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いずれ嫌いになる(第13回)

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「ミドリカワユウジ」と打ちこんで、ユウジは検索ボタンをクリックした。インターネットの成人向けサイトを閲覧している最中、他のミドリカワユウジがいったいどんな人物なのか、ふと知りたくなった。翻訳家、動物病院の院長、大学の英文科の教授、少年野球の監督……。他にはアダルトビデオの男優や破産した会社の社長などがあったが、だいたい他のミドリカワユウジは立派にやっているようだった。ユウジは柱に掛けられた時計を気にしながら想像する。もしかしたら近いうちに自分のこともこうやって列挙されるかもしれない。そう思うと、薄っぺらなモニターの画像に現実味が帯びてきた。
 
 ミドリカワ楽器店の店長は布団の中で眠れずにいた。何度かトイレに行ったり、麦茶を飲んだり、テレビの深夜番組を見たりしていた。だが眠気はいっこうに訪れてくれなかった。目を閉じて、エアコンの送風口の貧乏くさい音を耳にしながら、妙な胸騒ぎを感じていた。そして考えたくもないことを枕の上で考えてしまう。
 きっともう自分は駄目やろう。昔の夫と同じ症状や。店は畳むしかない。でもあの子はどうなるんやろう。あの子はまともに働いてくれるんやろうか。一度、大げんかをしたことがあるのを彼女はふと思い出した。二年留年した末やっと大学を卒業したのに、全然働く様子のない息子を彼女は見かねて言った。
「就職は決まりそうなんか?」
 息子は床に寝転びながら、イギリスのロックバンドのライブビデオを見ているところだった。「就職なんかせえへんよ。そんなんせんでええんや」
「どっか知り合いの人とかから紹介してもらえるんか」
「そんなんちゃうよ。ええから放っといてくれ。うるさいな」
 それから何度か短い問答を繰り返した後、息子の考えの中に働くという選択肢がまったく存在していないことを彼女は理解した。そもそも息子に将来に対しての考えというものがあるのかどうかも疑問だった。姉の部屋での自慰行為を目にして以来、強くはっきり物を言うことはなんとなく避けてきたのだが、そのときばかりは怒鳴り声を上げざるを得なかった。息子の自堕落な生活態度や、社会人として自立しようとしない甘い認識、そして父親を引き合いに出して、社会の脱落者というものがどんなにみっともないものかを説明してみせた。息子はテレビの画面から目を離そうとせず、足の指先で貧乏ゆすりをしていた。我慢できなくなった彼女がテレビの電源を切ると、息子はまるで攻撃を仕掛けられた猫のようにすばやく起き上がった。冷たい怒りに満ちた固い表情に変わっていた。
「俺の勝手やろ!」息子は怒鳴った。
「何が勝手や。勝手に自由にしたかったら、この家から出ていって一人で暮らしてみ!」
 最後の言葉あたりで彼女は涙声になった。
 息子は大きく息を吐いた。「今からバンドの練習があるから」そう小さく言って部屋を出ようとした。
「ミュージシャンなんか考えてるんちゃうやろな。そんな夢みたいなこと無理に決まってるからな」下を向き必死に嗚咽を止めながら彼女は言った。
「そんなこと考えてへん」息子は答えた。「もうええんや。俺のことはもうええって思っといてくれ。いずれ自分でちゃんとするから」
 そんなことを思い出しているうちに、ミドリカワ楽器店の店長の手や足の先は冷たくなっていた。それでも布団の中でじっと身を固めていると、今度は耳鳴りがしてきた。頭の奥を突き抜けていくような鋭い金属音だ。彼女はひどく哀しくなった。自分のことが哀しかったし、息子のことが哀しかった。きっと息子は女性と付き合ったことがないんやろう。誰かと本気で心を通い合わせたことがないんやろう。母親である自分ともまともに話をしようとしない。夫がいたときは苦しい生活ではあったもののそれなりに楽しく暮らしてきた。だが夫が死んでからは、苦しさだけが生活を重く支配するようになった。なぜこんなことになったのか、いつからこんなふうになってしまったのか、彼女は長いあいだ目を閉じていた。
 やがて彼女は白飯を炊き始めた。プラスチックのカップで五合ぶんの米を掬いとり、水道水で五回ほど研いで、電気炊飯器にセットした。時計の針は四時を回っていた。もしかしたら誰かが帰ってくるかもしれないと彼女は思った。あるいは帰ってきてほしいと望んでいた。いずれにせよ帰ってくるなら食べる物を用意しておかなければならない。台所のテーブルで頭を伏せ、複雑に絡み合ったドレッドの髪の毛の一本一本を指先でほぐしながら、彼女は白飯が炊き上がるのを待っていた。彼女はまだ知らなかった。もうその家に帰ってくる者は誰一人としていないことを。

やはり四時過ぎに女はコンビニから出てきた。私服に着替え、賞味期限切れのおにぎりが入ったポリ袋を手にして、自転車にまたがった。ユウジはすでにシャッターが閉じられた書店の前から女の様子を観察していた。ネットカフェで閲覧していた女体の無修正画像を思い出して、自分の股間を必死に興奮させようとしていた。しかし同時に、相手をうまい具合に茂みの中に押し倒す段取りの確認と、果たしてそれがうまく成功するのかという不安が渦巻いて、彼の舌は乾いていた。
 女が自転車で走り出してしばらくしてからユウジもペダルを漕ぎ始めた。相手が走るのは大きな国道沿いだった。車は絶え間なく走り、二十四時間営業のファミリーレストランやレンタルビデオ店が並んでいたので、深夜でも人通りは少なくなかった。尾行がばれることはないだろうが、念のため五十メートルほどの間隔をあけて女の後を追った。女はいつもと同じように薄着だった。赤いTシャツにタイトなジーンズ姿。もしかしたらジーンズを脱がせるのに手間取るかもしれないが、そのときは石か何かで殴ればいい。あのボウリングの玉があれば、とユウジは思った。あれが今でも自分の手元にあれば、もっと冷静でいられるのに。
 これから自分のやろうとしていることが本当に起こることなのか、ユウジははっきりと掴めないでいた。暗闇で揺れる女の小さな赤い背中をひたすら追っていると、次第にその背中がどこか知らない世界へ自分を連れていこうとしているかのように思えた。ペダルを漕いでいるうちに、両足が地面から少しずつ離れていって、体が少し宙に浮かんでいるような気もした。怖じ気づいてるんや。臆病になってる証拠やと自分を馬鹿にした。肉体は女を追っているが、精神は逃げようとしている。自分のやろうとすることを現実のものにするのは結局自分自身なんや。現実に思えないのは、現実じゃないところへ逃げこもうとしているだけのことなんや。
 やがて女は柵のあいだを通り過ぎて、公園の中に入った。さすがに公園の中には人の姿はなかった。ユウジは女との距離を徐々に縮めていった。電灯が少ないぶん気配を感じられる危険性も少なくなるし、暗闇の中で女を見失うわけにはいかなかった。なるべくペダルの音がしないように漕ぎ、平坦な道を走ることを心がけた。途中でジョギングシューズを履いた初老の男とすれ違ったが、こちらには見向きもしなかった。空には星がいくつか散らばっていたが、端の方はすでに白み始めていた。もしかしたら間に合わないかもしれない。顔を見られるかもしれない。でも彼には他の選択肢はもう残されていなかった。あの少年に言ったことを彼は思い出す──いい演奏がしたいならセックスするな。これが本日のワンポイントアドバイス──きっとそれは正しい意見だったと自分でも思う。もし今ギターを演奏することになったら、全世界の人々を魅了することができるやろう。きっとどんなプレイヤーよりも素晴らしい演奏ができるに違いない。でも、もうそんなことはどうでもよかった。今抱えているものを吐き出さずにはいられないのだ。もしずっと抱えたままでいるなら、俺はいつか本当に自殺してしまうに違いない。
 脇道が見えてきた。ユウジはさらに距離を縮めた。女は気づいていないようだ。いや、すでに気づいているかもしれない。もしかしたら今夜、書店の窓越しから見ていたときから気づいているのかもしれない。恐怖が心を捕らえそうになったが、ユウジはさらにペダルを早めた。もう今しかないのだ。今がなくなれば、自分の将来もなくなる。女の背中は自分を将来へと導いているのだ。目の前から女の背中が消えた。脇道に入ったのだ。脇道の距離は三十メートルぐらいしかない。ユウジはサドルから尻を上げて、全体重をかけてペダルを漕いだ。今にも消え去りそうな希望を必死で掴みとるようにあがいた。ブレーキをかけずに脇道の角を勢いよく曲がる。
 だが、そこに女の背中はなかった。向こうの方に柵が見えるだけで、あたりはしんと静まっていた。ユウジは自転車を止め、地面に足を下ろした。女が脇道に入って、数秒しか経っていなかった。女の足でそんなに早く逃げ切れるはずがない。しかしまわりには誰もいなかった。ユウジの呼吸は荒れていた。激しい運動をしたのは久しぶりだった。ハンドルを握り、肩を上下に動かしながら、まわりを見回す。風で茂みが微かな音を立てている。そこに誰かが潜んでいるんじゃないかと思えてくる。もしかしたら見張られていたのは自分の方だったのかもしれない、そんな不安が押し寄せてくる。
 すべて徒労に終わってしまったように彼の目は空ろになった。次の瞬間、その空っぽの目に差しこんでくる光があった。白く眩しい人工的な光だ。その光は仲間を集めるように二つ、三つに増え、やがてユウジの疲れきった全身を真っ白に照らし出した。その光の外側へ逃げることはもうできなかった。
 彼を取り囲んだのは、懐中電灯を手にした屈強な体つきの警察官たちだった。

(14へ続く)

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