕事に行った。悪いけど一人で頼むね、あと今日も遅いからご飯はいらないって。一応娘にも知らせた。仕事が忙しそうだからLINEで伝えたんだ。まあ、猫が亡くなったからって仙台から東京へわざわざ帰ってこないってわかってたから」
「一人で大変でしたね。ハルオに献杯しましょう、タイビールでよければ」
栞さんは頷いて、また象のタペストリーの方に目をやった。
少なめの間接照明に照らされながら、栞さんはメニューに目を通す。ゆったりとしたハイネックセーターの袖は上げられ、チェーンベルトの腕時計がときおり反射した。草色のスプリングコートは従順そうに壁に懸けられていた。月に一度、髪をカットしてもらう店以外の場所で栞さんと会うのは初めてだった。髪を後ろで一つに束ね、おしゃべりをしながらカットをしている格好とは違った上品な雰囲気がなんだかおもしろく、僕は眼鏡の位置を整えるふりをして口元を隠した。
「今日はお客さんの取材だったの?」
注文を書き終えたタイ人の店員が離れると、栞さんが訊ねた。
「いえ、ここ最近は溜まっていたデスクワークをずっとこなしていました。おかげでお尻が痛いですよ」
「一人で何もかもやるって大変でしょう。あたしみたいに個人だったら事務処理も知れてるけど、会社っていう形なら面倒なことがいろいろありそう。人を雇わないの?」
「事務所が狭いですから」
「引っ越せばいいじゃん」
「面倒ですよ」僕はテーブルの中心を見ながら首を横に振った。「僕一人が食べていける儲けさえあればそれで良いと思ってるんです。別にタワーマンションの高層階に住みたいと思わないし、高級車に乗りたいとも思わない。コールセンターや商品の出荷作業、ほとんどの業務が外部委託なんですよ。人を雇って仕事が楽になるというより、たぶん余計な仕事が増えるだけじゃないかな」
「まさか机の前で一日中ネット見てるんじゃないでしょうね」栞さんは疑うように横目で僕の顔を覗きこんだ。
「最近は控えてます」僕は冗談めかした。「自分でやった方がいいことは自分でやっていますよ。お金のこと、広告のこと、顧客への訪問、大まかにいうとそんなところです」
「ホームページではいろんな物を売ってるのね」
「いろいろ売ってます、ひっそりと」
「何に効くのか、いまいちわかんなかったな」
「医薬品じゃないので、はっきり効果を書いてしまうと法的にアウトなんです。ただのサプリが血糖値を下げたり便秘を治したりすると、医者が怒るんですよ。既得権益を犯すなって」
「ふうん、そういうもんなんだ」栞さんはセーターの袖を引っぱり上げ、髪を軽く整えた。「たださ、一箱千円のティッシュペーパーはさすがに誰も買わないでしょう」
「ほとんど売れないですね」僕は認めた。そして栞さんと同じようにパーカーの袖を上げ、テーブルの上で両手を組んだ。「でも、たまに注文がきます。買う人は大体お金持ちです。通信販売なのでお金持ちの名前や住所を手に入れることができます。それは僕にとって貴重な個人情報で、お金持ち向けのメルマガやダイレクトメールを送ると、また商品を買ってくれる可能性が高いんです」
「それは……詐欺?」栞さんは首をかしげた。
「決して詐欺ではないです」僕は笑った。「ただ目立たないようにひっそりと商売をしているだけで、誰にも嘘はついていません。ちなみに僕、そんな目立たない会社のオーナーになりました。借金つきで」
「すごい。おめでとう」栞さんは控えめな拍手をしてくれた。「オーナー社長プラス借金。というか今までオーナーじゃなかったのが意外」
「経緯を話せば長くなります」
「じゃあとりあえず乾杯しよう」
瓶で運ばれてきたタイビールを互いのコップに注ぐと、僕たちは亡きハルオに献杯をし、五年の歳月をかけて果たされた株式譲渡に乾杯を交わした。春雨サラダをそれぞれ取り皿に分けて食べていると、レモングラスとナンプラーで炒めた鶏肉と、唐辛子のソースで蒸したスズキが運ばれてきた。腹を空かせた栞さんの前には米粉の麺を炒めたパッタイが置かれた。
「美容師を一旦辞めたのっていつ頃でしたっけ?」
栞さんは口元を紙ナフキンで拭いた。「何あらたまって」
「昔のことって詳しく聞いたことがなかったから」
「辞めたのは確か二十八歳のときかな。専門学校を卒業してすぐに横浜の美容室に勤めてたの」
「辞めることに抵抗はなかったんですね」
「どうかしら。まったくなかったとは言えない。その頃から仕事は好きだったし、結構お客さんもついてくれてたから。でも子どもが出来たからまあ仕方ないかって感じだったと思う。今みたいに産休制度なんてなかったし」
「専業主婦も一つの社会的職業だと僕は考えていますよ」
「確かにそういう意識を持った方が、これからは良いかもしれないね」栞さんは自分のコップにタイビールを注ぎ、ついでに僕のぶんも注いでくれた。「ただ、子育ては現実そのものだった。コンクリートみたいに固くて分厚くて、有無を言わせない現実。考えとか意識とか理想とか夢とか、そんな絵空事は全部崩れ落ちちゃうのよ。目の前で泣きじゃくる子におっぱいをあげて、服や下着を着替えさせて、真夜中でも叩き起こされる。私の場合は近くに親戚もいなかったし、旦那も忙しかったから、朝から晩まで一人きりで現実と取っ組み合ってたわ」
「必要な現実逃避もできていなかったんですね」
「子どもが寝てる時間が私の時間だったけど、私の時間もただただ寝る時間だった。夢さえも見ない」栞さんは苦笑して、パッタイをすすった。「で、子どもが大きくなって自分の手からだんだん離れていくでしょう。すると誰もが考えることをやっぱり考えるの。あたしは自分の人生をどこで失くしちゃったんだろうって。ありがちなパターンよ」
「ありがちなパターンって、言い換えれば普遍的なことですから」
「普遍的」栞さんは箸を止めて繰り返した。「普遍的って、なんだかよそゆきの服を着てる気分になるね」
「自分のことじゃない感じ、ですかね」僕は相槌を打った。「だからまた美容師の仕事を始めてみたんですね」
「そうだね。娘が大学に入ったときに、そろそろ自分でも何か始めようかなって。やっぱり美容師の仕事が好きだったし。でも求人をあたったら、かなりブランクがあるし年齢が年齢だからやっぱり難しかった。あのときはちょっと落ちこんだな」
「浦島太郎的な」
「そうそう、自分が世の中から取り残されていたことに一瞬で気づかされた。だけどそのままおばあさんになるのはまだ早いし、旦那に相談して、ちょっとだけ自宅を増築して自分で店をやってみることにしたの」
「お客さん、結構入ってますよね」
「住宅地にあるから珍しいんでしょう。便利だし。近所の主婦とか年配の人が多いよ。半分はお喋り目当てだろうけどね」
「栞さん目当てですよ。僕はそう思います」
「ありがとう。椅子一つしか置けないっていうスペースが案外落ち着くのかもね」栞さんは店員を呼び止めて、白ワインを注文した。
美容師の技術について僕は詳しく知らない。栞さんが具体的にどれだけの腕前なのかは判断できないが、ドライヤーで髪を乾かされて整髪料を使ったセッティングが終わると、僕は鏡の中の自分にいつも満足することになる。希望する髪型のイメージを伝えると(あるいは大雑把に伝えたとしても)、映画や音楽の話を交わしながら栞さんはいつのまにか有能な彫刻家のようにイメージどおりの髪型を具現化してくれた。
栞さんの店には半年以上通っている。髪をカットしてもらいながら栞さんと何気ない言葉を交わすことは、僕にとっていろんな物事から解き放たれてリラックスできる時間だった。友人あるいは姉のように、僕は何のしがらみもなく栞さんと気軽にいろんな話をした。僕が一人で会社を経営している話をしたとき「経営っておもしろいの?」と栞さんは訊ねた。僕が曖昧に頷くと、栞さんは微笑んで「いろいろありそうだね」と再び鋏を動かした。カットの最中に予約の電話が掛かってくることがよくあった。そのたびに栞さんは「ちょっとごめんね」とリビングへ行き、簡潔に日時を決めて電話を切ると「失礼しました」とそそくさと仕事場に戻ってきて、映画や音楽についてまた話し始めた。美容師としての腕は充分にあるとしても、店の集客に大きく貢献しているのは栞さん自身にあるものだと僕は考えていた。
「篠原くんって結婚しないの?」
料理を平らげて、デザートを選んでいるときに栞さんが訊ねた。二人ともココナッツミルクを使った焼きプリンを頼んだ。
「実際に考えたことはないですね、結婚」
「やっぱり一人で食べていくだけで充分ってことなのかしら」
「それに近いかも。信用できないんですよね。相手じゃなくて、結婚っていう制度に。一緒にいたいなら一緒にいればいい。そこに結婚っていう枠をはめて、安定を得た気持ちになるなんて当てにならないぞって思う」
「信用できないというのは、つまり何かを信用したい気持ちがあるんだ」
「どうかな」僕は口元に拳を当てた。「そんなふうに考えたことはなかったな」
カットの途中で鏡を確認するときみたいに栞さんは僕を観察していたが、焼きプリンが運ばれてくると、スプーンを手に取って嬉しそうに「いただきます」と呟いた。そろそろその日の用件を伝えるために、僕は焼きプリンを掻きこんだ。
「結婚よりもおもしろそうなことを考えているんですよ」僕は切り出した。
栞さんはスプーンを空中で止めたまま顔を上げた。「そんなのいっぱいあるでしょう」
「いっぱいあるうちの一つです」ひとまず僕は譲歩した。「僕がやっている通信販売はこちらからお客さんに商品を届ける形態で、サプリを中心にいろんな商品を扱っています。ただ最近、他のものもこの形態で扱えないだろうかって考えているんです。たとえばサービスとか」
「サービス」栞さんは焼きプリンを一口食べて、斜め上を見上げた。「保険とか通信教育とか、ライブ演奏とか」
「あとは美容室」僕は付け加えた。
「美容室もサービス業……なのか。ただ、自分の家に他人が上がりこむのを嫌がる人はいるでしょう」
「僕の会社の顧客は年配の人が多いんです。なかには体の自由が利かなくなったり、膝や腰を痛めたりして、外出したくてもできない人が少なからずいます。ただ、女性の場合はいくつになっても身綺麗にしていたいと願うものですよね。あるいは田舎に住んでいる人は、美容室まで行くのにバスやタクシーを使わなければいけない場合もあります。実際僕自身がお客さんに会いに行って直接聞いた話です。自宅でのカットを望むマイノリティの声があるのは確かですよ」
栞さんはじっと僕の目を見ていた。外出前の空を見上げて、天気の変わり具合を考えあぐねているような視線だった。
「立ち入ったことを聞くんだけど、今会社の状況はどうなの?」栞さんは訊ねた。
「今のところまだ悪くはありません」はっきりとした口調で僕は答えた。「もっと積極的に広告を出せば、まだある程度は伸びるでしょうね。ただここ何年かで競合他社が増えているのも事実です。隙間産業だった通信販売に大手企業が参入してきて、どんどん資本を投下しています。これまでの卸業者や小売店舗との古い商流を続けるより、消費者に直接販売した方が、うま味が多いことに大手が気づいちゃったんです。大手参入で市場が大きくなると法律が細かく厳しく整備されて、虫けらのような僕の会社はやがて簡単に吹き飛ばされます」
「弱肉強食。資本の論理だね」
「風向きは決して良くはないですが、今すぐ吹き飛ばされるということではないです。このままの状態が続くと、いつかそうなると予測しているだけです」
栞さんはセーターの袖を元に戻し、糸のほつれを確かめた。「通信美容師……いや、正しくは出張美容師かな。それって割に合う商売なの? 経営者である篠原くんにとって」
「まずはテストをします。たとえば首都圏に住む年配女性にターゲットを絞り、ダイレクトメールを送って反応を見る。反応次第で他の地域にも展開するのかどうか判断をします。地方へ行く場合だとどうしても交通費が掛かるので、どのように歩留まり良く運営するのか、どのように料金に反映させるのか、いくつかのパターンは考えています。あと、お客さんの髪をデザインすることが基本のサービスですけれど、それだけじゃおもしろくないって思っています」
僕は床に置いていたリュックを膝の上に載せ、ジッパーを開けて中身を探った。
「なんだろ。手品でもやれっていうのかしら」
手元を覗きこんできた栞さんの言葉には答えずに、僕は百円ショップで買ったU字型の磁石と、いつも持ち歩いている鉄分サプリのアルミ袋を取り出した。テーブルの上の食器を端に寄せ、アルミ袋を開けて鉄分サプリを何粒か並べた。見た目は市販されている医薬品の錠剤とまったく変わらない。
「これは僕が売っているサプリです。他の会社のものより体内に吸収されやすい鉄分が、他の会社のものより多く含まれています。でも僕がいくらそう言ったり書いたりしても、なかなか購入意欲を持ってもらえないというのが現実です」
僕は磁石を手にして、その先端をじわじわと鉄分サプリに近づけた。近づけながら、栞さんの表情を窺った。栞さんは身を乗り出して、磁石の先端をじっと見つめている。集中によるものか年齢によるものか、何本かのしわが眉間に寄っている。僕より八歳年上だから仕方ない。だが短く挙げた声と共に、目は大きく開かれた。釣られた小魚のように鉄分サプリが磁石の先端にすべてぶらさがっていることに驚いている。
「磁石にくっつくほどの鉄分含有量。僕が作っている広告はこういうことです。いんちきじゃないですよ」
「へえ。一目瞭然っていうやつね」
「もちろん栞さんには美容師としての仕事をお願いしたいと思っています。栞さんには、またカットをしてほしいっていうリピーターからの申し込みが届くでしょう。そうやって栞さんとお客さんとの間で関係を築く。栞さんはカットをしながら、いろんな商品をお客さんに紹介できるんじゃないかと思っています」
栞さんは自分でも磁石を手にして、サプリが付着するのを確かめていた。そして付着するたびに、子どものように楽しそうな表情を浮かべた。
「美容師兼、訪問販売っていうところね。あれ、くっつかない」栞さんは磁石を自分の頬に当てた。「鉄分不足ね」
「僕にはできないこと。それを栞さんにお願いしたいんです」僕は姿勢を正して頭を下げた。「つまり美容師という仕事を通じて、栞さん自身がメディアになるんです」
「メディア」栞さんは磁石の先端を見つめながら苦笑した。「なんだかユーチューバーとかインスタグラマーみたいだね。こんなおばさんが」
「栞さんだからこそできることです。ユーチューバーやインスタグラマーを始めるより、おもしろいことになりますよ」
腕時計に目をやると、九時を過ぎていた。栞さんはテーブルに肘をつき、仕掛けを探るように手にした磁石の先端を見つめていた。栞さんの髪は間接照明の鈍い光に照らされている。夫の帰宅は毎日もっと遅い時間なのだろう、僕はふと思った。栞さんはおそらくこの時間はいつも自宅で過ごし、これからは一人で過ごすことになるのだ。猫のハルオはもうこの世にいない。
「たぶん」栞さんは視線を上げた。「そんなに儲からないと思うよ」
「ええ。この仕事の本当の成果が出てくるのは、しばらく先のことになるでしょう」
「それまでに会社潰れちゃうかも」
「数字の管理は僕に任せてください」
「目的は」
「おもしろいことをすることです」僕は素直に言った。「僕にとって大金を手にすることがおもしろいことではないし、お金を掛けないとおもしろいことができないというわけでもありません。もちろん今ここで返事をしなくてもいいです。栞さんと僕の間で実務的な細かいルールもいろいろ必要でしょうし。まずは何日かイメージしてみてください。背中に羽が生えて、日本中を飛び回り、多くの人の髪をデザインしている姿を」
栞さんは僕の顔を静かに見ていた。酔っていたとしてもおかしくないほどグラスを何杯か空けている。その表情には、真夜中に散り続ける桜のような静けさが漂っていた。
「そういえば、篠原くんの」栞さんが言った。「下の名前は何」
「まきひとです。牧場の人と書いて、牧人です」
「牧人」空中に字を思い浮かべるように栞さんは何度か頷いた。
「おもしろい名前だね」
そう微笑んで、栞さんは髪をかきあげた。
数日経った朝、僕は事務所でメールの対応をしていた。広告入稿までのスケジュールについて返信し、コールセンターからの受注報告に目を通して、前日分のネット注文の明細を確認していた。日々一人の手に負えないほどの量の注文が届くわけではない。ノートパソコンで注文の一件一件を開き、注文された商品や顧客の名前や住所や性別や年齢などに目を通しながら、顧客の動向を肌で感じることにしている。少なくとも売上結果だけを記した数字の羅列よりかは顧客の姿をイメージしやすい。
栞さんの顔が頭に浮かんだのは、最後のメールを開いたときだった。前夜遅くに届いた一件の注文メール。注文者の欄に「滝乃瀬栞」とあった。滝乃瀬という姓が栞さんとすぐには結びつかなかった。しかし栞さんの家の表札に刻まれていたのが滝乃瀬だったことを思い出した。ノートパソコンに向かって、たきのせしおり、と呟いてみると、知らない誰かに背中をそっと撫でられたようなよそよそしさを感じた。だが注文メールの最後の備考欄に「磁石買いました」という一行を目にしたとき、タイ料理店で微笑んでいた栞さんの顔が思い浮かんだ。
栞さんは鉄分サプリを一袋購入していた。血圧を下げる魚油サプリでも副交感神経を活発にするアロマオイルでもないのは、やはり鉄分を必要としているからだろうか。更年期の女は月経周期が乱れがちで、体内で鉄分が不足することがある。サプリを購入したからといって、栞さんが僕の依頼を承諾してくれたと判断するのはまだ尚早だろう。
その日は青森に移動しなければいけなかった。青森に住む顧客が購入した商品で体調が良くなったという御礼の葉書を送ってくれたのだ。僕はできるだけ効果があったという顧客に会いに行って詳しい話を聞き、その言葉を広告やダイレクトメールに掲載することにしている。僕の言葉より顧客の言葉の方が客観性を持つし、読む人へストレートに伝わりやすい。僕自身が直接やらなければならない仕事の一つである。
事務所を十一時までに出発するためには、対応すべき案件に対して反射的にキーボードを叩いて片付けなければならなかった。中野からスマホに着信があったのは、返信メールをある程度送り終えたときだった。
「あの雑誌の広告枠、獲れましたよ」一通りの挨拶を済ませた後、中野が言った。
「いくらですか」僕は間を空けずに料金を確認した。
「いつもの十パーセント引きです。なかなか枠が埋まらないようで媒体側が引き下げてきました」
「二十パーセント引きなら広告を出しますよ」
「いやあ……どうだろう」中野は渋った。「その前に他社に取られちまうかもしれませんよ」
「十パーセント引きならこっちは割りが合わないし、他に取られても構いません。入稿日はまだ少し先でしょう。しばらく様子を見て、枠が埋まらないようなら二十パーセント引きを飲む可能性はありますよね」
「まあ、そうだね」中野は短く笑った。「わかりました。交渉してみますよ」
紙メディアの広告枠を購入する場合、長い付き合いのある中野に依頼することにしている。中野は中堅広告代理店に二十年ほど勤めていて、営業部の課長として部下が数人いるようだった。僕と同じ年齢という共通点もあるが、広告を発注する交渉役として長年の経験を持っていることが彼と仕事をする理由だった。ただ話が長いタイプなので、最近はメールでやりとりを済ませることにしている。
「やっとオーナーになったんですね。おめでとうございます」中野は声色を変えた。
「なんで知ってるの?」
「そういった話はすぐに広まるもんですよ。だって今でもあのオーナーさんは、篠原さんが前に勤めてた会社のオーナーでもあるんだから」
「それはそうだけど、あえて広めるような話でもないでしょう」
「まあそれでも、煙草を吸いながら、お茶を飲みながら、ランチを食べながら、みんな自分と無関係の話を無責任にしたがるもんなんですよ」
「これからは完全なライバル会社になるんだけどね」
「お、闘争心が燃え立ってるね。とりあえず今度お祝いで一杯やりましょう。奢りますよ」
「どうせ接待費で落とすんでしょう。さっきの雑誌の件、また連絡くださいね」
スマホを耳から離すと、中野の甲高い笑い声が聞こえた。僕はそのまま終話ボタンを押し、キーボードに向かって進めるべき作業を再開した。
中野と話したことで、五年前まで勤めていた会社のことを久しぶりに思い出していた。大学を卒業してから十五年ほど勤めた通信販売会社だ。その昔、証券会社や保険会社や老舗デパートが相次いで倒産して、失業率は五パーセント台にまで上がり、おまけにニューヨークの貿易センタービルがテロ攻撃によってあっという間に崩落した頃、僕は偏差値五十八の文学部卒業という肩書きでも給料を与えてくれる仕事先を探していた。風向きはちょうど就職氷河期というタイミングだった。ある学生は何百もの会社説明会を受け、ある学生は定職に就かずに日本全国を放浪することを決め、ある勘の良い学生はITに特化した会社を自分たちで設立したりしていた。いずれにせよ社会の固定化された枠組みに依存することはリスクの高い行為であり、これからの若者は自分の頭と体でサバイバルする術を身につけることが必要なんだと、それまでバブル経済の甘い汁を吸い続けてきた経済評論家たちは声高に自己責任論を展開していた。ただ僕には、まるで誰も支払ってこなかった勘定を無一文で無関係の人たちに払わせる方法について公然と解説しているように聞こえた。
「だから金を持つことだな。金を持たない人間の言葉には誰も耳を傾けない」
灰色の雲が漂う青森の空中を飛行機の窓から眺めながら、僕はその言葉を思い出していた。ただ一社、ようやく内定を出してくれた通販会社のオーナー代表は僕にそう言った。そのとき糖尿オーナーはまだ代表取締役に就いていた。こぢんまりとした事務所では二人の女が経理雑務を分担し、一人だけいた広告担当の欠員によって僕が採用されたのだった。「ここだけの話、健康食品ってやつは不景気な時代ほど売れるんだ」糖尿オーナーはお猪口を傾けながら僕に訓戒を垂れた。「景気の良いときは趣味や娯楽にみんな金を使いたがる。だけど景気が悪くなると不安や危機感に煽られて、自分のことだけに金を使って身を守ろうとする。はっきりとした統計じゃなく、俺の長年の経験によるものだが、これは間違いなく正しい見方だよ。篠原、お前は良いタイミングで入ったな」
糖尿オーナーによる鼓舞はすぐに実を結ばなかった。僕の作った広告が充分な客の数を獲得するまで結果的に三年が必要だった。最初、前任者が作った広告をそのまま掲載してみたが以前のようにはヒットせず、僕は一から自分の考えで広告を生み出さなければならなかった。早朝の電車で出社し、毎晩遅くまでデスクに向かった。広告原稿の隅から隅までをチェックし、締め切り直前まで何度も作り直した。しかし注文の電話は庭先ですずめが鳴くような程度だった。僕の仕事が会社の成長に寄与しているような結果はどこにも見出せず、売上の折線グラフは緩やかな右肩下がりを描いていた。自分はこの仕事に向いていないのかもしれない、そう思い始めた矢先だった。行き詰まった状況を打開したのは、視点や狙いを変えた様々なパータンをすべて使い果たし、こめる弾が何もない状態で書いた一行のコピーだった。
──明日なんか信用でけへん。今日元気に笑いたいだけや
大阪に住む顧客を取材したときに聞いた言葉だった。それをそのまま書いた青汁の広告が掲載されると、コールセンターの電話機は朝から晩まで引っ切りなしに鳴り続けた。注文用の電話回線はすぐに増設され、青汁の出荷数は日毎に増えていった。広告を掲載するメディアの数を増やすほど、青汁も比例して売れていった。一度ヒットした広告でも、レイアウトや見せ方を少しずつ変えることで、しばらく反響を維持させることは可能だ。糖尿オーナーはその間に社員数を増やして、広いオフィスに移り、テレビやラジオといった電波メディアにも広告を拡大するように指示した。近いうちに到来するネット広告の時代に向けて準備を整え始めた。その頃になると、僕は重役職を任され、自分で広告原稿を作るよりも、中野のような広告代理店や取引業者の担当者と接待の酒を酌み交わすことが多くなっていた。
十五年が経ってその会社を離れたのは、糖尿オーナーが代表を退くことを決め、後継に僕の部下を指名したことがきっかけだった。売上は僕が入社した頃の五倍以上に伸び、社員数は二十人ほどに増えていた。後継に指名されたのは三十歳で、都内の一流私立大学を卒業し、ネット広告に精通したロジカルな思考を持つ男だった。裕福な家庭環境で育ったらしく、歪みのないクレバーな意欲を持っている面には僕も好感を持っていた。そんな前途有望な若手が数段飛ばしで出世の階段を駆け上がるのはよくある話だと知っていた。知っていたからこそ、その若手を後継に選んだ理由をわざわざ糖尿オーナーに問い質すことはしなかった。あるいは、ある日突然部屋から全ての家具が持ち出されたような空しさについても誰にも打ち明けなかった。結局、信用してしまっていたのは僕の方だったのだ。いや、正確には信用という言葉ではないだろう。僕は勝手に会社のことを、会社に在籍した十五年という歳月を、そして糖尿オーナーを、いつの間にか自分の都合の良いように解釈していただけのことなのだ。そんな個人的な思いこみに誰も責任を持つはずがない。
糖尿オーナーは僕のスマホに電話を掛けてきて一つの提案をした。糖尿オーナーの出資で新しく会社を設立し、今販売している商品をいくつかそちらにシフトチェンジして、僕が一人で経営してみないかという内容だった。複数の会社を持つことで経営リスクを分散できるともいえるし、長年勤めた僕の心情を汲んだ対処ともいえるし、年上の僕がいない方が新しい若手社長はリーダーシップを発揮しやすいともいえる。僕には断る理由がなかった。その全てを叶えるためには僕が会社を離れるしかなかったのだ。
「え、あんた一人でやってるの? そりゃ大変だ。それなのにわざわざ東京から来てくれたんだ」
田畑が広がる地方で暮らす農家に話を聞くと、今もまだ都会を生き馬の目を抜く街だと案じている人が少なくない。青森の五所川原でりんご農家を代々引き継いでいるその老人も、青森以外の土地に住んだことがないらしく、都会での商売のほとんどは詐欺で成立しているものだと構えているふしがあった。
「都会の人も物も信用できん。だけど、あんたのところの商品は信用できる。ちゃんと血糖値が下がったからな。こうして会いにも来てくれたし」
立ち並ぶりんごの木の元に置かれた休憩用の椅子に座りながら、老人はほうじ茶をすすった。
「なるべく多くのお客さんにお会いしたいんです」僕は答えた。
「そりゃあ大切なことだ。わしだってりんごの顔を一つ一つ見て回るからな」
「天候の変動もあるし、大変なお仕事ですね」僕はりんごの木を見上げた。
「あんたもやってみないか、りんご作り。意外に向いてるかもしれん」老人は笑った。
「丹精こめられた高級りんごの通販か。農協がうるさそうですね」
それから一時間ほど体調について話した後、老人が元気に笑っている姿をデジカメで撮らせてもらった。別れ際、収穫はまだだからと、老人は瓶に入ったりんごジュースを手土産として二本持たせてくれた。却って荷物になって申し訳ないねという老人の言葉に恐縮し、僕は青森を離れた。
羽田空港に着くと、キャリーケースを引きずりながらデリヘルの店長に電話を掛けた。いつものようにチアキを指名し、待ち合わせの場所と時間を手短に決めた。電車に三十分ほど乗って横浜駅に着くと、小雨が降り出していた。四月の夕方にしては水墨画のような仄暗い空で、そのまま灰色に染まってしまいそうな表情の人々が駅前を行き交っていた。僕は人波の間を足早にすり抜けた。雑居ビルがひしめき合う通りの方へ曲がると、約束したレンタルルームの入り口ですでに店長が待っているのが見えた。店長から部屋の番号を教えてもらい、キャリーケースを持ち上げながら狭い階段をなんとか上がった。部屋に入った途端キャリーケースを手放し、とりあえずソファに腰を下ろして一息ついた。
「どっか行ってたの?」
五分ほど後に部屋に入ってきたチアキは、無造作に置かれているキャリーケースを目にして訊ねた。
「青森」
「へえ。食べ物おいしかったでしょ」
「昨夜はイカの刺身とホタテの貝焼き味噌。日本酒との相性が抜群だったよ」
僕とチアキは服を脱ぎ、一緒にシャワー室に入った。互いに体を洗い合っていると「今日はちょっとおっぱいが痛いんだ」とチアキが言った。チアキと知り合ってから半年ほどが経つ。僕もチアキもその日の体調が優れなかったことはそれまでに何度もあった。シャワー室を出ると、僕はベッドの上で仰向けになり、チアキは体の向きを逆にして僕の体の上に覆い被さった。そして互いの性器を舐め始めた。
「マッキーは良いよね。いろんな土地に行けるから」
「そういう仕事だからだよ。でもまあ移動時間は結構自由かもしれない。本を読んだり映画を観たり。外回りの営業に就けばいろんなところに行けるよ」
「あたしには無理だな」
「丸の内のOLなんか簡単になれるさ」
チアキは体勢を変えて、睾丸をゆっくりと舐めた。チアキの性器が僕の顔により近づいた。僕は首を上げて、尖らせた舌の先を赤黒く濡れる奥の方へ這わせていった。
「この前あげた消臭スプレーって今日使った?」僕は訊ねた。
「うん」
「やっぱり効果あるね」
「あのさ……それって言葉にしないでくれるかな」
一度目の射精が終わった後、チアキはティッシュペーパーで口元を拭いて、時間を確かめた。「どうしよ」とチアキが訊ねたので「さあ、わかんない」と答えると、チアキは体を横たえて僕の胸元にすっと顔を寄せてきた。
「さっきの話だけどさ、丸の内でもどこでも良いんだけど、OLさんって可哀そうだなって思うんだ、あたしは」
「可哀そう?」
「だって偉そうな上司からセクハラとかパワハラとか受けてるのに、男より給料が低いわけでしょ。そんなストレスフルな日々を、文句言いながらでもよく続けられるなって」
「なるほど。チアキは違うもんな」
「昼間は会社で女の子たちに指示してるおじさんが、あたしには犬みたいに従っているからね。しかもそのおじさんより私の方が稼いでいると思う」
「だから並べてみると、丸の内のOLよりチアキの方が上位のヒエラルキーに属してるってわけだ」
「いや、そういうことを言いたいわけじゃなくて。本当に状況を変えたいなら方法はあるってこと。ただそのためには取捨選択の決断が必要で、私の場合は決断しちゃったってことだね。他人が何を言おうが知らない。別に自分から風俗で働いてるってカミングアウトするつもりもないけど」
「自由なチアキだ」低い天井を見つめながら僕は呟いた。
「そんなに自由じゃないよ、たぶん」
その後、僕はチアキの唇にキスをし、首元にキスをし、乳房に触れないように上半身にキスをし、尻から性器にかけて緩やかに舌を這わせた。チアキの体は陽だまりで眠る猫のように柔らかくなっていた。コンドームを着けて挿入しようとしても、チアキは抵抗する素振りを見せなかった。顔を寄せ合い、小声でくすくすと冗談を言い合いながら、やがて二度目の射精をしたときには終了の時間が近づいていた。
「青森でもらったりんごジュースあげるよ。肌に良いらしいし」
僕はキャリーケースからりんごジュースの瓶を一本取り出し、チアキに差し出した。
「いいよ、荷物になるし。今飲もう」
チアキは冷蔵庫の上の棚から紙コップを取り出し、キャップを回して二人分のりんごジュースを手早く注いだ。二人とも裸のまま、りんごジュースで乾杯をした。
「濃ゆいね。青森の味。マッキーのあれより濃ゆいよ」
「消臭スプレーの仕返しか」
再び二人でシャワーを浴び、服を着て部屋を出る準備をしていると、チアキがバッグの中から何かを取り出した。
「これあげる。いつも指名してくれるから」
チアキの手のひらに載っていたのは鳥の木彫だった。羽の一枚一枚まで細やかに彫り出され、深い海のような青で彩色されている。光沢のある瞳は飛べるはずのない空を実直に見上げていた。
「こないだ行った北海道旅行のお土産。オオルリって名前だったかな」
「意外な趣味だな」
「ちょっとマッキーに似てるし」
「ありがとう。机の上に飾っておくよ」
「マッキーってさ、社長なんでしょ。デリヘル店でも始めればいいのに。そしたらわたしを雇ってよ」
「この業界ってヤクザだから引き抜きはタブーだろ。自分の小指が引き抜かれるよ」
僕は笑って部屋を出た。
雨脚が強まっていた。すぐ近くのコンビニでビニール傘を買い、ハンドルを短くしたキャリーケースを持ち上げながら、足早に駅までの道を戻っていった。そのまま電車に乗るつもりだったが、やけに腹が空いていた。駅の近くにビアバーがあったので、駆けこむように扉を開けた。雨のせいか客は誰もおらず、店員は一方的なゲームのゴールキーパーのように退屈そうに立っていた。僕は壁際のカウンター席に座って、ギネスビールとソーセージグリルを注文した。料理が運ばれてくるまで、スマホで仕事のメールをチェックしようとしたとき、LINEに一件のメッセージが届いていることに気づいた。相手は栞さんだった。
──羽の生えた美容師はどこへ飛んで行けばいいのかな?
しばらくの間、その一行だけを見つめていた。手元にはいつの間にか白いコースターの上にギネスビールが置かれていた。僕はメッセージに視線を固定したままグラスを握り、雨の夜空を受け入れるように、ゆっくりと顎を上げてギネスを飲み干した。誰もいない静かなビアバーのどこかから微かな風が吹きこんでいるのを僕は感じた。
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