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髪をかきあげて竜巻 第四話

 シーズンということもあって、十二月はデリヘアの予定が隙間なく埋まっていた。電話で申し込んでくる客を何人も断らざるを得ないほどだった。あらかじめ栞さんにはスケジュールをメールで送っていた。東京、千葉、埼玉、神奈川、四種類の訪問先に対して、ジグソーパズルを組み合わせるようになるべく無駄なく効率的に予定をはめこんだつもりだったが、それでも栞さんの移動距離は相当なものだった。おそらく毎日外回りをしている営業職よりも関東圏を飛び回っているだろう。大丈夫ですよ──という栞さんからのあっさりとした返信に申し訳なさを感じながらも、大変ですがよろしくお願いします──と僕も同じくシンプルに返した。
 岡山以来、僕と栞さんは顔を合わせていなかった。繁忙期に入り栞さんは毎日誰かの髪をカットし続けており、僕はサプリ販売のためのバナー広告やダイレクトメールの制作に追われていた。業務連絡はメールとLINEでやりとりし、急いでいるときは電話で話した。栞さんはいつものように話し、僕もいつものように相槌を打っていた。以前と何も変わらなかった。岡山のホテルの前の信号で交わされた会話なんて、きれいさっぱり片付けられたみたいだった。バーの席に座っていたときに感じた空気の塊も、まわりの空気の流れにすっかり馴染んで影を潜めたように思えた。
 それでも、と僕はノートパソコンの画面を見つめる。それでも僕は栞さんを求めている。この先、空気の塊が再び出現するのであれば、僕はまた飛び越えようとするだろう。僕が満たされようが満たされまいが、何を知っていようが知っていまいが、結局のところ僕は僕の責任を完全に取ることなんてできない。少なくとも栞さんを求めている気持ちにおいては。
 いつのまにかキーボードを叩くスピードが早くなっていて、電話が鳴っていることにもしばらく気づかなかった。受話器を取ると、相手はコールセンターの担当者だった。
「お客様からのお問い合わせをお伝えします」冷静な声だった。
「ちょっと待ってください」僕は作りかけていた広告データを一旦保存した。コールセンターから電話が掛かってくるときは大抵クレームだ。話が長くなることが多い。「どうしました?」
「今日デリヘアを受ける予定のお客様から電話がありまして、約束の時間になっても担当の美容師の方が家に来ないということなんです」
 僕はノートパソコンの画面を見た。時刻は十三時三十分。カーソルを動かして、スケジュールのファイルを開く。【十三時、小田原、六十七歳、女性、初回客】。栞さんが約束の時間に遅れたことは一度もなかった。毎回ずいぶん早めに最寄りの駅に着いて、しばらく時間を潰しているんだと言っていた。
「わかりました。こちらで早急に確認した後、私から直接お客様に電話します」
 受話器を置くと、僕は栞さんのスマホに電話を掛けた。コール音がいつまでも鳴り続ける。やがて留守番電話の機能に切り替わったので、折り返しの電話が欲しいというメッセージを残した。至急連絡ください──とLINEで送信する。既読にはならない。十分待って、何も反応がなかったら客に電話することにした。その間に栞さんが乗っているはずの電車の運行情報をネットで確認する。遅延や事故はなく通常運転をしているようだ。事故? 交通事故あるいは事件に巻きこまれた可能性がよぎった。だとしたら小田原駅に着いてから遭遇したのかもしれない。小田原周辺のニュースを検索するが、目ぼしい記事は見つからない。十分が経過しようとしている。LINEのメッセージに既読マークはついていない。僕は顧客管理システムで小田原に住む六十七歳の女を検索し、電話を掛けた。
 女は憤っていた。せっかく時間を作って楽しみにして待っていたのに、連絡もなく全然来ないじゃない。一体どうなってんのよ。僕は平身低頭に謝った。この度は本当に申し訳ございません。今担当の美容師とまったく連絡がつかない状態でして、もしかしたら何か事故に遭った可能性もありますので、各所に確認しているところです。ご迷惑をお掛けしておりますが、連絡が取れ次第お客様のお宅へ伺うように美容師に申し伝えます。今しばらくお待ち頂けないでしょうか。女は引き下がらなかった。そんなのこっちの知ったことじゃないわよ。事故か何か知らないけど、もっと緊密に連絡を取り合っておきなさいよ。もういいわよ。うちに来なくていい。こっちにも出かける用事があるんだから。あと、おたくのサプリはもう買わないよ。ちっとも効きやしない。こんな詐欺みたいな商売を続けてたら、いつか痛い目にあうわよ。僕がさらに謝罪の言葉を言おうとすると、電話は唐突に切られた。
 女の購入履歴を調べると、二年にわたって鉄分と血圧のサプリを毎月一つずつ買っていた。これからも長く購入してくれるかもしれなかった優良顧客を失ってしまったわけだ。二年の売買関係なんて一瞬で崩れ去る。小田原での約束は十三時からだった。僕はもう一度スケジュールのファイルを開いた。小田原の前に一件、デリヘアの予定が入っていた。【十時、平塚、七十二歳、男、二回目】。この客からクレームがないということは、平塚ではきちんとカットが行なわれたのだろう。僕は七十二歳の男に電話を掛けてみた。おそらく妻と思われる女が出たので、今日カットを受けた夫に代わってもらった。
「本日はどうもありがとうございました」僕は早口で言った。
「こちらこそ丁寧に切ってもらって、楽しい時間を過ごしましたよ」
「品質向上のためにアンケートを取っているのですが、本日の美容師の対応は問題ありませんでしたでしょうか」
「ええ、問題があるどころか、とても満足しておりますよ。柔らかい物腰の方で、こちらの話も聞いてくれましたし、あちらもご自分の話をしてくださいまして、非常に楽しい時間を過ごしました。もちろんお仕事はお仕事できちっとされておりました。とてもリラックスさせてもらいましたよ」
「時間どおりには訪問いたしましたでしょうか」
「約束の五分前にはインターフォンが鳴って、一時間ほどですべての作業が終わり、帰っていかれました」
「そうですか。わかりました。お時間を頂いてありがとうございます。今後のサービスに役立たせて頂きます」
「また来てもらいたいぐらいですよ」夫は笑った。「この時期は忙しいんですと仰っていました。午後からももう一件、小田原に行くことになっているとか。そりゃあ、あの方だったら人気が出るでしょうね。愛嬌があって、きれいな格好もされていたし。まるで今からデートに行くような感じでしたよ」
「きれいな格好、ですか」
「はい、深緑色のプリーツスカートを穿かれていました。服飾関係の仕事をしていたものですから、ちょっと見ればわかります」
 栞さんが最近どんな格好をしてデリヘアに赴いていたのか、僕は把握していなかった。ただ岡山のときはフォーマルなパンツを穿いていた。「彼女は確かに、これから小田原に行くと申しておりましたか」
「うんと……そうなんじゃないかな。そうはっきりとした言い方ではなかったけど、私が訊ねると、午後からは小田原の予定が入っているとは仰っていましたがね。何かあったんですか」
 あくまで品質向上のためのアンケートですと、僕は電話を切った。
 追い立てられるようにLINEを確認するが、既読マークはやはりついていない。再びスマホに電話を掛けても、すべてのコール音は空しく沈黙の中に消えていった。栞さんの自宅に電話を掛けてみようか、そうよぎったが僕の手は反射的に動かなかった。平塚を十一時過ぎに離れたとしても、距離を考えれば今の時間に自宅に到着しているとは考えにくい。たとえもし自宅に帰っている状態だとしたら、スマホの着信にはすでに応答しているはずだ。栞さんの自宅には誰もいない。栞さんの夫も仕事でいないはずだ。そう、僕が自宅に電話を掛けても、栞さんの夫が電話に出ることはない。出ることはないはずなのに、僕の手は拒否するようにスマホを机の上に放り投げた。
 結局その日、栞さんから何の連絡もなかった。小田原や平塚で事故や事件が起こったニュースもどこにも見つからなかった。夜の八時を過ぎていたが、何も食べる気がしなかった。机の前でスマホを頻繁にチェックしていて、広告の制作はいっこうに進まなかった。天敵を警戒している小鳥のように心臓がずっと小刻みに音を立てていた。喉の渇きがおさまらず、ペットボトルを何本か空にした。翌日のデリヘアは横浜だけだが、朝から夕方まで三件の予約が入っている。今日のうちにキャンセルした方が良いかもしれない。その方ができるだけ客に迷惑を掛けないで済む。しかし僕はまだ僕を押しとどめていた。まだ栞さんはどこにいるのかもわからない。それなのに明日も戻ってこないと判断することはできない。あるいは栞さんの自宅にも電話を掛けるべきだった。栞さんの夫に事情を伝えるべきだった。もしかしたら栞さんの夫が何かを知っているかもしれない。
 だが僕は誰とも話す気になれなかった。栞さんの行方を心配していたこともあるが、ずっと一人で会社を切り盛りしてきた疲労が急に背中に覆い被さってきた。誰かに何かを伝える前に、僕自身が状況をきちんと把握しきれていない。栞さんの行方がわかならくなったのは今日の昼からだ。まだ半日も経っていない。たった半日、大人が姿を見せなくなるぐらい大したことではないともいえる。明日の朝になれば、すべては元どおりに戻っているかもしれない。今夜はひとまず家に帰り、シャワーを浴びて、ベッドに入ることにしよう。僕はノートパソコンの電源を落とし、リュックを背負って、事務所の電気を消した。ドアを閉めるとき、ふといちばん奥の窓が目に入った。街灯の白い光がぼんやりと差しこんでいる。置き去りにされてしまったようなオオルリのシルエットが目に入り、ドアをそっと閉めた。

 僕は栞さんに髪をカットしてもらっていた。
 自宅のベッドの上で僕はヘアエプロンを着けてあぐらをかき、栞さんは僕のまわりを忙しなく動き回っている。
「どこにいたんですか」僕は訊ねる。
「ずっとこの部屋にいたよ」
「ずっと?」
「そう。毎晩この部屋に帰ってた。でも篠原くん、全然帰ってこないじゃん」
「それは申し訳なかったですね。でも、僕もこの部屋には帰ってましたよ」
「それは半分だけね。半分の篠原くんは帰ってきてたけど、そっちはなんだか幽霊みたいにふわあっとあらわれて、ふわあって寝るだけ。あともう半分の篠原くんは、きっと女の子のところにでも遊びに行ってたんじゃないの」
 僕はベッドに横たわっている。すでに眠りに入っている。眠りに入っている僕を、部屋の上から僕は見ていた。眠る僕はいくつかの寝言を呟いている。僕の眠っている横で、栞さんはペンとノートを持ち、熱心に僕の寝言を書きとめている。
「オオルリ、マッカラン、プリーツスカート」
 栞さんはそう僕の耳元で囁く。僕は目を覚まし、体を勢いよく起こす。栞さんは不思議そうな表情を浮かべている。僕はためらうことなく栞さんの手を握る。そしてそのまま引き寄せようとする。引き寄せられ、倒れそうになりながら栞さんはもう片方の手で長い髪をかきあげる。かきあげられた髪は空気の渦を作る。だんだん空気の渦の回転半径が小さくなり、空へと上昇する軌道を描きながら、やがて竜巻が形づくられる。栞さんの体が空中に浮かび上がる。そして竜巻と同じようにくるくると回転しながら、遠い空のどこかに消えていく。手を伸ばしてもすでに遅い。樫本さんが言ったように、もうどこにも見つかることはない。
 目を覚ましたとき、僕は一人でベッドに横たわっていた。当たり前のように栞さんはいない。スマホを確認しても、栞さんの存在を示す形跡はない。
 明け方の五時だった。僕はベッドから出て、トイレに行き、キッチンでコップ一杯の水を飲んだ。そして顔を洗って歯を磨き、服を着替えて、昨夜コンビニで買ったサンドイッチとサラダを食べた。カレンダーを確かめ、不燃ごみを大きな袋にまとめて、仕事に行く準備をした。玄関のドアに鍵をかけ、がたがたと不吉な音を立てるエレベーターで一階に下り、すでに捨てられていた不燃ごみのいくつかに自分のぶんも加えた。遠い空では朝焼けがまだ残っている。この数日で急に冷えこみが強くなった。駐輪場から自転車を出し、結露で濡れたサドルを拭いてから、僕はペダルを漕いだ。
 おそらくもう栞さんは戻ってこないのだろう、頬を切るような風に目を細めながら僕はそう思った。夢を見たせいもある。川面に飛び降りた子どもが空中で消えてしまったように、栞さんも竜巻に連れ去られてしまった。しかし夢だけではない。栞さんは何もかも放ったらかしにして、突然いなくなるような人ではなかった。仕事や約束や責任をびりびりに破いて、風に飛ばすような人ではなかった。ただもし、それでも栞さんがそうするときがあるのならば、それは栞さんの意志によるものなのだろう。すべてを置き去りにして、体一つで消えてしまおうとする固い意志がそこにある。そしてそこには、もう二度とこちらには戻ってくることはないという強いメッセージが焼印のように示されている。
 事務所に着くと、僕はコールセンターに電話を掛けた。二十四時間対応の受け付けではあったが、早朝ということで昨日とは違う担当者が電話に出た。担当の美容師が急病で長期入院することになったので、デリヘアへの申し込み受付をすべて中止してほしいと僕は伝えた。そしてすでに予約を受け付けている六十件ほどの客に対しても、キャンセルの電話を掛けてほしいと頼んだ。ただ、できるだけ早く伝えた方が良いため、二十件は僕が直接電話を掛けることにした。
 その日に予約が入っていた客からさっそく電話を掛けていった。初めて申しこんだ客はおおかた納得してくれた。急病による長期入院という理由に強く言い返せなかったのだろう。他の美容師はいないの? という質問には、量より質を優先しておりますのでという回答で収めてもらった。以前にデリヘアを受けたことのある客は、栞さんの体調を心配していた。予定していた日にカットができないことよりも、栞さんの容態についていくつも質問してきた。自閉症の息子を持つ母親も憂いている様子で話した。「一体何のご病気なのかしら。プライベートなことだからあまり詳しくは聞かないけど。私と同じぐらいの年齢だし、ホルモンのバランスが変わる頃だからね。息子もいつも楽しみにしてたのよ。表には出さないけど、滝乃瀬さんが来る日が近づいてくると、どことなく浮ついているのよ。鏡を見て、いつまでも髪をいじったりしてね。息子もとても残念がると思うわ。でも仕方ないわね。体調が戻るまでゆっくり休んでくださいと伝えておいください」
 二十件の客に電話を掛け終えると、僕はしばらく事務所の壁を見つめていた。客の反応は僕が想定していた以上のものだった。栞さんに髪をカットしてもらったことがある人は、ほとんどすべて栞さんに好印象を持っていた。栞さんとのエピソードや交わした言葉を自分に起こった幸運な出来事のように人々は話した。僕はこめかみに指をあてる。それなのになぜ栞さんはいなくならなければならないのか──いや、逆かもしれない。こんなにも多くの人に求められていたからこそ、栞さんはいなくなったのではないか。岡山の夜、信号待ちをしていたときの栞さんの言葉を思い出す。「篠原くんは知ってるの?」。すでに僕に知られてしまっているかもしれない、というような影を含んだ訊ね方だった。確かに以前、栞さんに訪れている微かな変化を僕は感じていた。ただ、ちょうどそのとき僕は栞さんを女として強く意識し始めた頃であり、自分自身が過敏になっていたせいもあった。あるいは栞さん自身に変化があったとしても、仕事への慣れによるものだろうと思うことにしていたのだ。
 机の上のスマホを手にした。昨日送信したLINEのメッセージを確かめる。そこに小さく、既読マークが付いている。至急連絡くださいというメッセージを栞さんは読んでいた。僕が二十件の客に電話を掛けていた二時間あまりの間に、栞さんは僕のメッセージを開いていたのだ。僕は前のめりになり、手早くスマホで栞さんに電話を掛ける。だがどれほど耳を澄ませても、昨日と同じように電波は誰にもどこにも繋がらない。僕はメッセージを送信する。──今どこにいますか? そして立て続けに何回も電話を掛ける。まるで川に落としてしまった指輪を探して、いつまでも流れる水を掬い上げるように。
 そんな非効率的な行為を制するように電話が鳴る。スマホではなく、ノートパソコンのとなりにある固定電話機だ。受話器を取ると、相手はコールセンターの担当者だった。
「先ほど篠原さま宛てに、滝乃瀬さんという方からお電話がございました」
 一瞬、呼吸が止まる。「滝乃瀬さん」僕は気持ちを落ち着かせるように繰り返した。
「はい。今から申し上げる番号に電話がほしいということです」
 担当者は電話番号を読み上げ、僕はそばにあったメモ用紙に記した。さっきまで掛けていた栞さんの電話番号とは違う。
「何か急いでいらっしゃるご様子で、今すぐにでも電話がほしいとのことでした。話し方自体は重く低い声で、落ち着いていらっしゃいましたが」
「重く低い声って……男性ですか」
「男性です」
 僕は受話器を置いた。しばらくメモに書いた携帯電話の番号を眺めていた。そして再び固定電話機の受話器を手にして、間違えないようにゆっくりとメモの番号を押した。
「もしもし」太い柱を思わせるような声だった。
「通信販売会社を運営しております篠原と申します」
「存じ上げております」抑揚のない言い方だった。「私は滝乃瀬栞の夫です」
「奥様にはいつもお世話になっております」僕は反射的に答えた。
「妻が御社から仕事を頂いていることは聞いておりましたので、こうやってお電話を差し上げた次第です」
「わざわざありがとうございます」
「たぶん篠原さんもこういうことになって、今とても手が離せるような状況ではないだろうと察してはいるんですが、一方で私としても篠原さんの手が空くのを悠長に待っているわけにもいかなくて」
「いえ、こちらこそ連絡が遅くなりまして申し訳ございません」
「私も仕事第一の人間ですのでお気持ちはわかります。ただ今回ばかりはそういうわけにもいかなくて。電話で話す内容ではないと思いますので、これからうちに来て頂くことは可能ですか?」
「これからですか」
「ええ、これから。今すぐです」
「わかりました。今から伺います」
 僕はコールセンターの担当者に電話を掛けて、これから美容師が入院している病院に行くから今日一日は連絡がつかないかもしれない、クレームが発生したらできるだけそちらで収めてもらって、難しそうならこちらから明日対応するという旨を伝えた。
 事務所の外に出ると、朝の雑踏で歩道がふさがれていた。栞さんの自宅までは自転車でなく、歩いていくことにした。まだ九時半だ。徒歩でも二十分あれば到着する。もちろん丸一日かけて栞さんの夫と話すことにはならないだろう。昼には事務所に戻れるはずだ。だがどんな話になるのかはわからない。電話で話す内容ではないと栞さんの夫は言った。何かを知っている。その何かに僕が関わっている可能性がある。だからこそ僕を朝から自宅に呼びつける必要があるのだ。
 外から見る限り、栞さんの自宅にはいつもと変わった様子はなかった。インターフォンを押す。電話で話した同じ声が聞こえた。
「どうぞお入りください。開いていますから」
 いつも栞さんにカットをしてもらうときは庭の脇の扉から入っていたが、僕は初めて玄関のドアから家の中に入った。靴を脱ぎ、リビングを覗くと、L字型のソファセットに男が座っていた。ワイシャツにネクタイを締めて、足元に革のブリーフケースを置いている。訪問販売のセールスマンがそこで待たされているようにも見えた。
「はじめまして。いつも妻がお世話になっております。どうぞお座りください」栞さんの夫は立ち上がって、自分の斜め前の席を僕に勧めた。
「失礼します」僕が勧められた位置に座ろうとすると、夫もタイミングを合わせるように腰を下ろした。肌がほどよく浅黒くて、年齢のわりに顎のラインがシャープだった。髪は漆塗りの工芸品のように整髪料で神経質そうにセットされていた。この髪も栞さんがカットしているのだろうか。
「今日は急遽、午前休を取りました。たまたま他の日にずらせるミーティングだったので良かったんですが、午後からは私がメインの案件が入っていますので、どうしても出社しないといけません。十一時にはここを出たいです。さっそく本題に入ってよろしいですか?」
「わかりました。お願いします」僕は膝の上で手を組んだ。
「昨夜、私が自宅に帰ってきたのは夜の十二時頃です。大体いつもそんな時間です。残業のときもありますし、酒を飲んでいるときもあります。でも深酒はしませんから、酔うことなくまっすぐ歩いて帰ります。昨日も自分で玄関の鍵を開け、リビングの電気を点けて、風呂に入りました。そしてそろそろ寝床に入ろうと二階へ上がろうとしたときに、スマホにメッセージが届きました。相手は妻で、内容はもうこの家に戻ることはありませんというものでした」
「夜中に初めてメッセージが届いたんですか? 奥さんから」僕は確かめた。
「ええ。私、今そう説明しましたよね」夫は少し語調を強くした。「もちろんすぐに電話を掛けました。でもいくら掛け直しても妻が出ることはありませんでした。ただメッセージを送ると返信がありました。私はいくつも妻に質問しました。どういうことかわからない、一体何かあったのか、なぜ家に戻らないのか、今どこにいるのか。だけどはっきりとした答えはほとんど返ってきませんでした」
「はっきりと言えない事情があるということでしょうか」
「はっきりとは言えない、というよりはっきりと言いにくい事情だろうと私は推測しています。何時間もスマホに向かって妻とやりとりをしていました。だんだん空が白み始めたときには、思いつく言葉が何もなくなっていました。そのかわり私は画面をスクロールして、それまでの妻の言葉を何度も読み返していました。読み返しているうちに、言葉一つ一つの裏側に何かが見え隠れしているような気がしてきました。妻の言いにくいことが言葉の影から滲み出ていました。つまり男です。妻は男と一緒にいるのだと私は直感しました」
 僕はふと栞さんの仕事場が気になった。店に来る客はほとんどいなくなったと栞さんは言っていた。そして栞さん自身もいなくなってしまった。今その空っぽになった仕事場に、僕一人だけがぽつんと座っているような気がした。
「わかりませんが」僕は栞さんの夫に目を向けた。「そのメッセージを目にしていない僕には何とも言えませんが、具体的に示唆するような言葉はあったんでしょうか」
「だから具体的な言葉なんてありませんでしたよ」夫は腕時計の位置をずらした。「プライベートな内容ですので、あなたにお見せすることはできません。でも具体的な言葉はなくても、二十年以上同じ屋根の下で暮らしてきた夫婦ですからそれぐらいはわかります。私は妻に確認しました。男がいるのか? と。ソファの上で寝転びながら、ずいぶんと返信を待っていました。気づくと、そろそろ会社に行く準備をしないといけない時間になっていました。そのときにやっと妻から返信が届きました」
 夫はスマホを手にして何回か操作したあと、画面に映っているであろうメッセージを読み上げた。「わたしからはこれ以上何も言うことができません、勝手で申し訳ないけれど、あなたが納得できる理由をあなた自身で見つけてほしい」
 夫はわざとらしく音を立てて、ガラスのテーブルの上にスマホを置いた。その攻撃的なガラスの音の意味がゆっくりと染み渡るような沈黙がしばらく続いた。
「誰かを守っている、ということでしょうか」
 そう言った僕の目を、夫は見つめていた。まるで番犬として飼っているドーベルマンを叱りつけるような目つきだった。おそらくこのような目でこの男は普段仕事をしているのだろうと思った。
「なかなか鋭いですね。会社を経営されているだけのことはある」夫は目つきを変えずに言った。「そうですね、つまり妻は何もはっきり言わないぶん、男がいないこともはっきりと否定しなかった。そこには誰か、あるいは何かを表に出せない事情があるのかもしれない。ただ、さすがに私も事情の中身まではメッセージだけで推測できない。わかったのは男がいること。そして次に明らかにすべきなのは、その男は誰なのかということです」
「それを知るために僕を呼んだんですね」
「五年ほど前かな、妻が自宅で美容室をやりたいと言い出したときは、私も賛成しました。娘も手を離れたんだし、これから先の人生は自分のやりたいことをやればいいさと。増築費用も私からのプレゼントのつもりでした。客のほとんどは近所の主婦で、他愛もないことを喋り合っているだけの平穏な日々でしたよ。それが変わったのが今年の春。あなたからの仕事を受け始めて、妻は頻繁に外へ仕事に出かけるようになりました。何を言いたいか、わかりますよね」
「僕の仕事が今回の発端だということですか」
「それしか考えられません。妻と一緒にいる男はあなたの仕事をきっかけに知り合った男だろうと。そして私がまず始めに疑ったのはあなたです」
 その言葉で、僕は夫の目を見返した。確かに鋭い目つきだったが、その奥は平板だった。ただ人を威圧し、脅えさせようとするために作られたものだ。
「それで」僕は夫の目の奥にある平板なものに言った。「今朝電話で言われたとおり、僕はここに伺いました。そしてこうやって話を聞いています。今あなたは、僕が奥さんと一緒にいると思っているんですか」
「正直にいうと、あなたではないかもしれないと思い始めています。もしあなたが妻の不倫相手なら、妻と一緒に雲隠れしているはずでしょう。でもあなたは今朝電話を掛けてきて、ちゃんとうちに来た。少し時間は掛かりましたがね。あなたが妻の男なら、こんなに堂々と座ってはいられないはずです。ただ同時に、どんなに小さくてもあなたは社会的に会社を背負っている立場だ。そんな簡単に人前から姿を消すわけにはいかない。人前で一芝居を打てるぐらいの度胸もお持ちでしょう」
 知っているタイプだ、僕は夫の話を聞きながらそう思った。おそらくこの男は会社で重役に就いているのだろう。威圧的な目つきと重低音の声で部下に指示を出し、取引先に強引な交渉を持ちかけているのだろう。そんな会社での立場が、世の中から評価された自分自身の価値だと信じている。仕事での振る舞いと同じように、家の中や店の従業員や近所の人たちにも振る舞っている。だから初対面の相手に対しても高圧的に話ができるのだろう。
「奥さんはとても優秀な美容師だと思っています」僕はあえて声量を落として言った。「技術だけでなく、人柄もそうです。むしろこういった仕事は人柄の方が大切でしょう。だからこそ僕は奥さんに仕事を依頼しました。僕の会社の顧客は年配の方が多いので、奥さんの人柄とマッチすると思ったのが理由です。おかげで一年足らずですが、なんとか軌道に乗ろうとしていました。奥さんには感謝していますし、最初に承諾してくれたであろうあなたにも感謝します。そんな僕が、奥さんを家に帰さないメリットって一体どこにあるんでしょうか。逆に奥さんがいなくなったことで、すべての予約を急遽キャンセルせざるを得なくなりました。あなたから見ればちっぽけな会社かもしれませんが、僕の会社を親身になって考えてくれる人間は僕しかいません。僕にはあなたみたいに家族はいない。でも僕は僕を食わせるためになんとか毎日稼がないといけないのです。だから相手が誰であろうと言うべきことは言います。あなたは自分のスマホを見せられないと言った。僕は自分のスマホをあなたに見せられます」
 夫は少し口を開けて、じっと僕を見ていた。あいかわらず平板な目だった。
「篠原さん」やがて夫は面倒くさそうにため息を吐いた。「じゃあもし、あなたではないとしたら、一体誰なんですか。次に考えられるのは、妻が髪を切りに行った客でしょう。自分の従業員と客が不倫関係に落ちた、そうなってくると責任者である、あなたの監督不行き届きになるんじゃないですか」
「そもそもです」僕は返した。「奥さんに男がいるというのは、あなたの口から出た言葉でしかありません。僕は何の証拠も目にしていません。そんな証拠のない推測に基づいて僕は疑われ、僕のお客さんも疑われているんです。あなたの会社の部下にだったら通じる話かもしれません。でも僕はあなたの部下じゃない。奥さんが誰と一緒にいるかなんて、僕にはわかりません。ただ奥さんがこの家から出て行こうとした気持ちは、今あなたと話していてなんとなくわかる気がします」
 僕がそう言うと、夫は前のめりになり、顔をぐいっと僕に近づけた。眉間に深い皺が寄っている。よく見ると瞬きをしていない目は黄ばんでいて、細かい染みとほくろが顔中を覆っていた。
「私の会社はIT関係で、情報セキュリティシステムを構築する仕事をしている」夫は顔を近づけたまま言った。「二十年前はITなんて、ちゃらちゃらした服を着てる奴らのベンチャー企業だと軽く見られてた。でも今は違う。官公庁の仕事も請け負って、品川の高層ビルのワンフロアすべてをぶち抜いて、しかも複数階を使っている。篠原さん、あなたもECサイトを運営しているならわかるでしょう。ネットでの情報拡散がどれだけのスピードで広まっていくかは」
 夫が匂わせていることは大体見当がついた。「もし何かを仕掛けたいなら、仕掛ければいいですよ。それによって僕は仕事をやりにくくなるかもしれない。でもそれだけのことです。あなたは僕から何も奪い取ることはできません。あなたは奥さんを奪い取られたかもしれませんが、その空白を満たすことはできませんよ」
 夫は苛立ちを抑えられないように、いつまでも僕を睨みつけていた。それでも組織人としての気質が染みついているせいか、腕時計にちらりと目をやった。その仕草をきっかけに僕はすっと立ち上がった。
「もう時間みたいですね。長居して申し訳ございませんでした。こちらでも何かわかりましたら連絡させて頂きます」
 夫はソファに座ったまま、僕を見上げた。「もし妻が戻ってきたとしても、もうそちらで仕事をすることはないですから。当然ですがね」
 僕はもう何も答えずに、部屋を出た。
 事務所に戻る途中、押し車を掴んでゆっくりと進む老婆や保育園児を連れた散歩の列とすれ違った。子どもたちの吐く息が白くなるほど気温が低く、空は青く澄み渡っていた。しばらく周囲の景色に目をやりながら歩いていたが、なぜだか手の震えが止まらなかった。いくつもの理由が絡み合って、自分でもよくわからない。ようやく気持ちが落ち着いたとき、僕は一つ理解した。栞さんがはっきりとした言葉を言わずに守ろうとしていた誰か。それはたぶん、僕だった。

 事務所に戻ってノートパソコンを開くと、デリヘアを始めてから栞さんが訪問した客をすべてリストアップした。そして顧客管理システムでリスト一件一件の顧客情報を詳細に確かめていった。八十件ほどの登録名のほとんどが女だったが、実際にカットした相手が男だったケースは三分の一ほどあった。だからといって残りの三分の二は対象外というわけではない。女の髪をカットしながら、その場所に男もいた可能性もある。
 栞さんの夫が語った彼なりの検証分析は、僕にとっても否定できないことは確かだった。栞さんは夫に何も言わなかった。なぜならデリヘアがきっかけで姿を消した、そのことを言うと僕の会社に迷惑が掛かってしまう、だから何も言えない──その推測が僕の頭の中から消えなかった。考えれば考えるほど、それが最も現実味を帯びた理由として膨らんでいった。栞さんは「知っているの」と僕に訊ねた。あのときすでに栞さんには何かが起こっていて(あるいは誰かが関わっていて)、責任者である僕の耳に入っているかもしれないと栞さんは危惧していたのだ。起こってしまったことに不安を感じ、僕に迷惑を掛けることをできるだけ避けようとし、それでも結局栞さんは姿を消した。選びようのないことだったかもしれない。そしてそこに男でいるのであれば、もはや何も言うことはできなかったかもしれない。
 どちらかというと当てはまる人がいないことを確かめるために、僕は顧客の個人情報に時間をかけて目を通した。自分の中で膨らんだ考えを打ち消そうと、一人一人の年齢や住所やデリヘアを受けた日付を材料にして、具体的な人物のイメージを形成しようとした。しかしリストの半数を確認しても、その作業は大した成果を導きそうになかった。それらはただの数字や記号であり、実際に目の前で存在しているような肉付けされた人物像を結ぶことはできなかった。僕に思い浮べられるのは、寝言の御主人と自閉症の少年と福生に住むトランスジェンダーの男ぐらいだった。八十件の客すべてに電話をするわけにもいかない。最近まわりで突然姿を消した人はいますか? と訊ねるわけにもいかない。
 ふと樫本さんのことが浮かんだ。樫本さんは竜巻の話を栞さんにした。そして栞さんはそれを僕に話した。ただそれだけだ。樫本さんは夫婦二人きりで二階建ての家に住んでいる。電話で話したときには、奥さんと穏やかで余裕のある生活を過ごしているような様子だった。樫本さんが相手の男だとは思えない。でも僕は何かをしないわけにはいかなかった。わずかな手がかりでも欲するように僕は受話器を上げて、電話番号を押していた。
「これはこれは、お久しぶりです」樫本さん本人が電話に出た。
「年末のお忙しいところに申し訳ございません。今年はお世話になりましたので、ご挨拶と思いお電話を差し上げました」
「ご丁寧にありがとうございます。実は先日、妻が入院しましてね。大したことじゃないですよ。健康診断で血糖値がかなり高かったものですから、教育入院を二週間受けることになりました」
「そうですか。お一人で大変ですね」
「まあ日頃から家事は二人でやっていましたのでなんとかこなしていますが、精神的にはやはり淋しいものがありますね」
「実は、弊社の滝乃瀬なんですが」僕は咳払いをした。「彼女も入院することになりまして、どうやら長引きそうなんです。いつもカットをお申しこみ頂いているのですが、もしかしたら今後お断りしなければいけないことを事前にお伝えしようと思いまして」
「そうですか、それは残念ですね」樫本さんは声の調子を落とした。「私も妻も、今度はいつ来てもらおうと楽しみに話していたばかりですから。ぜひとも元気になって、またうちに来てもらいたいものです。これは余計なお節介かもしれませんが、あの人は大事に労ってあげた方が良いですよ。きっとあなたの会社に良い風を運んでくれる人でしょう。絶対に離しちゃだめな人ですよ」
 すでに栞さんはどこにもいないことを、僕は思い知らされた。

第5話:https://note.com/osamushinohara/n/n497c893777d9

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