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1999、大晦日

1999年は異様な年だった。3月には北朝鮮の工作船による日本領海侵犯があり、9月には国内初の臨界事故があった。また、6、7月の失業率が過去最悪を記録するなど、バブル崩壊後の不景気が続いていた。

そして何よりノストラダムスの大予言があった。7月に恐怖の大王が空から降りてくると言われており、起こること全てが「世紀末現象」と呼ばれていた。そのことはその年の漢字に「末」が選ばれていることからもわかるだろう。

また、1999年の年末は2000年問題に揺れる中での年越しとなった。2000年問題とは西暦2000年であることをコンピュータが正常に認識できず、誤作動を起こす可能性があるとされた問題だ。この頃既に身の回りのあらゆるものがコンピュータで制御されていたため、停電や医療機器停止、弾道ミサイル誤発射など様々な障害が心配されていた。

人々はその不安を抱えたまま年末を迎えており、この2000年問題こそがノストラダムスの大予言の正体なのではないかと考える人も多くいた。それと同時に西暦の千の位が変わるということは一大イベントであり、その瞬間を迎える高揚感も街に漂っていた。そんな異様な雰囲気が漂う大晦日の夜、とある街の居酒屋で数人の男たちが酒を飲んでいた。

30手前の彼らは仲の良い友人であり、それぞれの居場所で家族を支えるごく一般的なサラリーマンだった。彼らは酒を飲み、タバコをふかしながら1999年最後の夜を過ごしていた。その日は街の異様な雰囲気と久々に会った喜びが後押しし、夜が深まるにつれて酒も進んでいった。

時計の針が12の文字に近づいてきた頃、彼らの話題はノストラダムスや2000年問題に移っていた。一般的な友人同士の酒の席で話題が出るほど、その不安感は社会に浸透していたし、なによりその瞬間はもうすぐそこまで来ていた。その時、男たちの中の1人がタバコを片手に立ち上がった。少し体格の良いその男は、3歳になる娘と愛する妻がいた。そして、

「もし世界が滅亡しなければ、俺はこの1本でタバコをやめる。」

そう宣言した。突然の出来事に他の男たちは驚いたが、その勢いに押されて、「じゃあ俺も」と全員同調した。なぜ急にそんなことを言ったのかはわからないし、酒のせいとしか言いようがないだろう。ただもしかすると、娘のために辞めるタイミングを探していたのかもしれないし、禁煙することに未来への希望を託したのかもしれない。

結局、空から恐怖の大王が降りてくることはなかったし、2000年問題も重大な障害が起きることはなかった。男たちはまた日常に戻っていき、酒の席での約束など忘れて、皆気づけばまたタバコを吸うようになっていた。ただ1人を除いては。

タバコをやめると初めに宣言した男だけは、その約束を完璧に守っていた。そして気づけば吸いたいと思うこともなくなり、数年後には息子も生まれた。2人の子どもを育てながら平成を駆け抜け、今はもう可愛い孫がいる50代半ばのサラリーマンになった。どんどん喫煙者の肩身が狭くなっていく中で、子どものためにもあの時辞めてよかったと男は心から思った。

今では長女はひとり立ちし、子どもが1人いる。長男は大学生だが、大変だった反抗期よりも随分手がかからなくなった。帰省した子どもたちと酒を飲んだり、孫と遊んだりすることが今の楽しみだ。この話は事実であり、きっとフィクションでもある。恐怖の大王が社会に与えた不安感はとても大きいが、私にとっては幸せの神様かもしれない。タバコを奪ってくれてありがとう。

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