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いずれ嫌いになる(第12回)

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 会わないでおこうと思っていたにもかかわらず、半年経ってもワタルはヒロミと定期的に密会を重ねていた。行為を終え、別れた後にはもう会いたくないと思う。一人になった途端にヒロミの嫌なところが次々と思い浮かぶのだ。何事も人のせいにしがちなところや、不安定な自分の気分を律することができないところ。だが何日か経つと、ネットカフェでメールのチェックをしてしまっている。そしてヒロミのメールに返信してしまっている。ワタルは苛立っていた。素晴らしい女というわけでもない。肉体的にも年齢的な綻びが現れはじめているし、性格的にも人を不快にさせるところの方が多い。それにもかかわらず、ワタルはヒロミに引き寄せられずにはいられなかった。楽器店の話を聞いたからかもしれない。あのギター教室の娘だということがわかったかもしれない。だからといって、別にあのギター教室のことを気にかけていたわけではなかった。いずれにせよ時間の問題なんだと思った。さらに時間が過ぎていけば、いずれ何もかもが通り過ぎて、いずれ何もかもが嫌いになる。そういうものなんだ。
 七月二日の昼休み、工場の近くの小さな公園でワタルは昼食を食べていた。夏の訪れを告げる気持ちの良い青空が広がっていた。子供を連れた主婦たちが笑い合っている。ワタルがコンビニで買ってきたサンドウィッチを食べていると、彼と同じ作業服を着た青年が公園に入ってきた。同じようにコンビニのポリ袋を持ち、まっすぐワタルのところへ近づいてくる。
「横、いいすっか」
 青年はワタルの返事を待たずに、ベンチに座った。だいぶ前にワタルと同じチームだった青年だった。そのときはわからない作業を青年に教えてやったりしていたが、会社全体の組織編成に伴ってワタルと青年も別々のチームになってしまった。
「なんか久しぶりっすね」青年は菓子パンの袋を開けて噛みついた。
「全然顔合わせてなかったからね」ワタルは食べ終えたサンドウィッチのゴミをポリ袋にいれて口を縛った。
「この倉庫も案外広いですからね。人も多いし」
「うん」
「もう何年になるんすか?」
「もうすぐで丸四年かな」
「へえ、四年ですか。すごいっすね。俺はもうすぐ一年ですよ。なんだかんだ言って時間が経つのは早いですねぇ」
 青年は青空を見上げながら独り言のように呟いた。ワタルは缶コーヒーを口にするついでに腕時計を見た。午後の就業開始まであと三十分残っていた。
「俺ね、ほんと感謝してるんすよ」青年は一つめの菓子パンを食べ終えていた。
「なにが」
「ほら、わからないこといろいろ教えてくれたでしょ。俺が入ったばっかりのときに。すごい細かいことでも親切に教えてくれたじゃないですか。他の人に聞いても適当にしか答えてくれなかったですもん」
「そうだっけ」
「そうでしたよ。それで俺、自分も心優しい先輩にならなきゃいけないなって思ったんすから。でも今のチームになってからは最悪ですよ。先輩も後輩も、みんな冷たい奴ばっかり。誰かが困っていても見て見ぬふりが基本スタンスですからね」
「まあ、いろんな人間が集まってくるからね」ワタルは再び腕時計を見た。
 青年は二つめの菓子パンを半分にちぎってしばらく見比べた後、片方を食べ始めた。中身はクリームだった。「大阪出身なんでしょう? 俺は静岡なんです。やっぱり東京の人は冷たいっていうか、我関せずっていうスタンスですよね。ああ、ここは横浜ですけど、でも同じようなもんですよ。それに比べて大阪はやっぱりあったかいんだろうなぁ」
 青年が口にするような大阪という土地と人に対するイメージをワタルはもう聞き飽きていた。人懐っこく、世話好きで、口は悪いが率直に物を言い、すぐに人の話に割りこもうとする。さらに会話には漫才のようにオチが用意されていなければ怒るという。それはテレビか何かで加工された画一的で単純なイメージだとワタルは思っていた。実際に大阪を知らない人間が勝手に思っていることにすぎない。だけど大阪人自身がそのイメージを演じているのだから始末が悪い。
 だがワタルがつい青年の顔に見入ってしまったのは、自分が大阪出身者ということを青年が知っていることだった。横浜に移り住んでからワタルはそのことを誰にも言ったことがない。知っているのはヒロミと履歴書に目を通した者ぐらいだった。
「もうすっかり東京弁が馴染んじゃってますね。大阪には帰ってるんすか?」
「別に」ワタルは自分の足元に視線を落として、ゴミを入れたポリ袋を手にし、立ち上がろうと体勢を移動した。
「すみません。ちょっとお願いがあるんですけど、聞いてもらっていいですか?」
「お願い?」急に早口になった青年の声に、ワタルは反射的に腰を下ろした。
「本当はこんなこと頼むようなことじゃないとわかってるんですけど、でももしかしたら引き受けてくれるかなと思って」
「何?」
「実は荷物を届けてもらいたいんです」
「荷物」
「そう。でもそんな大きな物じゃないっすよ。ちょうどこれぐらいの大きさです」青年は両手を三十センチぐらいの間隔に開けた。「大きさはこれぐらいなんですけど、でも持ち運ぶのにはちょっと難しくて……」
 ワタルは青年の顔をじっと見つめた。若者特有の不安そうな表情が見え隠れしていたが、人を罠におとしめようとするような匂いは少なくとも感じられなかった。「難しいっていうのは、荷物に問題があるの? それとも君自身に問題あるのかな」
「えっと……両方です。まず荷物自体が結構重たいんです。実際に計ったことはないんですけど、たぶん五キロくらいかな。だから決して持てない重さじゃないんすけど、それを長い時間持ち運ぶのは結構辛いと思うんすよ。でも交通費はもちろん自分が後で持ちますよ。タクシーを使ってもらってもオッケーです」
「それで君の問題の方は?」
「それはなんというか、俺がそれを持って行くわけにはいかないんです。持って行く相手と顔を合わせるわけにはいかないんす。そういう事情というか約束があるんすよ」
「宅配便とかは?」
「それも避けたいんす。知らない他人の手に渡れば、どこでどうなるかわからないし。なるべくなら知ってる人に運んでもらいたいと思ってて。でもそんなこと頼めるような友達もいないし……実は俺、こっち来てから友達一人もいないんすよ、はは。それで信頼できるような人って考えて……っていうことで頼めるかなぁって思ったんす」
「何か複雑な事情がありそうだね」
「でも迷惑は絶対かけませんし、何かに巻きこまれるようなことも絶対にありません。頼む内容も、その荷物をある場所に運んでもらうだけ。それで終わりです。もちろん経費も払いますし、お礼もさせてもらいます。こんな言い方は失礼になるかもしれないですけど、ただの簡単なアルバイトと思ってもらって大丈夫ですから」
 昼休みの時間が終わりかけていた。ワタルと青年はベンチから立ち上がって、鉄製のごみ箱にポリ袋を捨て、倉庫に戻った。青年の話には不明な点が二つあった。一つは荷物の中身だった。重さ五キロで、三十センチぐらいの大きさのもの。青年の話し方では、どうやら青年自身も荷物の中身は知らないようだった。そして青年自身が届けに行けないような事情。そのことも青年は話したがらなかった。何か不穏な要素が絡んでいることは明らかだった。さらにもう一つ不明な点を挙げるとすれば、なぜ自分なのか? 青年は信頼できる人と言ったが、そこには何か取って付けたような嘘臭さが漂っているのを認めずにはいられなかった。
 それでも七月五日、ワタルは青年と待ち合わせ場所に決めた駅の改札口に向かうことにした。日曜日ということもあってビニール製の浮輪を手にした家族連れや、真っ黒に日焼けしたカップルが行き交っていた。改札を出るとヤンキースのキャップをななめに被った青年が近づいてきた。
「すいませんね。休みなのにわざわざ出てきてもらって。これなんです」
 ワタルが受け取った箱はやはり三十センチほどの立方体の段ボール箱で、開封口にはガムテープが何重にも貼られていた。持った瞬間、肩にぐっと力が掛かった。青年の言ったとおり持って歩くには骨が折れそうだった。
「そんなに丁寧に扱わなくても大丈夫っすよ。どっかに当てちゃっても平気っすから。結構丈夫にできてるんですって。それじゃここからタクシーでお願いしますね。ほんと申し訳ないっす」
 青年から渡されたメモには詳しい住所とマンション名が書かれていた。駅前のロータリーからタクシーに乗りこみ、行き先を運転手に告げた。五十歳くらいの運転手で、眉毛には白髪が混じり、小さな声で返事をしただけで車を勢いよく発進させた。
 青年からの頼みごとを引き受けるつもりはなかった。その日はいつものようにヒロミと会うつもりでいた。しかしメールは送られてこなかった。普段なら金曜の夜までには待ち合わせ場所と時刻を知らせてくる。一日に何回も送ってくることはあっても、メールがない週は一度もなかった。何かあったかなと予感はしたが、かといって電話をしたりメールを送ったりして、詮索したくはなかった。別にそれならそれでいい。メールが来ないなら会うことはない。それだけのことだ。
 窓の外の風景をワタルはぼんやり眺めていた。車が進んでいるうちに、まわりは閑静な住宅街になった。新たに開拓された町のようで、坂の起伏が激しい場所に二階建ての新しい家々が建ち並んでいた。道路の両脇に銀杏の並木が続き、サングラスをかけた女が大型犬を散歩させ、ある庭先では子供たちがスプリンクラーで水遊びをしていた。そんな場所を訪れたことのないワタルにとってそれは嘘っぽい光景に見えた。こんなところで本当に人が生活しているのだろうか。坂を上ったり下ったりしていくうちに、ワタルは自分の体がなんとなく宙に浮いているような感覚に襲われた。膝の上では段ボール箱の中で、それはがたがたと揺れていた。なかで丸いものがごろごろと蠢いているようだった。
 タクシーが止まった場所は、住宅街が終わりかけた場所の細い道の突き当たりにあるマンションの前だった。精算をして、ワタルが段ボール箱を抱えながらゆっくりと車から降りると、タクシーはバックのまま勢いよく道から出て、曲がり角で向きを変えるとすぐに見えなくなってしまった。ワタルはマンションを見上げた。古びた長細いマンションで、亀裂が走った壁には雨水が染みこんでおり、ごみ捨て場にはバナナの皮がはみ出たビニール袋が捨てられていた。あるベランダには同じ色のエプロンが三枚並べて干されている。ワタルはとりあえず段ボール箱をごみ捨て場のブロック塀に置き、青年のメモをポケットから取り出した。五〇二とある。外から数えたところ五階が最上階のようだった。そこまで段ボール箱を運ぶのは容易ではなさそうだった。なぜなら一階の玄関ホールのどこにもエレベーターが備えつけられていなかったからだ。管理人室もなく、集合ポストからはみ出たダイレクトメールが床に散らばっている。ドアの向こうに隠されるようにある細く急な階段以外、五階に荷物を持って上がる方法はなかった。
 五〇二号室の表札の「二」の一部が欠けていたせいで、最初五〇一と見間違った。しかしもう一つの五〇一号室を発見し、戻ってみると、「二」の上の横棒の剥がれた跡を見つけた。そこでようやくワタルは段ボール箱を床に置いた。そして真っ赤になった十本の指をまっすぐに伸ばした。腕の筋肉は強張っていて、シャツの下では汗が流れ落ちていた。エレベーターがないことなんて一言も聞いていなかった。ワタルは青年の顔を憎々しく思い出した。こんなに汗をかくことになったのは予想外だった。何か不当におとしめられたような気にもなった。階段を上がっている途中、ずっと箱の中のものはごろごろと揺れていたが、別に割れたり欠けたりするような音はしなかった。あとはこのよく知らない何かを知らない誰かに渡すだけだ。
 一息ついて、インターホンを押そうとした瞬間にドアが勢いよく開いたので、ワタルは反射的に身構えた。出てきたのは女だった。長い髪をひとまとめにして後ろで束ね、タンクトップとジーンズ姿で、額にはうっすらと汗が滲んでいた。歳は自分と同じぐらいか、少し上のように見えた。
 女は何も言わず、半分開けたドアのノブを握ったまま、ワタルの顔を無表情に見つめていた。
「これ、持ってきたんだけど」ワタルは床を指さして言った。そしてもう一度表札を確認してみた。不充分ではあるものの、そこには確かに五〇二とある。
 女はワタルの指した方をゆっくり見下ろした。まるで別にそんなものに大した用はないというような視線だった。「あなたが持ってきたの?」女は再び視線をワタルに戻した。
「ええ、そうだけど」ワタルは戸惑った。
「あぁ、そうなの。そうだったのね。ご苦労さま」
 しばらくのあいだワタルは玄関先で女と視線を合わせていた。女の小さな目は少し充血していて、何回もまばたきを繰り返していた。痩せこけた頬が角張った輪郭を強調させている。その顔はワタルに何かを思い出させようとしていた。
「ここに置いといていいのかな?」ワタルは訊ねた。
「えっと……そうね、じゃあ、ここの中まで入れてくれるかしら。ごめんなさいね。あんまり寝てなくて」
 女はドアを大きく開け、片手で支えたまま、少し後ずさった。ワタルは腰を下ろし、再び段ボール箱を持ち上げて、玄関の中に一歩だけ足を踏み入れた。顔を上げたのは一瞬だけだった。部屋の中は薄暗く、廊下には大きな段ボール箱がいくつも積み上げられていた。引っ越してきたばかりなのか、それとも引っ越そうとしているのかそんな雰囲気だった。
 靴脱ぎ場に荷物を置くと、ワタルは女の体の下からすばやく身を引いて、外に出た。「すいません、じゃあこれで」
「あ、ちょっと待ってて」
 女はそれだけ言うと、部屋の奥に引っこんだ。ドアが大きな金属音を立てて閉まる。どこかで会ったことがあるのかもしれない、どこかで見たことのあるような顔だ。不思議に思いながらワタルは五階からの町並みを見渡した。
 やがてドアが開いた。女は微笑んでいる。片手でドアノブを握り、もう片方の手を後ろに隠している。
「宇宙人」
 女は小さな声で言った。そして後ろに隠していた手を自分の耳元に持っていった。その手には音叉が握られていた。子供のときからワタルが持っているものと同じタイプのものだ。
「こんなところで何してるのよ、ワタルくん」
 女は昔と変わらない高い声を出していた。そして鼻の下を伸ばして、くんくんと音を立てて自分のまわりを匂った。
「こうするとよく匂うようになるのよ。やってみなさいよ、ワタルくん」
 ワタルは苦笑いを浮かべた。全身から一気に汗が引いた。女の言葉に何も答えることができない。ワタルは自分の強張った表情を隠すように女に背中を向けた。そして足早に階段を下りた。もう用は済んだんだ。こんなところにいつまでもいる必要はない。後ろから何度か女の声が聞こえたが、何を言っているのか聞き取れなかった。
 一階まで下りたとき、ワタルは自分のミスに気づいた。タクシー会社の電話番号を控えておくのを忘れていたのだ。流しのタクシーが走っているような大きな道路も近くにありそうにない。仕方なく行きのタクシーから見た風景を記憶に駅まで向かうことにした。どこかでタクシーを拾えばいいだけのことだ。しかしどこまでも歩いても、その新しい住宅地は終わらなかった。同じように家が続き、同じような道と曲がり角が進み、同じ場所をぐるぐると回り続けているだけだった。
 こんなところで何してるのよ、ワタルくん
 あの女はそう言った。見知らぬ町を迷いながら、嫌なものに直面してしまったような後味の悪さをワタルはいつまでも感じていた。

(13へ続く)

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