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夜行バス①

 固いものや柔らかいもの。温かいものや冷たいもの。速いものや遅いもの、それから死んだように停止してしまっているもの。直方体や円柱や底の見えない穴。細やかに並ぶ線や光の点滅。青や赤や黒に、無限の雑踏と風に舞うビニール袋とタイヤの跡。そしてどこまでも続いている高速道路。
 毎日そんなものに囲まれながら彼は暮らしていた。
 たとえば歩道の青信号。軽快に歩を進める紳士風のシルエットが規則的な点滅を始めている。だが彼は立ち止まろうとしない。夕方に起きたばかりの目を半分だけ開けて、奥歯をかちかち鳴らしながら、同じ言葉を舌の上で転がしている。
「俺は気が狂うかもしれないな」「いや、まだ大丈夫かもしれない」
 右折しようとするトラックの運転手が窓から顔を出して、続けざまにクラクションを鳴らす。だが何人かの通行人が振り向いただけだ。彼は誰かの虚勢なんかに興味がない。その視線は足元に横たわる横断歩道のラインを順番に数えている。その一本一本を踏みしめながら呟いてみる。「でもやっぱりいつか、俺は気が狂うんだろうな」
 自分はこの街の誰よりも腐っていると彼は思い始めていた。そしてそんなふうに夜の街を通り抜けていった。コートの襟を立てながら蛸焼きを頬張っているサラリーマン。片言の日本語で通行人に声をかける中国女。タクシーの長い列に挟まれて煙草を窓から投げ捨てる白髪の混じった運転手。そんな風景を見ていると、彼はいつもなにか冷たく固いものに触れるような気がする。ポケットの中で拳が固くなっている。やっぱりみんな自分よりましな人間に思えてくる。
 大型書店が見えてくると、彼は少しだけ安心する。
 自動ドアが開くと、足早に店の奥まで進んで、棚から一冊適当に手に取る。
『今からでも始められる陶芸入門』
 何でもいい。目的もなくページをめくりながら、頭の中で何かがよぎる。何かが思い出されようとしている。でもたとえ何かを思い出したとしても、自分と関係があると思えなかったので、それ以上思い出すのをやめた。
 本の中では土をこねる順序が写真を使って説明されていた。その後は丁寧に成形をして、鮮やかな色味を出すために釉薬を施していく。彼には知らないことばかりだった。途中から本とは別のことを考えながら、ぱらぱらとページをめくっていった。こんなのはどうせ誰かが勝手に作り上げた架空の世界のことなんじゃないか、途中からそんなふうに疑いたくなってくる。
 やっぱり自分は腐っている。
 でも、他人には真似できない何かができるような気もしていた。
 少し離れて立つ男が不安そうな目つきで彼を見ていた。彼は週に四、五回その書店を訪れる。書店にはいろんな人間が集まってくる。その男のことも彼は何度か見かけたことがあった。いつも同じ灰色のジャンパーを着て、いつも同じ黒いズボンと薄汚れたアディダスのスニーカーを穿いている。蛍光灯にねっとり反射する髪の毛の脂。分厚い黒縁の眼鏡に無精髭を生やして、店内を無目的にうろついたり立ち止まったりしている。
 彼は本を棚に戻すと、男を睨みつけたままその場を離れた。仲間意識を匂わせるような男の視線が気にくわなかった。
「あんなのは殺されればいい」誰にも聞き取れない言葉を呟く。
 彼は女のように細い自分の指が嫌いだった。そしてあんな浮浪者みたいな男と同じ種類の人間に見られたくないと思っている自分のことも嫌いだった。
 突然、ポケットの中で携帯電話が震えだす。
 彼は出入口近くの雑誌コーナーまで移動した。雑誌なんて彼は読まない。そんなものを立ち読みしている連中のことも嫌いだった。ただその一角にはどこか心地よい無関心さがいつも漂っていた。誰かと誰かのすきまにそっと体を忍びこませて、彼はこっそりと携帯電話を開く。
 彼女からのメールだった。二週間ほどまえにネットの掲示板で知り合った彼女。

  今日はどんな日でしたか?
  良かった日? それともあんまり良くなかった日?
  あたしはふつうの日でした。
  昨日とも一昨日とも、そのずっと前の日とも変わらない日。
  たぶん明日も。
  でも学校の勉強はときどきおもしろいかな。
  これからバイト先に行って、仕事もらってきます。
  終わったら、またメールするね。

 液晶画面の時刻は十八時三分を示していた。そろそろ俺もバイトの時間だと彼は携帯電話をポケットにしまった。まわりではさっきよりもスーツ姿の人間が増えている。すぐ近くで携帯電話の騒がしい着信音が鳴った。となりの男がコートのポケットから携帯電話を取り出して、小声で申し訳なさそうに謝り始める。
 その男が背負っているもの。そんなものを目にしてしまったような気がして、彼は足早に店を出た。
 メールの彼女は、彼にとって三人目の彼女になるかもしれなかった。彼は通りを歩きながら、もう一度携帯電話を手にする。そしてそれまで彼女から届いたメールを読み返してみる。彼より四つ年下らしい彼女は映像関係の専門学校に通っているということだ
 彼女の送ってくるメールは天気のことだったり、DVDのことだったり、好きなバンドのことだったり、最近読んだ小説のことだったりした。マスコミが広告的に流している情報をそのまま受け売りしている文章に彼はげんなりさせられることが多かった。ときどき送ってくるミニチュアダックスの画像にもまったく興味が持てない。それでも彼は彼女のメールを黙殺したりはしなかった。

  俺も今から仕事なんだ。
  今日はなんだか気のりのしない一日だった。
  誰の顔も同じ見えて、何を食べても同じ味。
  誰のせいでもないことだとは思うけど
  それでもこうやっていろんなところを
  うろつき回っている。
  なんだか前も同じことを書いたような気がするな。
  信号が変わったので、ここで終わります。

 彼女からのメールと同じ行数なのを確かめてから、彼は送信ボタンを押した。
 街では賑やかさが増していた。眩しい光の下で飲み屋の店員が大声で客を呼びこんでいる。ベンチコート姿の若い女が金融会社のポケットティッシュを配っている。黒服の男が寄り添ってきて地下の風俗店に誘いこもうとしている。
 誰もがそんなものたちの隙間をうまくすり抜けながらどこかへ向かおうとしていた。
 どこへ向かうのかはわからない。
 自分はうまくすり抜けられるだろうかと彼は思う。すれ違いざま誰かに手首をかっ切られるような気もする。
 自分が腐り始めているのはこの街のせいだと思うこともあった。でも街が腐ることはない。街の気が狂うことはない。このまま腐り死んでいくのは自分だけのように思えてきて、彼は地面に捨てられた新聞紙の上に唾を吐いた。
 誰もが何かしらの言葉を口にしている。何でもいい。何か言葉を口にせずにはいられないのだ。しかし彼には何も聞こえない。彼にとって一日ぶんのコミュニケーションは彼女とのメールで充分だった。
 なぜ彼女とのメールをやめないのか、彼自身もよくわからない。彼女にいったい何を求めているのか。それはまるでこの街に自分が何を求めているのかわからないのと同じことのように思えた。
 彼は歩き続けながら想像する。彼女の顔……指……髪の毛……脚……着ている洋服……住んでいる部屋……。
 彼はまだ彼女に会ったことがない。
 彼の住む街からはるか遠い東京で、彼女は暮らしている。

(②へ続く)

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