震災遺構として公開された山元町中浜小学校見学のキロク

画像1 2023/12/17 東日本大震災の震災遺構として公開された宮城県山元町中浜小学校を見学してきました。中浜小学校には津波が襲来しましたが、ここにいた児童、教職員、保護者らあわせて90人の命が守られました。展示がとても工夫されていて、どのように命を守ったのか、その判断の過程を知ることができます。また、津波被災地域のなかでここの地域に特徴的に見られた津波湾の資料を見ることもできます。撮影できないエリアもありますので全部ではありませんが写真は見学順にアップします。三角屋根の部分が津波襲来時の避難場所だそうです。
画像2 新設された旗ポールは津波の高さを表しているそうです。
画像3 学校の敷地を囲う柵からの目線です。周囲から2メートルかさ上げされています。周辺住民からの要望もあってそうしたそうです。結果的にはこの2メートルがあったお陰で避難場所の屋根裏スペースには津波は到達せず90人の命を守ったことになります。
画像4 学校敷地のかさ上げと同様、なにかのときに学校に避難できるようにという住民の声で外階段がつくられたそうです。
画像5 津波は校舎2階天井付近まで到達しました。
画像6 校舎に巻きついた校庭のバックネットの支柱です。津波の威力と波がきた方向がわかります。
画像7 流された旗ポールと石碑です。
画像8 津波の力で引きちぎられた鉄筋です。
画像9 津波が入った校舎内の浮き上がった床です。
画像10 津波で破壊された教室です。校舎内には柵と見学通路が設けられていて、被災校舎を安全に見学することができます。上階の展示室にはかつての町並みの模型や校舎の詳細な模型もあります。各ポイントに解説パネルがあり文字と写真でわかりやすくなっていました。そのあたりは現地でぜひ見てください。
画像11 津波で流されてきて天井の骨組みに引っかかった竹馬が見えます。
画像12 震災から2年後に中浜小学校は閉校になりました。閉校に寄せて作られた横断幕は資料映像を上映する部屋(元の音楽室)に掲げられていました。
画像13 屋上への階段。3/9に地震があり津波注意報が出た際、教職員で避難について確認していたそうです。津波避難場所の坂元中学校までは子どもの足で20分ほどかかるため、津波避難の際には到達予測時刻などの情報をもとに判断すると確認していたそうです。3/11の地震発生後、校舎2階にあがっていましたが、大津波警報の情報が更新され県内の津波到達予測時刻を考えると移動は無理と判断、屋上の倉庫がわりに使っていた屋根裏スペースへの垂直避難を決断したそうです。最後に階段をあがった校長はおりるときは無事のときと覚悟したと言います。
画像14 屋根裏スペースへの垂直避難を決断したあと、当時の校長は屋上から繰り返し迫りくる津波の高さを目視し、ダメかもしれないと思ったそうです。結果的に全員無事でいられましたが、この判断が正しかったのかどうかは今でもわからないと思っているそうです。
画像15 屋根裏スペースにあったタイムカプセルの中身を出してプラスチックケースを扉の内側に男女別に設置しトイレとして一晩使ったそうです。その場でできる最善の工夫だったと思います。
画像16 ガイドさんの説明によれば、いくつもの幸運が重なって全員無事でいられたとのことでしたが、3/9の地震のあと念のため確認したことや震災当日の情報を元に迅速な判断と行動を積み重ねた結果、全員の命が守られたのだとわたしは感じました。事前になにもしていなければ無理だったということも強く感じました。また、ガイドさんの言葉の中に『ここの人には津波は三陸のものでここは田んぼの真ん中だから津波はこないという思い込みがあった。』とありました。わたしには石巻も女川も山元町も海沿いの街に見えます。考えさせられる言葉でした。
画像17 ガイドブックの表紙には『ここであったことを、あなたの目で見て、考え、読み取って、未来の災害に備えるための知識に変えていってください。』とあります。東日本大震災の震災遺構は様々な形で公開されています。中浜小学校はここで起きた事実を知ることができるとともに、自分ならどうするかを考える場所であり、イザそのときに自分が助かるためにどう行動するかの判断材料を集める場所であるとわたしは思います。ぜひ足を運んでみてください。

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