『論じるな、書けよ!』
俺は何者かでなんか有りたくない。
俺は何者か?そんな事は俺自身が決める。
俺の存在は、何者にも定義づけされない。
そりゃ、ガキの頃には夢(成りたいもの)はあったよ。
大工だったり、マラソンのランナーだったり。
それと他人に、「オマエはこれだ!」とレッテルを貼り付けられんのは、別の話だ。
noteでたまたま文学について論じている記事を見たのだが。
例えばの話、インテリ系文学者がいるのに対して、アウトサイダー的文学者がいて、昔の文豪に対して、現代のwebポエットがいて、良く解らないけれど、webポエムそのものをポエムと見なすのは著しく文学性を欠くのでポエットと名乗ることを恥ずかしく思いなさい、と語るnoteユーザーがいるとする。
呆れた。
何故、人や人の行いを分類定義したがるのだろう?
分類定義→読まれるnote記事の定義→読まれる文章の定義→啓発物→より良い何かの定義→分類
というように、まあ俺はこういう言葉でとりあえず分類定義したけれど、他の言葉でもいくらでも代用できそう。
この手の話は無限に、人の深層心理の相当に浅い所で、延々とループされる。
本来の目的は、忘れさられて。
そう、俺は、あなたの作品を読みたいんだよ。
あなたが何者だっていい。
未熟でも、下手くそでも構わない。
自分がそうだから。
血液が沸騰しそうな言葉で書いてみろよ。
と、探偵という肩書きで、日本で唯一小説を書いてみた、探偵作家土木警備員の俺は思う。
目を皿のようにして、アンテナを張って、よーく、note記事を読んでいると。
絵文字満載だけど、何処か突き抜けて言葉が刺さる不思議なポエムに出会ったり。
ハートマークも投稿数もやたら少ないのに、著者の呼吸や本の紙触りが感じられそうな秀逸な書評に出会うことがある。
探偵である俺は物事を詰まらなくする犯人を断定する。
論じて、レッテル貼り付け、それで終始する奴だよ。
出身大学まで誰も聞いてねえのに、喋りたがる奴らだよ。
その話自体に、まずは文学性はないのだから。
まずは、アートを書け!
あなた自身がアートだと思ったら、それはアートだよ。
アートに定義なんてないのだから。いや、定義を持たない物こそがアートだろ?だからそれを論じるなよ。だからまずは、表現しろよ。
で、何故俺がこういう類いの話をしたがって?
期待して読んだ記事が、自己分類啓発物だとがっかりするから。
で、俺にとってこういう読まれるに値しない記事の方にハートが付くからウンザリするよ。
あ、俺も作品作り(アート)しよ!
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