見出し画像

髪をかきあげて竜巻 第二話

 翌日、まずデジカメを持って栞さんの店を訪れた。出張ヘアデザインを宣伝するダイレクトメールに栞さんの仕事風景を載せるためだ。事務所に戻ると、パソコンですぐにダイレクトメールの制作を始めた。頭の中では仕上がりのレイアウトがほとんどできていたので、印刷会社に入稿するまで一日もあれば充分だった。サービスの名称はデリバリーヘアデザインを略して、デリヘアに決めた。どのエリアの顧客にダイレクトメールを郵送するのかも大体決めていた。練馬区、中野区、杉並区、世田谷区という地理上の南北ラインから西側の都内に住む六十歳以上の女性を絞りこむと、パソコンの顧客管理システムで約五〇〇件の顧客がリストアップされた。五〇〇件なら印刷費と郵送費を合わせてもテスト段階として許容範囲の予算額だ。そのうち五パーセントの二十五件から申し込みがあれば、本格的な展開に進んでもいいだろう。
 栞さんからは「今の店の仕事と調整したいから、できるだけ早めにスケジュールを入れてくれると助かる」と要望があった。「店に来てくれるお客さんも大事にしたくて。でもそのかわり日曜日も出張受け付けます」とも付け加えられた。報酬については、店舗で設定している料金の二倍を支払うという僕の提案をすんなり受け入れてくれた。それから先の細かいケースについてはまた話し合うことにした。
 ダイレクトメールを郵送してから一週間は、これといった反応が見られなかった。カットの方法や担当美容師の詳しい経歴を聞きたいという問い合わせがコールセンターに数件入っただけで、どれも実際の申し込みには至らなかった。一度、大分県に住む女性から電話があった。おそらくダイレクトメールを送った顧客の知り合いなのだろう。残念だが大分まではまだ行けない。
 僕はデスクの上で頬杖をつき、鳥の巣箱ほどの窓から外を眺めていた。空には雲一つなく、トラックのクラクションやバイクが走り抜けるエンジン音が退屈そうに聞こえてくるだけだった。「奇跡を発見できるのは、それが広大な砂漠の中にあるただ一点の泉だからである。発見までに砂漠で息絶える人間はすべてだと言って良い」。確かチャールズ・ディケンズの小説に出てきた言葉だろうか。違うかもしれない。三流文学部の知識なんてその程度だし、チャールズ・ディケンズが何卒なのかも知らない。だからといって砂漠で死ぬわけにはいかなかった。今回のデリヘアの成否を判断するのにはまだ早い。中野から二十パーセント引きの広告料金が交渉できたというメールが届き、返信の文章を簡潔に打ちながら窓の外をまたぼんやり見ていると、チアキからもらった鳥の木彫を思い出した。オオルリという名前の鳥。キャリーケースに入れっぱなしにしていたのを窓のそばにでも置いておこうかと立ち上がろうとしたとき、コールセンターから定刻の報告メールが届いた。
 添付ファイルを開いて、サプリの注文明細がいくつか並ぶなかに、一点の泉らしき微かな反射を僕は発見した。デリヘアを申し込んできた顧客の住所は東京都国立市だった。

 国立駅の改札口で栞さんと十時に待ち合わせた。その日は日曜で、シャツの袖をまくった人や麦わら帽を被った人が日差しの中を行き交ったり、タクシーがロータリーで列を作っていたりしていた。初めての客に手早く対応したかったため、僕はすぐに客に電話を掛けて、十日後の日曜日にカットの日を決めた。近い日付になったため栞さんにLINEで確認すると、準備は間に合うよ──との返信があって胸を撫でおろした。
 改札から出てきた栞さんはまだ髪を束ねず、丈夫そうな茶色い革のトランクケースを手にしていた。カットの道具が一式詰めこまれているようで、持ちましょうかと声をかけても、栞さんは首を横に振った。客の自宅まで十分ほどの道のりを僕たちは歩いていくことにした。
「ジャケット姿、なかなかいいじゃん」栞さんは僕の格好を見回した。
「迷ったんですけど、髪を切る場所であまり堅苦しい格好はやめておこうと思って、ノーネクタイにしました」
「わたしはこれで正解かな?」
「その初夏らしいワンピースで正解ですよ」
 当面は僕も栞さんに同行することにした。責任者として栞さんが実際どんなふうにカットをするのかを見ておく必要があったし、初めて会う客の自宅に訪問するのは僕の方が慣れていることもあった。
「電話があったのは御主人からなんです」赤信号で立ち止まっているときに、僕は説明した。「最近奥さんが転んで脚を痛めてしまって、自由に動けないんだけど、そんな場合でも切ってくれるのかなって」
「優しい御主人ね」
「寝たきりではないですね。家の中ではなんとか生活できているようです」
「行けばなんとかなるでしょう」
 住宅街の角を何度か曲がると、二階建ての古めかしい家屋が見えてきた。コンクリートブロックの塀に囲まれ、その上から手入れが滞っている庭木の枝が覗いていた。僕は表札を確かめて、インターフォンを押した。会社名を告げると、そのままお上がりくださいと老人の声が聞こえた。僕たちは門扉から数段のアプローチを上がり、玄関の引き戸を開けた。
「ああ、この度はどうも。どうぞ上がってください」
 玄関にあらわれたのは、白髪をきれいに梳かした御主人だった。サーモント型の眼鏡姿で、飴色をした薄手のカーディガンがふくよかな腹部を覆っていた。定年後も読書を欠かさない校長先生のような雰囲気だった。僕と栞さんは挨拶をして靴を脱いだ。
「実はね、昨夜また転んだんですよ」廊下を進む御主人がこちらを振り返った。「夜中にトイレに行ったときに足を踏み外して。なんとか寝室まで運んだんですけど、今朝はベッドから出るのも痛いらしく、じゃあ今日断ろうかと言ったんだけど、いや今さら悪いからって」
 僕と栞さんは目を合わせ、小さく頷いた。御主人は寝室の戸を開け、僕たちを招き入れた。二つのベッドを並べても余裕がある広さの部屋で、レースのカーテンが五月の光を柔らかく拡散させていた。手前のベッドでは白いブラウスを着た奥さんが上半身を起こし、両手を前で重ねていた。
「はじめまして。いつもご注文ありがとうございます」
 僕と栞さんがそれぞれ挨拶をすると、奥さんはベッドの上で座ったまま、あらためて深々と頭を下げた。
「今日はこんなふうになってしまって本当に申し訳ないですね。お聞きになったと思いますが、ほとんど足を動かせないぐらいになっちゃって。歳を取るのって嫌ね。失礼だからせめて上だけでも着替えたんだけど、下は寝巻きのままなの。お恥ずかしい」
 照れ臭そうに視線を外す奥さんに、栞さんは近づいた。
「わたしもいつもはラフな格好で仕事してますよ。お気になさらなくて大丈夫です。ベッドの上の方が良いですよね。なるべく負担が掛からないようにします。もし痛くなったら遠慮なく言っていただいてオーケーです。今日はどんな感じにしましょう」
 栞さんはトランクケースを床に置くと、奥さんの目の高さに合わせて腰を屈め、顔の形や髪の状態をてきぱきと観察し始めた。奥さんは背筋を伸ばし、ちょっとこのあたりがと後ろ髪に手をやると、栞さんも相槌を打ちながら奥さんの髪の中に指を入れた。しばらく奥さんと栞さんのやりとりが続いている間、僕は御主人と立ち話を交わした。血糖値が高めなので食事量や酒を控えてウォーキングをし、病院で処方される薬も飲んでいるのだが、なかなか体調は良くならなかったようだ。でも僕の販売しているサプリを飲んでいると、緩やかだが血糖値が下がり始めたんだと笑顔がこぼれた。
「あれは桑の葉が原料なんだってね」御主人が訊ねた。
「そうです。桑には体内で糖の吸収を阻害する成分が含まれています。糖は多くの生き物にとって生存に欠かせないエネルギー源ですから、桑には害虫がほぼつきません。桑を食べるのは蚕ぐらいのものだったんです」
「昔はよく農家が蚕を飼っていたものだったよ。うちの田舎もそうだった」
「今では養蚕産業が廃れてしまって、日本のあちこちで桑畑が放置されています。それをなんとか再利用できないかというのが僕たち健康産業界の取り組みなんです」
 長年にわたって染みついた桑についての解説を九九の暗唱のように口にしていると、奥さんのヘアデザインのイメージが固まったようで、栞さんはトランクケースを開けて準備を始めた。「カットに一時間はかかりますので、御主人は気にせずご自由になさってください」と僕が声をかけると「それじゃあ、あとはよろしくお願いします」と御主人は寝室から出ていった。
 まず栞さんは奥さんの下半身を覆っていた掛け布団を丁寧にたたんで、御主人のベッドの上にぽんと置いた。奥さんはあらわになった灰色のスウェットのズボン姿を恥ずかしそうに手で隠したが、栞さんは気にせずにトランクケースから取り出したヘアエプロンを奥さんの首まわりに付けた。背もたれ代わりに枕を使おうと考えたようで、奥さんの腰のあたりに枕を何回か当ててみたがしっくりせず「おうちに座椅子はあります?」と栞さんは訊ねた。「昔使っていたのがクローゼットにあるはずよ」と奥さんが答えたので「御主人に聞いてきます」と僕は寝室を出た。リビングのテレビでは報道番組が映し出されていて、御主人はソファに座ってタブレットを操作していた。「奥さんの背もたれに座椅子を使わせて頂きたいんですが」と頼むと、御主人はクローゼットをいくつか開けては首を傾げていたが、やがて折りたたまれた木製の座椅子を取り出してくれた。「たぶんこれのことだと思います」と御主人は照れくさそうにした。
 寝室に戻ると、栞さんはすでに髪を後ろで束ね、数本の鋏と櫛を差したウエストバッグを装着し、互いの夫が何一つ家事をしないという共通の認識で奥さんと意気投合していた。僕は話に関わらないように座椅子を奥さんの後ろに置き、栞さんが向かい合った奥さんの体を両腕で抱き上げている間に、奥さんの尻の下へ座椅子を滑りこませた。奥さんの座る位置が決まると、栞さんはそのまわりに数枚の白いビニールシートを隙間なく敷きつめ、さらにその上に新聞紙を重ねていった。
「じゃあ始めますね。休みたくなったらいつでも言ってください」
 栞さんはベッドの上で両膝をつき、奥さんの背後に回った。霧吹きで奥さんの髪を濡らしては櫛で梳かし、奥さんの肌についた水滴をタオルで拭き取ったりした。そして後ろ髪をヘアクリップで留め、鋏を入れ始めたところで、僕は部屋の隅にあった椅子に腰を下ろすことにした。
 僕の見ている限り、カットの作業そのものは特に不自由なく行なえているようだった。最初はベッドのスプリングの揺れによって、鋏を持つ手元が定まらないように見えたが、踵の上で腰をしっかりと落ち着かせ、体の重心をやや後ろに傾けることで、次第に栞さんのカットはいつもの淀みのないリズムを取り戻していった。カットされた髪の毛はヘアエプロンや広げた新聞紙の上に落ちていった。
 カットが順調に進むにつれて奥さんもリラックスしてきたようで、座椅子に身をあずけながら栞さんの話しかけに対して軽快に言葉を返していった。
「ここ何年、なんだか眠りが浅くて」体調の変化について奥さんは話していた。
「どうしても体を動かすことが減りますからね」栞さんは手を動かしながら、奥さんの背後から答えた。
「うちの主人も同じで全然運動しないけど、夜はわたしの横でぐうぐう寝てるわよ」
「男と女で何か違うんでしょうか」
「やっと眠りに入っても、夜中の二時三時にふっとトイレで目が覚めるの。そしたらベッドに戻ってもまた寝るのに時間が掛かっちゃう。そうこうするうちにいつの間にか朝になるパターンよ」
「篠原さん」栞さんは手を止め、黙っていた僕を奮い立たすように声を掛けた。「不眠に効くサプリ、作りましょうよ」
「次の新商品候補に挙げますよ」僕が揚々と答えると「ぜひお願いします。買いますよ」と奥さんは声を高くした。
「でもね」奥さんは話を続けた。「最近は割り切って、無理に寝ようとしないことにしたの。寝られないのがストレスになって余計悪循環になるからね。その代わりメモを取ることにしたの」
「メモですか」栞さんは繰り返した。
「ここだけの話よ」奥さんは悪戯っぽく声のトーンを落とした。「主人が横で寝てるでしょう。あの人昔からよく寝言を言うのよ。それもちょっと意味不明な寝言」
「御主人の寝言メモ、ですね」栞さんも同じように声量を落とした。
「そう。眠りに入って一時間ぐらい経ったら、むにゃむにゃ言い出すの。こないだなんか『ファゴット……そのロッカーじゃなくて……三分の一』だって」
 栞さんは手で口を押さえて笑いをこらえていた。「御主人、学生時代は吹奏楽部だったんですか?」
「ううん、そんな話は聞いたことがない。だからわたしね、ふとしたときに独り言みたいに呟いてやるの。『それはファゴットのロッカーじゃない』って。すると主人は不思議そうな顔をして『何か言った?』って訊くから『何もないわよ』とだけ答えてすうっとその場を離れるの」
「へえ、おもしろい。仲良いんですね」
「この歳になったら良いも悪いもないわよ」奥さんは首を横に振った。「一度ね、同じように主人の寝言を何気なく口にしたことがあったの。そのときは『鳥は逃げて、女の人は風に乗りなさい』だったかな。そしたらびっくりしたように振り返って、しばらくこっちをじっと見つめたわ。わたしは素知らぬ顔をしてたんだけど、主人はなぜか顔を真っ赤にしてた」
「その寝言集はどこかに隠してるんですか」
「ええ一応ね。でもあの人が見ても、何が何だがわからないと思うわよ」
 全体のカットが一通り仕上がったみたいで、栞さんは奥さんの前に腰を下ろし、トランクケースから取り出した長方形の鏡を奥さんに向けた。そして前髪や頭頂部のカットの説明をした後、次は鏡を奥さんに持ってもらい、用意したもう一つの鏡を合わせ鏡のように奥さんの後ろから栞さんが持って、後頭部の仕上がりを説明した。
「なるべく手入れが楽で、ボリュームが出るようにしました」
 栞さんがそう言うと、奥さんは鏡の中を覗きこみながら、満足そうに何度も頷き、にこりと微笑んだ。
「ありがとう。とても素敵だわ」
 襟足が見えるぐらいショートにふんわりとまとめられたヘアスタイルは、部屋の隅に座る僕の位置から見ても魅力的に見えた。まるでそのまま大切な誰かとの待ち合わせのために五月の街角へ飛び出していきそうな躍動感に溢れていた。
「お風呂場には行けそうですか」栞さんが訊ねた。
「どうだろう」奥さんは苦笑した。「昨夜のことだからね。そうね……シャンプーはやめておくわ。今晩主人に手伝ってもらうから」
「わかりました。無理はしない方がいいですね。切った毛だけは落としておきます」
 栞さんは霧吹きを手にして、水滴があたりに散らばらないように奥さんの髪を少しずつ濡らしていった。そしてウエストバッグからとても歯の細かい櫛を取り出し、ぺたりと濡れた奥さんの髪を梳かし始めた。櫛の歯に絡み取られた短い毛を乾いたタオルで取り除いては再び髪に櫛を入れるという作業を何度も繰り返した。
「ずいぶんと手慣れているのね。もう何度も?」奥さんは訊ねた。
「いえ」一瞬の間を空けて栞さんは答えた。「実はこうやってお客さんのご自宅でカットするのは今日が初めてなんです」
 奥さんは目を見開いた。「とてもそんなふうには見えないわ。もう何年もいろんなところで髪を切っているような振る舞い」
「失礼なこともあるかと思います」
「そんなのどこにもなかったわよ。とても寛げたもの」
「ありがとうございます。じゃあ、電気をお借りしていいでしょうか」
 栞さんはトランクケースからドライヤーを取り出して、コンセントにプラグを繋いだ。そしてスイッチを入れようとした瞬間、ふと気づいたようにドライヤーを床に置き、切った毛を落とさないように奥さんのまわりの新聞紙を慎重に折り畳んだ。そして用意した大きいビニール袋に突っこんだ。カットされた毛がドライヤーの風で部屋に舞わないようにという配慮だった。それからドライヤーによる乾燥を始め、ブラシと手指を使って奥さんの髪を丁寧に整えた。
「こうやってブラッシングするだけでまとまりますよ。あと、長く伸びても形が長持ちするようにカットしてますから」
 栞さんは気になる箇所に少しだけ鋏を入れた後、再び二枚の鏡を使って奥さんに仕上がりを確認してもらった。
「こんなにうまく切ってもらったんだから、早く足を治さなきゃもったいないね」
 喜ぶ奥さんに栞さんも微笑み、小さな箒とちりとりを手にして、ビニールシートの上に残っている髪をかき集め始めた。ちりとりにまとまった髪は新聞紙を突っこんだ袋に捨てられた。あとはビニールシートをしまうだけだったので、僕は寝室を出て、御主人に声を掛けにいった。リビングのテレビは点けっぱなしにされたまま、御主人は庭の花壇に水をやっていた。
「お待たせしました。今、終わりました」
 リビングの窓を開けて声をかけると、御主人は水やりを途中で止め、サンダルを脱いでリビングに上がってきた。
「ご苦労様でしたね。不便なくできましたか」
「ええ、おかげさまで。ただシャンプーについては、お風呂場に移動できない奥さまの状態を考慮して控えさせて頂きました」
「それは仕方ないね」
 僕が支払い方法を確認すると、御主人はリビングにある戸棚の引き出しから封筒を取り出した。
「これ、今日のぶんです」
 念のため御主人から受け取った封筒の中身を僕は確認した。確認している間、奥さんが言っていた寝言集のことをふと思い出した。しかしファゴットと目の前の御主人とは、どう想像してみても結びつきようがなかった。僕は御主人に領収書を渡し、寝室に戻った。
 栞さんはすでにビニールシートをトランクケースにしまっていて、何もない真っ白なベッドの上で奥さんがぽつんと座椅子に座っていた。ベッドの上はもちろん、床の上にも髪の毛一本落ちていない。
「座椅子を元に戻しましょう」
 最初と同じく奥さんの体を栞さんが前から抱き上げ、その隙に僕は座椅子を手早く抜き取った。掛け布団と枕を同じ場所に戻すと、僕と栞さんは二人で頭を下げた。
「また来てほしいわ。久しぶりに楽しかったもの」奥さんは掛け布団の上で両手を重ねた。
「わたしもまたお話ししたいです」栞さんは言った。
「寝言のことは内緒よ」
 御主人が廊下を歩く足音が聞こえたので僕は言った。「またいつでもお電話ください。駆けつけます」
 御主人が玄関先まで見送ってくれた。「切った髪の毛はどうされました」
「持ち帰って、こちらで処分します」栞さんが答えた。
「うちで捨てても良かったのに」
「あ、じゃあ次はそうさせて頂きます」
 別れ際、僕は桑のサプリを一袋プレゼントした。なんだか申し訳ないねと御主人は目を細め、僕たちが最初の角を曲がるまで門扉の前で手を振ってくれた。
 腕時計の針は十二時近くを指していた。よく晴れた空にときおり暖かい風が吹き渡っている。反省会と称して、僕たちは待ち合わせのときに見かけた駅前のパスタ屋で昼食をとることにした。ちょうど混雑している時間帯で、僕たちはカウンター席で肩を並べることになった。
「ずいぶんとシミュレーションをしてきたんですね」料理を注文した後、僕は訊ねた。
「一応いろんなパターンは想定してきたけど」栞さんは水を一口飲んだ。「ただどれだけ準備しても限界があるわね。まさかベッドの上でカットするとは、わたしも想像していなかったもの。やっぱり臨機応変。そのときのお客さんや家の中の状況に合わせて対応することだね」
「これから僕の方もできるだけ事前に状況をヒアリングしておくことにします。でも今日、初めてにしては及第点だと思いますよ」
「それは良かった。でも次からはワンピースはやめる。実用性を重視してパンツにする」
 栞さんにはアンチョビのパスタが運ばれ、僕にはカルボナーラが運ばれた。しばらく僕たちは黙々と皿に向かった。どこか緊張していたものがほぐれたのか、栞さんも僕も何重にも巻いたパスタを緩んだ胃に次々と詰めこんでいった。
「新鮮でしたよ」僕は一息ついて言った。「栞さんが他の人をカットするところを見るのは初めてだったから」
「篠原くんにずっと見られてるのは、ちょっと緊張したよ」
「それはすみません。でも最後、また来てほしいって言ってくれましたね。僕の思っていたとおりです」
「普通の美容室と比べて割高でしょう。足が治ったら続くかしら」
「栞さんと奥さんが話していた雰囲気は僕のイメージどおりです。あの雰囲気ならまた申し込んでくれますよ」
「次回はサプリを勧めてみる、ということ?」
「いや、押し売りはしたくないですね。あくまで関係を第一に考えてください。関係というものは代え難いものですから。栞さんというメディアを大切にするためにも」
 栞さんは最後の一口を食べ、コップの水をすべて飲み干した。「御主人の寝言集、可笑しかったね」
「そのメモ、見せてほしいですよ。寝言のワードを繋ぎ合わせると、結構シュールな物語を作れるんじゃないかな」
「眠っている御主人の横でさ、ペンとノートを黙って持っている奥さんの姿を想像する方が、わたしはなんだか可笑しかったよ」
「そう考えると、ちょっと変な夫婦ですね」
「夫婦って案外変なものよ。わたしもやってみようかな」
 栞さんは顎を上げると、頭の後ろに手を回して、髪を束ねていたヘアゴムをするりと勢いよく外した。そして広がった髪をいつものように片手で大きくかきあげた。一瞬、それまでの栞さんとは違う何かが吹き抜けたような気がした。
「なかなかおもしろかったよ、篠原くん」
 そう呟いた栞さんの横顔は斜め上を見上げたままだった。

 それから立て続けに三件、デリヘアの申し込みがコールセンターに届いた。世田谷区、福生市、町田市の三カ所で、どれもダイレクトメールを郵送した地域だ。事前に栞さんから教えてもらった店舗での予約日に合わせて、コールセンターのオペレーターは空いている日時にデリヘアの日を決めた。決まった日を僕からまとめて栞さんにLINEで伝え、客の詳しい情報はあらためてメールで送信した。
 国立のときと同じように、三件とも僕はまた同行することにした。世田谷の客は、自閉症の少年だった。電話を掛けてきたのは鉄分不足の母親で、それまでは母親が鋏とバリカンを使いながら息子の髪をカットしていたようだった。だが教則本で習っただけの仕上がりに不満を見せ始めた息子に、母親は十四歳という年齢の成長を感じた。祖母宛に届いたデリヘアのダイレクトメールを見せると、息子は少し間を空けてから小さく頷いた。カットは息子の部屋で栞さんと二人きりで行われた。その間、僕は一階のリビングで母親とお茶を飲みながら、息子についての話、今回の申し込みに到った話、あるいは自分が更年期に差し掛かって難聴気味だという話を聞いていた。浴室でのシャンプーとドライヤーが終わると、栞さんと息子はリビングにあらわれた。肌の白さが際立つぐらい清潔にカットされた息子は照れくさそうに母親の後ろに立っていた。「じゃまたね」と手を上げる栞さんの姿を、息子の目は玄関のドアが閉まるまで遠慮深そうに追いかけていた。
 福生で一人暮らしをする男は毛量に乏しかった。六十五年間床屋にしか行ったことがなく、この歳になって一人で初めての美容室に入るのも気が引けるからと男は苦笑した。役所仕事での定年を迎え、振りこまれた退職金でこれからは余生を謳歌するつもりですと、栞さんに頭を触られながら男は控えめに言った。ダイレクトメールの郵送先はすべて女で、顧客情報の性別欄にも女と記載されていたが、登録されている名前が男のものであることは申し込みを受け付けた時点で認識していた。いざ会ってみると、話し方や立ち振る舞いにどことなく柔らかい雰囲気が感じられたので、僕はなんとなく納得することにした。栞さんとの会話に、同性同士で喋っているような気軽さが飛び交っていたのも納得した要因の一つだった。
 町田の老人ホームでは、国立での経験が活かされた。車椅子に座ったままの老婆をカットすることは、ベッドの上のそれよりも栞さんにとってはるかに手慣れたものだった。ホームの利用者が集まる広々とした食堂での作業が許可されたので、老婆の髪を綺麗に仕立てていく栞さんのまわりでは、十人ほどの老人たちが興味深そうに輪を作っていた。まるで路上の大道芸人のように栞さんは手を動かしながら、まわりの老人たちからの話にも次々と受け応えていた。帰り際、ホームの責任者から「いつかホームとしても団体の依頼をさせてください」と喜ばれ、僕はあらためて名刺を差し出した。
「あの男の子、実は結構おしゃべりなんだよ」
 ある日の昼、僕の事務所を訪れた栞さんは手土産にシュークリームを持ってきてくれた。狭いスペースで栞さんは折り畳み式の椅子に腰を下ろし、僕たちは膝を突き合わせて昼食代わりにシュークリームを食べていた。
「自分の将来のことも冷静に考えてるし、両親に負担を掛けているだろうって申し訳なさそうにしていたし。あと普通にゲームの話もしてたよ」
 栞さんは指先についたクリームをぺろりと舐めた。
「そんなふうには見えなかったな」僕はペットボトルの紅茶を一口飲んだ。「自閉症じゃない十四歳でもなかなか話さないのに。きっと相手が栞さんだったから話せたんでしょう」
「どうだろ。わたし無知だから自閉症ってそもそも詳しく知らなくて、あんまり予備知識を入れないで行ったから、変なことを言っちゃったかもしれない」
「福生でもナチュラルに話してましたね」
「あの人は、すぐにわかったよ。ああ、女性寄りの人なんだなって。部屋に入った瞬間、玄関カーペットの柄とか丁寧にスリッパを用意してくれる仕草とか、あれ、そうかもって気がした」
「本人は床屋より美容室にずっと行きたかったのかもしれませんね」
「というか福生って初めて行ったわ。赤線とか米軍ハウスとか話だけは聞いたことがあったけど、今はあんまり残っていなさそうだったね。あ、そうそう、もし老人ホームから話があったら一日仕事になるよね。朝から夕方まで」
「かなり入居者が多そうでしたからね。定期的な大口案件ができれば、いろんな面で安定しますよ」
「あと決まってるのは六件だっけ。その先はどうするの」
「実はそのことについて、さっきまで考えていたところなんです」
 僕はもう栞さんに同行するつもりはなかった。栞さんの接客態度はスムーズなものだったし、突発的なアクシデントが起こっても栞さんなら対応できるだろう。料金の受け取り手順も憶えてもらったし、僕の会社概要も商品のラインナップも栞さんの頭に入っているから、客からの質問にもその場で答えることができる。デリヘアの運営基盤を揺るがせないためにも、僕はそろそろ本業であるサプリの通信販売に戻る必要があった。
 五〇〇通のダイレクトメールを郵送して一ヵ月も経たないうちに十件の申し込みを受けた。人が髪を切る平均的なペースを考慮すると、あと一ヵ月待てばさらに十件は増える見込みだ。合計二十件の申し込み件数だとしたら、四パーセントの申し込み率。大成功というわけではないが決して悪くはない。全国への展開は人員的なキャパシティ不足でまだ不可能だとしても、東京東部や神奈川東部などの限定的な地域に絞って、新たにダイレクトメールを郵送しても良い数字だ。
「また別の地域にダイレクトメールを送る予定なんです」僕は栞さんに言った。
「関東に?」
「ええ、まだ関東に絞っておいた方が良いと思います」
「わたしは日本全国どこでもオーケーだけどね。でも、どの地域でもお客さんの家でカットするのはおもしろいものね。声を掛けてくれてありがとう、篠原くん」
「僕の方こそ、とてもおもしろいですよ」
 シュークリームを食べ終えると、約束があるからと栞さんは帰っていった。僕はノートパソコンに向かって、ひとまずサプリ販売のために三ヵ月先までの広告スケジュールを組むことにした。糖尿オーナーが手を引いてから、控えていた広告を拡大することで売上は上昇していくと考えていたが、そんな目論見どおりに数字は簡単に伸びなかった。中野に発注して掲載した雑誌や新聞の広告は良くも悪くもない結果で、次の手を考えるヒントにも刺激にもならなかった。むしろ再開してからも注文が少なかったネット広告の方が、結果を詳細に分析して具体的な改善点を洗い出すことができた。紙や電波のアナログメディアは広告効果を論理的に計測できないブラックボックスであり、クライアントにとっては一種の賭けをするように広告費を投入しなければならないことがある。だが巨大ネットメディアのヤフーやグーグル、フェイスブックは広告クライアントのために多くの効果計測ツールを提供してくれるので、一人で仕事をする僕でも数字的根拠と柔軟な予算の増減で広告を出すことができる。
 紙メディアへの広告よりネット広告に多くの予算を振り分ける方針でスケジュールを組み立てながら、一方ではやはり栞さんとの仕事のことを考えていた。もしデリヘアの展開を広げるなら、栞さんが自分の店舗との二足の草鞋を履き続けることは難しくなる。もちろん栞さん本人の選択もあるが、僕からは店舗営業をストップしてもらい専属契約をお願いすることになる。ただ専属になったとしても、栞さんの手だけでは限界がある。全国的に客を増やしていくなら栞さん以外の美容師を何人か雇う必要があるだろう。
 いつの間にか夕日が差していた。窓の隙間から吹きこむ風がマウスを握る手をくすぐる。窓際に置かれたオオルリは、いつか羽ばたくための力を蓄えているように赤い光を一身に受け止めていた。チアキとは互いに予定が合わず、しばらく顔を合わせていなかった。その日は仕事が終わってから中野と会う約束があった。中野と別れた後、タイミングが合えばチアキに連絡するのもいいかもしれない。
 大井町行きの急行電車に乗り、吊り革を握りながら窓の外をぼんやりと眺めていた。夜の都心に向かう車内の座席はほとんど埋まっていた。扉の近くでは入社したばかりのような皺のないスーツを着た若者たちが大声で笑い合っている。笑い声に怯えているのか、座席に座る女の膝の上で赤ん坊が泣き止まない。僕のとなりに立つ中年男は携帯ゲームに夢中で、イヤフォンから音が漏れていることに気づいていない。だがそんな笑い声や泣き声や音漏れは、僕にとって何枚ものカーテンで隔てられた遠い世界から聞こえてくるように感じられた。窓の外の街明かりは大量の流れ星として一瞬で通り過ぎていった。
 糖尿オーナーが会社の株を譲渡する前後で、何か具体的に変わったことは登記簿の変更以外に特にないはずだった。栞さんが帰ってから、ずっとノートパソコンに向かって考えこんでいたせいかもしれない。いずれにせよそのとき、吊り革を握って窓の外を眺めながら、自分が生きているのは自分がいるからなのだという感覚を僕は受けていた。孤独とか淋しさといった感情的なものではない。生きている自分とここにいる自分が今同時にいる。そんな息を吸って吐くような単純な事実が、吊り革を握る手のひらから電車の床を踏んでいる足の裏まで、砂漠に広がる水のように染み渡っていった。車体が大きなカーブを曲がろうとするときも、遠心力に耐えようとする自分と、吊り革を強く握りしめる自分は相変わらず同時にいた。
 通信販売の業界に入り、これまでサプリを売るために広告制作の試行錯誤とマーケットの検証分析を長らく繰り返してきた。それと同じように僕は僕自身を満たすための試行錯誤と検証分析をこれまできちんと重ねてきただろうか。吊り革を握る手を変えて、目を閉じた。僕を満たすものは僕が最もよく知っている、というのは思いこみかもしれない。もし最もよく知っているというのであれば、なぜこれまで退屈でつまらない日々を過ごすことが多かったのだろう。感情や状況というブラックボックスに左右される日々をただ黙認してきたせいなのか。経営者の僕は株主の僕を満たしているだろうか。あるいは売り手の僕は買い手の僕を満たしているだろうか。僕というマーケットに対しての論理的な検証分析を僕は行なうことができているだろうか。
 ふと目を開けた。いつの間にかスーツ姿の若者たちはいなくなり、赤ん坊は泣き止んで、中年男のイヤフォンの音量は抑えられていた。電車は大井町に到着し、僕はまわりの乗客と同じように窮屈なホームに降り立った。
 中野が待ち合わせに指定した場所は、ショッピングビルの中にある大型書店だった。酒を飲んで酔っ払う前に話しておきたいことがあるんですと中野は電話口でもったいぶった。本の売り場の一角にカフェスペースが設けられており、小ぶりなテーブルの席でスマホを操作していた中野に声を掛けた。
「ごめんなさいね、わざわざ出てきてもらって」中野はスマホをテーブルに伏せた。
「顔を合わせるのは久しぶりですね」僕は向かいの席に腰を下ろした。
「なかなか伺えなくて申し訳ない」
「いいですよ。そのために都心から離れた事務所を借りたんですから」
 中野は苦笑した。相変わらず細身のスーツを着ていて、細身のネクタイを締めていた。その服装のせいで中野の体も細身に矯正されているのではと疑いたくなるほど、昔から同じスタイルのままだった。
「最近はちゃんと実家に帰ってるんですか」中野は訊ねた。
「実家はずいぶん前に更地になってますから」
「あ、ごめんなさい、墓参りっていう意味です」
「ここ何年はできてないですね」
「確かに独立してからずっと忙しそうですもんね。お父さんが亡くなったのが確か十年前か。お母さんが亡くなったのは」
「僕が高校生のときです。二人とも癌だったので、僕もそうなるでしょうね。兄弟はいないし親戚とも疎遠だから、このまま独身なら今話題の孤独死が待ってますよ」
「篠原さんなら、いい相手はいるだろうに」
 中野は笑みを浮かべながらも、落ち着かなさそうに遠くに目をやった。中野はヘビースモーカーだが、あえて全席禁煙の店を選んだ。煙草を吸わない僕に気を遣っているのか、それともついに禁煙を決意したのか、あるいは煙草の力も借りたくないほど差し迫った話なのか。中野は正面を向き直して、姿勢を正した。
「俺、会社を辞めようと思うんだよ」中野は眉をひそめて囁いた。
「やっぱり」僕は反射的に言った。
「篠原さんとは二十年来の付き合いだから、最初に言っておこうと思って。かみさんにも会社にもまだ言ってないんだ。篠原さんに言ったのが初めて」
「子どもはまだ小学生だろう。これから大変な時期なのに」
「だからこそだよ」中野は語調を強めた。「篠原さんも知っているとおり、紙メディアを扱う広告代理店は今どこも苦しいんだ。ネットの台頭で新聞や雑誌の部数が減少するにつれて、広告ページも減ってるでしょ。今までぶら下がっていた広告代理店はぽとぽと落ちていってる。うちの会社もかなり危なくなってきてるよ。実際、俺の部下も二人辞めたからね。だからといって今からネット広告に首を突っこもうとしても、時すでに遅し。日進月歩の業界だから、おっさんばかりの代理店にはもう追いつけないさ」
 そこまで話すと中野はカップを口につけた。すでに底の方にしかコーヒーは残っていなかった。
「次の仕事は考えてるの?」中野のコーヒーカップを眺めながら僕は訊ねた。
「いくつかのパターンは描いている。転職するか、起業するか、まずは大きく分けてその二つだけど。じゃあどんな会社に転職するか、あるいはどんな業種で起業するか、具体的なことはまだ決めかねているんだ」
「いずれにせよ、まずは奥さんに相談しなよ。いつ癌で死ぬかもしれない独り者に話しても当てにならないよ」
「篠原さんは俺にとっての戦友だよ」
「あっちはどうなの?」中野の言葉には応えなかった。「あっちとの取り引きはまだ続いているの?」
「あっちって篠原さんが前にいた会社? 昔ほどじゃないけど細々とは続いてるよ。でも発注はだんだん減ってきてる。ネット広告にどんどんシフトチェンジしてるし、そもそもそのためにあの若い社長が任命されたわけだからね。最近は若い女性をターゲットにした化粧品やダイエット商品に力を入れていて、景気は良さそうだよ。社員もまた増やしたみたいだし。交流はないの?」
「まさか」僕は苦笑した。「五年前から誰とも連絡は取ってないよ。オーナーとも数ヵ月前に電話で話したのが最後だったかな。景気が良いならそこで雇ってもらいなよ。広告代理店との交渉役として」
「SNSもろくに扱えないおっさんだよ。無理に決まってるさ。それのあの会社、社員が増えたせいで今派閥ができてるんだよ。人間関係の勢力図がややこしくなってきて、社員同士の足の引っ張り合いもあったりするんだってさ」
「人が集まれば、政治が生まれるもんだね」いつの間にか運ばれていたコーヒーに僕はやっと口をつけた。すっかり冷めていたせいで、腐葉土を溶かしたような味がした。
「出世欲があるっていうのは若い証拠かな」中野は呟いた。「ところでさ、パッケージ商法で何か商売ができないかな」
「起業するってこと?」
「たとえばの話だよ。中身は普通の安いクッキーなのに、包装のパッケージを人気のアニメキャラクターの絵に変えるだけで売れたりするよね」
「版権商売」
「いや、資金がないから版権は無理。たとえば思いついたのは、普通のおにぎりにサランラップを巻いて『女子高生が握りました』っていうシールを貼れば、絶対おっさんたちはこぞって手を伸ばすと思うんだ。なんなら握った女子高生の顔写真を貼ってもいい。新橋あたりでランチの時間帯にワゴン販売をしたら、毎日売り切れだよ」
「そうだな」僕は腕を組んで思案するふりをした。「ぎりぎり、アウトだな」
「そうかな。本当に女子高生に握ってもらうんだよ。バイト代もちゃんと払うし」
「法的なことは置いといて、きっと続かないよ。客がついてこない」
「やっぱり難しいか」中野は指の爪の汚れを取るような仕草をした。「篠原さんはアイデアマンだからな。あのデリヘアっていうやつも篠原さんが思いついたの?」
「え」僕は中野の目を見た。
「あ、ダイレクトメールを見たんだ。俺のお袋が篠原さんのところの商品を買ったことがあったみたいで、こないだ実家に帰ったときに台所のテーブルの上に置いてあったのをたまたま見かけたんだよ」
 僕は腕時計に目をやった。七時を過ぎていた。さっき吊り革を握りながら思っていたことが胸の中でざわついた。何か退屈でつまらない風が吹こうとしている。おそらく中野は僕の仕事に自分も加わることができないかと考えているのだ。デリヘアのダイレクトメールを目にして、僕の会社の調子が良さそうだと踏んだのかもしれない。変わり身の早さとしては、広告代理店の営業職としてあるべき姿勢なのだろう。
「申し込みは、そこそこきてるの?」中野は椅子の上で体の重心を変えた。
「まだ始めたばかりだからね」
「あの美容師の女性は知り合い?」
「そりゃそうだよ」
「きれいな人だね」
「そうかな」
 ほんの少しの間、中野は僕のことを鋭く見ていた。まるで僕の目から侵入して、頭の中を盗み見るような目つきだった。だがすぐに表情を緩めた。
「もうこんな時間か。この近くにさ、鯖のうまい店があるから行こうよ。もっと話したいことがあるし」
「申し訳ないけど」
「え、帰るの」
「この後、人と会うから」
「女だな」
「そんなんじゃないよ。そういえば煙草は止めたの?」
 ふと中野はうつむき、何かを思い出すように小さく笑った。笑うだけで何も答えなかったので、僕は立ち上がり、リュックを手にして店を出る準備をした。
「いや実はさ……」中野は口元を隠すように手をやり、僕に向かって小声で何かを言い始めた。しかしただ息を吹くぐらいの微かな声量だったので、僕には何の言葉も聞き取れなかった。
「じゃあ、退職の日が決まったら教えてください。発注のこともあるし」
 聞き返すつもりもなかったので、最後に僕はそう言って店を出た。中野の声がしばらく追いかけてきたが、僕は一度も振り返らなかった。
 ショッピングビルを出て、混雑した通りを歩きながら駅の改札に着くまでに、LINEでチアキに出勤しているかを確かめた。すぐに返信が届いた。
 ──出勤じゃないけど、ペットショップにいる
 僕は一瞬立ち止まり、返信する。
 ──何か飼うの?
 ──いろいろ見てるだけだよ──久しぶりだし、今から会ってみる?
 ──直接会うって、ばれたら店長に怒られるだろ
 ──ばれたらね
 ──どこのペットショップ?
 ──大井町のショッピングビルの中
 僕は再び足を止めた。目の前はもう駅の改札口で、仕事を終えた人々が次々と溢れ出ていた。人波をよけるように壁際に身を寄せ、スマホに向かってビルの名前をチアキに確かめた。返信には、さっきまで中野と会っていたビルの名前が書かれていた。一瞬、心臓が大きな音を立てた。それまで歩いてきた通りを振り返ってみた。いくつかのビルが重なり合う先に、今中野とチアキがいるはずのショッピングビルが見える。駅から歩いて五分ほどの距離しかなかったのに、壁にもたれて見上げていると、なぜかはるか遠く隔てられた建物のように感じられた。
 ──大井町までは時間がかかりそうだから
 僕は何度か入力し直した後、結局そう送信した。
 ──じゃまたね。来週は普通に出勤してる
 ──雨が降るから早く帰った方がいいよ
 了解、という意味のスタンプをチアキは返信した。
 ショッピングビルの名前を目にした瞬間、なぜ胸がうごめいたのか。同じビルの中に中野とチアキがいることを知ったからなのか。僕が知らないだけで、実は以前から中野もチアキの客で、僕と同じように旅行土産のオオルリを中野も受け取っているかもしれない、そう頭をよぎったからなのか。確率的には考えられないことだったが、決してあり得ないことでもなかった。ゼロではない。チアキには風俗嬢としてどんな男の相手もできる営業の自由がある。中野にしても成人男性として自由に女を買うことができる。そして僕はチアキの客であり、中野の客であった。わかりきっている条件と関係。わかりきっているのに、何か重いものを地面に落としてしまったように心臓は音を立てた。まるでショッピングビルに続く通りのブロックがごっそりと暗い地底へと抜け落ちてしまったように。
 おそらく、中野が退職することで二十年続いた関係は徐々に失われていくだろう。そしてチアキもやがて風俗の仕事を辞めて、僕の前から煙のように消えてしまうのだろう。僕は駅のベンチに腰を下ろしていた。何台もの電車と何人もの人々が目の前を通り過ぎていく。そんな記憶に残らない風景をしばらくぼんやりと眺めていた。ぼんやり眺めながら、やはり栞さん以外の美容師を雇うことなどしない、そう結論を出した。デリヘアを全国的に展開したりなどはしない。確かにダイレクトメールやウェブサイトへの掲載によってデリヘアの申し込みを全国から集めることができる。それによって会社の売上を伸ばせる可能性も大きい。しかしいくら数字を伸ばして人を雇っても、その状況は僕を満たすものではなかった。僕はデリヘアで儲けて会社を大きくしたいのではない。ただ栞さんと仕事をしたいだけなのだ。栞さんと仕事をすることで僕は満たされる。たぶん僕を満たす方法を知っているのは僕ではなく、栞さんだった。

第3話:https://note.com/osamushinohara/n/n81c27b2409d1

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?