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メディアアートの捉え方②(Non-AI beingの自己定義へ)

こんにちは、タナカと申します。
このNoteでは自己紹介を兼ねて、「なぜ私がメディアアートに注目するのか?」を書いていこうと思います。
前回の記事の続きとなるので、よければこちらもお読みください。

なぜメディアアートなのか?


技術環境により、人間の定義自体が大きく問い直されているからである。

機械と人間を比べることの歴史

機械が人間の能力を超えることは、いままでも数々行われてきた。

例えば将棋。2017年には当時の名人がAIに連敗するなど、2010年代後半にはすでに将棋界における”最強”はAIになっていた。他にも、速さという側面から考えてみると、わざわざ自転車や自動車が登場した19世紀あたりを持ち出さずとも、”最速”の座はとっくに人間のものではなかった。

それでも、人間による将棋や競走(オリンピックetc.)が好んで行われるのはなぜだろうか。おそらく、これらの結果が目に見えやすいからではないだろうか。
目に見えやすいからこそ、”人間なのにこれほどの成果を出した”こと自体が称揚の対象となる。結果の分かりやすさゆえに、これらタスクが比較的容易に機械によって代替されてきたことを考えると、皮肉な帰結といえるかもしれない。

ところが、アートはそうはいかない。アートは自身を”美”という曖昧なものによって定義する。だからこそ、例えば写真みたいなメディアが誕生した場合にも、「写真にはできない”自分ならでは”の表現があるはずだ」とアイデンティティを模索し続けることになるのだ。

この点に関しては、前回のNoteも見てもらえると幸いです。

つまり、ある能力の定義が曖昧なほど、機械に代替されたときに「まだ機械にできないことがあるはずだ」と定義の拡張が試みられやすいのではなかろうか。

そして、定義が曖昧であるという点をとると、「人間」だって同じである。

「なにが人間か」ということ自体が曖昧であることは、今までも指摘されてきた。たとえば、フェミニズムのような政治的観点から、また、例えばビーガンのように動物倫理学の観点から、また、VRのように技術的観点から。

この中でも「技術」、特に技術が人間の価値観をラディカルに変える状況に注目するのがメディアアートである。

ChatGPTを例に

技術が人間観を変える例として、話題のChatGPTをみてみよう。

ChatGPTの一つの含意は、人間を対話可能なもの(言語的であり、ゆえに理性的なもの)とする考えが打倒されてしまいうることだと思う。

詳しく説明するために、過去に遡ってみよう。
まだ科学や技術が未発達だったころは、人間がコントロールできないものも多くあった。
理不尽な自然のなかにあっても、「自分たちこそが人間であり、他より偉いのだ」とアイデンティティを保つための一つの軸が言語だった。畜生や植物は話すことができないが、我々は言語を用いて、他者と対話することができる。ここで「対話できること」は”われわれ”を定義するために必要不可欠なパーツだった。

ところが、現代においてChatGPTの誕生は以上のような状況をがらっと変えてしまった。人間を”言語”から説明する方法は、機械がスムーズに話す状況において否定されてしまうのだ。
だから、ChatGPTの誕生は「人間」に対する新たな問いかけを生み出す。ChatGPTは人間なのか(そうでないなら、なぜ)?ChatGPTでもってバーチャル友人/恋人がいれば人間は満足してしまうのか?もしChatGPTが世界中の課題を解決できるとしたら、人間にとって生きる意味は残るのか?等々。

技術が変容させる人間の定義

ChatGPTが「言語」を切り口に人間観を揺さぶっているように、技術環境は人間のアイデンティティを更新しうる力を持つ。

というのも、技術(メディア)とは第一に、我々がエネルギーを回収し、他者や世界と出会い、考えるやり方に大きな影響を与えるものだからだ。
書き言葉(紙)からインターネットまで、技術によって人間は情報を交換し進歩してきたし、火から始まりバイオテクノロジーにいたるまで、技術によって人間は活動のためのエネルギーを得てきたのだ。
そもそも技術と人間が切っても切り離せない関係にあるのだから、技術が変われば人間の在り方も意外に簡単にかわってしまうのかもしれない。

そして、技術環境が変動していくそのただ中で、一緒に変化するだろう”人間”のアイデンティティを求め続けるのがメディアアートなのだと考える。

他の例を見てみよう。
たとえば自在肢プロジェクトにおいては、「人間には2つの手がある」という前提が覆される。インターフェースの拡張により人間と機械の身体が一体となったときに、我々はどのような感じ方をするのだろうか、考えさせられる。(自在肢についてのHPはこちら


ただし、メディアアートは、技術そのものをテーマにした作品に留まらないと考えている。
むしろ「技術をツールとして扱った時に可能になるもの/ことをテーマとした作品」くらいの広さで理解してもいいと思う。というのも、技術によって新しい世界の見方が提示されるとすれば、それによって人間理解もまた変わりうるからだ。


たとえばセンサー技術の発達は、我々の世界への理解を拡張させてくれる。BECOMINGでは日常では目にすることの無い、ミクロの世界での生命誕生の瞬間を観察できる。細胞が分裂し、ひだを作り、徐々に形を、うねりを作っていく。顕微鏡という技術を通して、我々自身が誕生した瞬間はどんなものだったか、想像が膨らむ作品である。(作者HPはこちら


まとめ

前回のNoteで書いた通り、現代アートとは、”アート””人間”のアイデンティティを求めて彷徨う過程だと捉えている。

そして、メディアアートとは、特に技術環境がどのように人間観を変えるか考えさせる現代アートだと理解した。

”人間”というのはとても曖昧で、新しい技術によって容易に変わってしまいうるものである。技術進歩が加速する今だからこそ、メディアアートを通じて我々が我々自身をどう定義するのか、考える価値があるのではなかろうか。

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