見出し画像

メディアアートの捉え方①(アイデンティティをめぐる旅)

はじめまして、タナカと申します。ご覧いただきありがとうございます。
趣味としてメディアアートの鑑賞・制作を行っており、Noteでは日々学んだことなど発信できればと考えています。

初めての投稿にあたり、「なぜ私がメディアアートに注目するのか?」書いてみることにしました。
一個人の解釈として、楽しんでもらえたら幸いです。

現代アートはアートのアイデンティティをめぐる旅


現代アートとは何か?アートの、アイデンティティを巡る旅である。

現代アートの誕生から少し戻ろう。
19世紀頃に、パトロンの庇護下で要求通りの「美」を再現すればよい時代が終わりを迎えた。アートの世俗化である。

神話に代表されるような、伝統的でキリスト教的な価値観の絶対性は崩れ去り、沢山の人が多様なアートを楽しむようになった。そのため、アーティストも決まった「美しさ」を再現する代わりに、それぞれの個性を表現し、人の心を動かすことが求められるようになった。
写真が誕生したことで、写実性がもはやアートの特徴とは言えなくなってしまった…という時代背景もあろう。
新しい美の追究、それも斬新で自分にしかできない個性的な表現の追求が問題となったのだ。

個性の表現は、当然そのうちに政治的なものを含みうる。
政治的な状況は個性の形成に否応なく関わってくるし、個性を個性として認めてもらうこと自体、政治がかかわってくるからだ。

第一次世界大戦への反省から、ダダイズムは理性の否定を行った。彼らが試みたのは、それまでの「美」の表象を転覆させることである。ダダイズムはまったく意味のなさない表現でもって美とすることで、理性的な価値観を批判したのだ。

この理性の批判は、今まで当然のように前提とされてきた、アート=感覚上の快楽、という図式に対しても疑問を呈するようになる。
アートの前提自体を問い直すアート、コンセプトがその意義の大半をしめるアート、つまりは現代アートが萌すこととなる。

「泉」は、無審査を謳う展示会が実は閉鎖的なことを明らかにし、アートの前提を問い建てた。
写真はWikipediaより使用。

つまり、近代美術に始まった「美」の模索は、現代アートにおいては「そもそも美って/アートってなんなんだろう」という問題意識にまで行き着いたとまとめられると思う。現代アートの価値は、「アートとはなにか」という問に対してとっかかりとなる解を提示できたかで決まるのだ。

たとえるなら、日本でイケメンとして持て囃され育った顔ヨシ男(17)がイケメン世界大会で様々なイケメンと遭遇した際、「自分のイケメンさはどこにあるんだろう」と悩むのが近代美術であり、「そもそもイケメンってなんだ?」と問うのが現代美術となるだろうか。

アートは人間の探求でもある


現代アートとは、自身のアイデンティティを求めてさまよう過程である。「アート」って何なんだろうか、作家の個性なのか、美しさなのか、気味悪いものはアートになるのか、道端に落ちてるものはアートなのか、作っている過程もアートなのか、云々。

「アート」という言葉がゲシュタルト崩壊しそうないきおいである。実際、ここでのアートっていうのは、広く「なんか人がいいな、凄いな、ふーむetc.って思うもの」くらいを意味しているように思う。

ここで大切なのは、現代アートの鑑賞には「人が何を美しいと思うか」が強く関係することなんじゃないかと思う。

デュシャンをもう一度に例にとってみよう。デュシャンの作品は「レディメイド」という風に形容される。「泉」を作る際に彼はほとんど手を加えていないように、便器自体には何の作家性もないことがその特徴である。アートをアートとして見出す力は、むしろ観客の側に託されているのだ。

だからアートとは「美しさ」の探求であると同時に、それを感じ取る人間の探求でもある。観客をいかに驚かせ、考え込ませ、揺さぶるかが問題となるのだ。

顔ヨシ男は「イケメンってなんだ?」という問いを考え続けた結果、イケメンかどうかは客が決めることだと悟る。ここで彼のイケメンの探求は、客の流行を常にチェックし、人間がイケメンに何を求め、逆に何なら非イケメンだと思うのか、、という人間心理を巡る冒険へと広がるのである。

現代アートの要素

以上を踏まえると、現代アートの基本方針は以下の2つである。

1.アート観(人間観)を破壊したまえ
既存の思い込み、”アートとは何か”という考えを破壊せよ。拾われてこなかった概念を発掘し、センセーショナルに提示せよ。
…ここでは、人間が何を理解し、何を否定し、何を無視してきたのかが暴露される。時にそれは、排泄物を缶につめた”おぞましい”アートになり、時にそれは顕微鏡を用いてマクロ世界の豊かな世界を切り出すアートになる。

2.そして、新たな人間観をうちたてたまえ
単なる暴露に留まらず、新しい価値観を提起することもアートの範囲である。例えば、「なんだかよく分からないけどこんな作品にも心動くのか」と気づかせ、「今まで見過ごしてきたおぞましさも受け入れるのが人間かもしれない」と深く考え込ませるように。「美」(「人間」)が、我々が考えるよりもっと自由で多様な(不自由で単一な)存在でありうることを見せよ。

長々と書いたが、まとめると、スクラップ&ビルドということになろう。


ピエロ・マンゾーニの作品「芸術家の糞」
画像はPhaidonより引用

ただ、破壊/創造のために、上記とは別に現代アートにおいて最も重要な軸の一つがあると思う。3.誤読させたまえ、である。

ここで「誤読」には2つの意味がある。1つは、既存体制を誤読しハックし覆してしまう動き、既存の人間観をからかってやる動きが含まれる。既存の価値観をユーモラスに破壊し乗り越える方法ともいえるだろう。

Simon Weckertは大量のスマホを持ち歩くことで、Google map上で”渋滞”を引き起こした
Simon Weckert

しかし、自身が新たな別の価値観を提唱するのでは、単に王様の首をすげ変えただけだ。「自分は正しい」という、おそらく誤謬のある振る舞いを繰り返してしまうこととなる。
だから、現代アートは大本のコンセプトを超えて自由に誤読され、多様に解釈されるようなあそびを作り出す

たとえば、「泉」は単にレディメイドであるということだけでなく、便器の形の美しさ(?)や性の問題からも色々と解釈できるかもしれない。

再度「泉」。なぜ便器だったのか?など考えると様々に解釈が膨らんでいく。
写真はWikipediaより使用。

現代アートはコンセプトアートとも言われるが、この誤読可能性があるからこそ、アーティストは説明文のみ書いて満足せず、わざわざ作品制作まで行うのではなかろうか。

作品が、数行の/数ページの解説には汲みがたい趣を持ち、様々な解釈を生み出しうる点こそ、現代アートの重要な特徴であると考える。

答えのない旅?

...ここからはおまけになるが、身もふたもないことを言ってしまうと、「人が何を美しいと思うか」なんてものに確定した答えはないのだろう。

1900年に入り様々な”○○イズム”が生まれては消費されていったように、人が何を美しいと思うかは時の流れによって変化する。
アイデンティティを探す旅なんてものに終着点はありえない。堂々巡りにしかなりえない旅を、しかし堂々巡りであることを受け入れて進むことに意味があるのかもしれない。

まとめ

現代アートにて行われてきたのは、「アートとは何か」ひいては「人間とは何か」をめぐる問なのではないだろうか。

そして、「人間とは何か」を考える際に大きなテーマとなるのが、技術(メディア)と人間の関係だと考えているのだが、長くなるのでこの点については次のNoteで紹介していこうと思う。

▼次回のNoteはこちら


参考文献など
小崎哲哉『現代アートとは何か』
https://www.artpedia.asia/modern-art/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?