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上司が発達障害だから、わたしは

来年3月に退職する。



今年4月から上司が変わり、小さな会社の総務は新しい上司とわたしの2人だけだ。
わたしの新人教育を請け負っていた前の上司が異動になり、代わりに子会社で事務をやっていた40代男性が課長に就任した。それが退職原因の上司である。
この上司、みんなが揃って言うのは「悪い奴ではない」

彼を中途採用した時に、諸手続きをしたのはわたしだ。履歴書を見れば、40代の現在まで正規雇用無し。奥さんは看護師で、小さい子供が3人。既往歴、現病、なし。経歴はなんとなくグレーな感じだけど、子会社から本部に栄転だ。何か光るものがあったのだろう。家族もいる。
まともな人間なはずである。

わたしも子会社を巡回するときに何度か会っている。
わたしが車で子会社に行くと、にこにこしながら手を振ってくるから子供っぽい人だと思っていた。動きはロボットのように直線的にきびきびしている。PCが苦手な人が多い子会社では頼りにされているように見えた。



さて、上司がきた4月。
彼のデスクはわたしの隣に位置する。16畳程度の事務所にデスクが4つ、2つずつ向き合っているよくあるシマである。向かいのデスクには天下りのおじいちゃんが月に数回来るだけで、あと1つは空席。ほぼ2人の部屋だ。
上司は誠実そうに、わたしの「よろしくお願い致します」という一言にも「はいっ、はいっ、よろしくお願いしますっ」と息切れしたように前のめりに頑張ってしゃべる。いつも一生懸命な感じは少し笑えた。

ズレが始まったのはすぐだった。
理事長に「次来るときに作っておいて頂戴」と頼まれていた資料があったため、隣にいる上司(理事長とのスケジュール調整は彼が行う)に「○○さん(上司)、次に理事長がお越しになるのはいつ頃ですかね?」と聞いてみた。彼は猫背をビクッと震わせ、

「あっ、はい、えっと、えーっと・・・」

とPCを見つめて固まる。
次に頭を抱えて、掻き出す。

「あー・・・すいませんね、今、色んなことをやっていて、いろいろ重なって、処理できないんですよ。」

俯きながら続ける。

「あの、同時並行でタスクを処理しないといけないじゃないですか。色んな作業があると、わかんなくなるじゃないですか。今、全然話聞けてなかったです。集中しちゃうと、わかんなくなっちゃいません?」

今はわたしが答えなくてはならないのだろうか。努めて冷静に繰り返す。

「・・・次に理事長がお越しになるのはいつ頃ですか?」

そうすると、上司は引き出しに手帳を仕舞っていることを思い出したのか、「あっ」と言ったのち「あー・・・」とか「えーっとですねえ・・・」とか言いながら、引き出しの中をバタバタと探して一心不乱に手帳を捲る。


この描写はわたしの悪意の主観ではないことを弁明させてほしい。
彼は、上司は、一生懸命なのである。
故にそれがつらい。



話変わって、わたしの兄はいわゆる発達障害、ADHD(注意欠陥・多動性障害)だ。
兄は毎日のように鍵を失くし、財布を失くし、留学当日には空港で胸元に入れていたパスポートを失くし、部屋は服や本でいつも足の踏み場がなく、お店の商品を手に取ると会計を忘れて店を出る。典型的な「不注意優位型」である。
成人してからは、お金の計算ができず、実家には毎月携帯代、カードローン、奨学金の督促状がくる始末だ。上場企業に就職して一見お金には困っていなさそうだが、なぜ借金苦の生活をしているかというと「先輩が自社株買うと良いよっていうから」と、素直に自社株を大量に購入し、購入費は給料から天引きされているらしい。そして天引きされていることを忘れ、金を遣うのだ。そんな自社株もアルバイトがSNSテロをしたせいで大暴落しているのだが。

わたしが兄の不甲斐なさを兄を知る人に説くと、みんな決まって「でもね、イイ人だよ」と返す。
上場企業に就職したものの、実は彼は学力がかなり悪い。三流無名大学の通知表には大量の「可」が鎮座し、ちらほら不可も見当たる。それでも、尋常じゃない「思いやりの精神」があるおかげか何とか周囲の助けを仰いで生きていけた。兄は道行く人々に無償の愛を降り注げるし、リゾートバイトに行けば宿泊者と友達になり、大量のお土産をもらってくるほどだ。
これは兄が笑いながら語ったことであるが、就活の集団面接時に「あなたの長所はなんですか?」と聞かれた際、履歴書になんと書いたか思い出せずに「なんて書いてありますか?」面接官に聞いたらしい。面接が終わり意気消沈のところ(彼はちゃんと落ち込める人間ではあった)、社員同士で面接が終わったから会場に大量の机と椅子を入れて研修会場へとセッティングしなければ……、といった話をしていたから、一言「手伝いますよ」とセッティングを手伝った。周りの就活生は帰った後だった。
後に内定式でそのときの面接官から「いい人そうだったからね」と。たった、それだけで内定したという。はたして面接官の見る目があるのか、ないのかは、疑わしいが。

しかしまあ、そんな悪い奴ではない奴らに苦しめられているのは世の中たくさんいるのだ。わたしとか、わたしとか。
上司の行動の中に垣間見える兄の影がわたしを苦しめる。
衝動的で落ち着きがない。上司が課長になって1週間ほどでわたしの中では確信した。
彼はADHDの「多動・衝動優位型」だろう。




上司の場合、強く表面化している特性に「独り言」がある。上司は出社から帰社まで9時間たっぷり独り言を発する。
「うわっ間違った」
「ん?ん?なんで?」
「いやっ、なんだこれっ」
「わかんない、あーわかんない」
「しくったかなあ・・・」
等と宙に話しかける。彼が廊下を歩くと、他の職員は皆振り返る。もしかしたら、自分が話しかけられているかもしれないと思うほどの声量だからだ。

彼は衝動を抑えられない。思い付いたことは止めておけない。
例えば、作業中に話しかけられる等の並行作業が始まると処理ができないとき。そのパニックに「え!なんだ!?わかんない!」と呟く。周囲にどう思われるだとか、自分が変に思われるだとか、そんな心のダムはない。そして「わかんない」と言った自分の声に驚いてしまうような、パニックの連鎖だ。20年前のPCのほうがあきらかに優秀である。

上司はタスク管理が苦手な自覚はあるのか、携帯に大量の5分前アラームを設定している。朝礼、来客、昼休憩、会議、面談・・・椅子から立つようなすべての行動は設定されている。いつも爆音のアラームが教えてくれる。

発達障害の人の特徴として、外的刺激に敏感な部分がある。しかし、彼は音に対してあまりに鈍感だった。昼ご飯は酷い音を立ててすすって食べる。廊下にいる職員から「何の音?毎日ラーメン?」と言われる。毎日米だ。飲み物も同様。天下りおじいちゃんが眠りかけていると、ジュルジュルッ!と水を啜る音で目を覚まさせてくれる程度だ。
朝と休憩時はガラケーでニュース番組を見ているのか、びりびりとスピーカーが震える音量でニュースが流れる。

彼は誠実、もとい愚直な性格からか、営業の電話に説教をする。
好きでやっているわけではなさそうだが、
「LEDですか?うちはもう契約してることろがあるんで・・・話聞くだけになりますよ・・・?はい・・・はい・・・変えませんからね?・・・・・・・はい・・・、なんですか?結局総額いくらなんですか?さっき〇〇円っていいましたよね?設置料?そういうセコい商売やめたほうがいいですよ?あの、お名前なんですか?いや、一旦しゃべらないでもらえます?私の話を聞いてください。・・・・・・・」
といった感じだ。上司は別に相手を責めたくてやっているわけではないのだが、100%真剣にやっている結果、毎日何度もこんな会話をしている。

また、人の話を聞けず、人の顔色を窺えないからか、馴染みの取引先から掛かってきた電話には
「はい、お世話になっております。いやあ、お久しぶりです。今、忘年会の準備してて、忙しくてですね、色んなこと同時にできないんですよね。途中で人数変わったり、あと景品買いに行くんですよ。結構良いものあるんですよ。・・・え?この前の件ですか?ああ、それについてなんですけど、先日理事会があったんですけど。先日ってもう2週間前なんですけど。○月○日でしたっけ?合ってるかな?・・・ああ、はい。まあ、理事長いらしてですね、わたし、お話してみたんです。面と向かって。お時間いただきましてね。ああ、そういえばこの前こちらまでいらっしゃいましたよね?あの時わたしちょっと席外してて・・・ごめんなさいね挨拶できなくて。・・・」
こんな感じで永遠と自分の話をしていて核心に入れない。

しかも、最悪なことに、その最中に携帯電話が鳴ると空いているほうの手で出てしまうのだ。
両手両耳で電話を抱え、あたふたあたふたしゃべりだす。お笑いでもそんなネタやらない。
毎日言葉の全力ドッジボール大会である。しかも人の話は聞かないから、ドッジボールではなくほぼ一方的なリンチだ。



毎日、毎日、毎日・・・。
頼むから仕事をしてくれ。


夏に一度だけ、部長に、なるべく冗談めいたように「あの人、おもしろいですよね」と言ってみた。すごく含みのある言葉だと思う。
部長「ほら、あいつ、発達っぽいじゃん?」
わかっているのかよ。それをわかって、この猛獣のいる檻にわたしだけを投げ込んでいるのか。その時にどっと疲れてしまった。

疲れてしまって、上司のことを無視するようになった。
話しかけてきても「今、話しかけました?独り言ですか?」と返すようになった。
昼休憩は汚い食事音と煩いニュースを聞きたくないから別室で食べるようになった。
事務所にいたくないから外勤を増やして、1分でも外にいたくてコンビニに立ち寄る。
事態の深刻さを知らない他の職員からは「なんかやつれてる?若いんだから、笑顔よ笑顔!」と言われるほど、やつれてきた。


ここまで、上司に対して発達障害と言ったが実際に医療機関での診断があったわけではない。わたしのような素人が安易に発達障害と決めつけることをしてはいけない。さらに発達障害の人に対して歩み寄りの精神を失ってはいけない。だからこの独白は最低だ。最低だからみんなはわたしを叱るべきだと思う。

冬期の職員面談で、わたしは部長から指摘を受けた。
「イライラしすぎ。表に出さないことを学ぼう。もっと笑顔で働いてほしい」
それから、
「今回はそういうことで、人事考課が下がっているからね」



これはわたしがいけなかった。
わかっている。完全にわたしが悪い。
因果応報、自業自得。



いやでも待て。嘘だ。しょうがないでしょ、って正直思う。
わたしだって4月からこんなだったわけじゃない。毎日にこにこして、出勤して、上司の一方的な話を頷きながら聞いて、何度も同じ仕事を教えて、それ以前から仕事は抜かりなく、入職して以来ずっと人事考課は最高ランクだったのに!
道徳心が足りないから?忍耐力がないから?アンガーマネジメントができないから?人間力が低いから!?

・・・いや、本当にそうだとしか言えない。



もう離れるしかない。誰も傷つけず、自分も傷つかない方法は退職しかなかった。
結局、受け入れられない側が悪いのだから。
どこかでわたしは悪くないと思っている時点で、加害者はわたしだ。

本気で部長に相談した。上司をどうにかしてくれ。立場上、あの上司に物申せるのはその上の彼しかいない。部長に、できるだけ丁寧に、上司のマナーに疑問があることを伝えた。部長はそれとなく言ってみるよ、と言ってくれた。
次の日、おはようの挨拶もそこそこに、上司が

「私、どんなところ直したらいいですか?何か困ってませんか?」

と聞いてきた。
わたしは「そういうところです」と心の中で返事をした。誰も頼りにならないと思った。

少しずつ、やさしさが削れて、穏やかさに欠けていく自分を自覚した。
小さなストレスが、溶けずに永遠と降り積もる。
病気だってなんだって、自覚出来た時点で末期なことは承知だった。

わたしは望んで退職するのだ。

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