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幸せなバカになるまでの話

 今は少し変わったどこにでもいるバカに落ち着いた私だが、小さい頃ませたクソガキだった。幼稚園の頃に祖母が亡くなり、それから死の恐怖に囚われ続けていた。小学校高学年で太宰治にハマり、生きる意味なんて無いのだと思い込んでいた。中学2年の時には厨二病をこじらせ、恵まれた環境にいたのに不登校になりかけた。今思うとすごく馬鹿馬鹿しいが、その時の私にとってはそれが全てで毎日必死だった。
 純文学と厨二病の合わせ技で世界に絶望するまでの私は勤勉で優秀だった。中高一貫の学校に受験で入り、入学時の成績はトップクラスだった。しかし、それはもう過去の栄光でしか無い。高校卒業の頃には私は最底辺にいたからだ。どこにでもいるバカの完成だ。わかりやすい数字で言うと偏差値を20以上犠牲にした。何を言っても負け惜しみになるが、それでも私は後悔していない。少なくとも今の私はそう思っている。偏差値を犠牲にして、人とは、人生とは、社会とは、とひたすら悩み続けた中高時代に出した私の答えは、必要以上に他人と比べることをやめて、自分らしく生きることだった。これは現代社会では本当に難しいことだ。
 他人と比べるのは悪いことではない。むしろ厳しい競争の世界に身を置き、他人と切磋琢磨して生きている人は本当に尊敬している。だが私はそういうことを極力やめることにした。どれだけ戦って勝っても、上には上がいる。それがモチベーションになる人もいれば、嫌になる人もいる。私は嫌だった。また、他人と自分を比較して、周りを気にして生きている自分のことも嫌いだった。悩み抜いた先で、今は私だけの小さな幸せを日々探している。
 もちろん現代社会で生きていくためには、仕事をしてお金を稼がないといけない。だが逆に言うとそれだけでいい。超難関の大学に行かなくても、一流企業に入れなくても、それなりの暮らしをすることができる。それなりの暮らしをこの先死ぬまで続けることができたとしたら、それはとても幸せなことだ。また、その暮らしの中で小さな幸せを私は見つけていきたい。幸せは案外どこにでもあって、それを見つけられるかどうかが鍵になる。そう私は考えている。他人から見れば平凡な面白みのない生活かもしれない。しかし私は今も、多分これからも幸せだと思う。次は私の幸せについて書こうと思う。

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